14
ポケットから鍵を取り出し、正面を見据える。僕の部屋のドアがあった。
眠気がピークに達しているのか、ドアに掛けられた僕の名前のプレートが霞んで見えた。中学生の頃、佐綾の作ったものだった。不慣れに塗られた漆が所々剥がれている。
「君の箱」
後ろで辺田が言う。僕は小さく頷いた。僕の箱だ。色んなことを想像して、外の様々な出来事を想像してきた僕の箱だ。僕の世界の大半はここで作られてきたのだ。
他人を箱に入れた途端、多分僕の世界はまた一つ崩壊するのだろうけど、それでも構わなかった。これ以上、妄想に妄想を重ねて閉じこもっているわけにはいかなかった。
鍵を鍵穴に差し込む。手の震えはもう収まっていたが、回す鍵の重みに驚いた。まだ恐れているのかもしれない。僕は息を吐き、思い切ってドアを開けた。
ドアを開けると、いつものようにあの白い箱が部屋の真ん中を占拠していた。しかし、いつもその上に居るはずだったハコがいない。ハコが居ないこと意外、いつもと同じ、僕の部屋だった。
ハコが居ないことだけが僕に違和感を与える。だがこれから先、僕はハコなんてあるはずもない不透明な存在を見ることなどないのだ。
辺田は即座に鼻と口元を抑えて俯いた。
僕は白い箱に歩み寄る。
あの朝と同じだった。箱は一メートル四方で、傷一つない見事な真っ平らの面を晒している。そして牛乳よりも絵の具よりも濃い白。滑らかな肌触り。吸い込まれそうになるのを頭を振って振り払った。
もう僕は惑わされてはいけないのだ。強く自分にそう念じ、目を見開く。
すると、箱の上の面に何かを発見した。縦に真っ直ぐ引かれた窪みがそこにはあった。迷わず僕はそこに手を掛ける。あそこまで開けるのに苦戦した白い箱が、どうしてか今は開くような気がしたからだ。
ベリベリ、とそんな音が聞こえてた。見ると、箱が少しだけ開いていたのだ。その隙間には暗闇が静かに口を開いていた。
この暗闇を僕は今まで恐れていたのだ。僕は暗闇にずっと閉じ込められていたから、外の明るい世界に思いを馳せていたのだ。そして僕の意識は完全に外の世界を作り出し、外の世界で暮らし始めていた。本当は最初から内の世界に居たにも関わらず。
僕はこの暗闇に打ち勝つ必要があった。いつまでも暗闇を恐れていては僕はいつまでも閉じこもったままだ。
手に更に力をかけ、一気に箱を開いた。
息を呑む音が聞こえた。後ろで辺田が顔を手で覆い、蹲っていた。
最初に僕に感覚を与えたのは、鼻からだった。異臭が鼻孔をついた。腐臭とも言うものかもしれない。生ゴミにアンモニアをかき混ぜたような、そんな強烈な臭い。
箱の中には佐綾がいた。間接も逆に曲がり、身体を無理矢理捻られて箱に押し込められていたため顔は確認出来なかったが、間違いなくこれは佐綾だと僕には分かった。こんな状態でも、佐綾の肌は生前のまま――。
ふと見ると、僕の指に小さな虫が伝っていた。オオヒラタシデムシ。死体の掃除屋。手にとって潰して見ると、あのとき僕の机に入っていた虫の死骸そっくりだった。
何でこんなところに?
手元を再度よく見る。箱の姿が変わっていた。箱はただの段ボールだった。血と汗とよく分からない液体でふやけている。白い箱は、どうやら本当は白い箱ではなく、僕の霞んでいた視界に誤魔化されていただけだったようだ。
佐綾の肌は生前のままなんかじゃなかった。蛆が集り、蝿が飛び交い、佐綾の死体を捕食していた。彼女の肌は変色し、少し膨れ上がっていた。
その瞬間、僕の中に様々な情報が流れ込んできたのだ。それは過去の記憶だった。僕が今まで構築してきた虚構の記憶を押しのけ、それが一気に押し込まれてくる。
今まで感じたことのないほどの頭痛だった。脳に直接針を突き刺されているような痛みに、僕は跪いて頭を抱えた。僕は、ようやく気付いたのだ。
――僕に残ったのは楽しくて素敵な場面の記憶だけだったと思っていたけど、本当は楽しかった記憶なんて一つもなかったんだ。