13 〈挿絵付〉
僕はきっと、すごくやつれた顔をしていただろう。
辺田の視線と声を感じたが、僕にはまるで届いていなかった。
僕は家中を徘徊した。佐綾が居ないというのが未だに信じられなくて、家の中を探し歩いた。リビングを、キッチンを、玄関を、廊下を、仏間を、物入れを。そして、彼女の部屋を掻き回した。
佐綾の部屋は、何もかもが佐綾が居たときのままで、そのせいで僕はいっそう彼女が消えたことを受け入れることができなかった。
電気も付けずに中に入る。カーテンも閉め切ってあって、そこはまるで暗室のようだ。ベッドに触れてみる。冷たい。でも彼女の匂いだけは残っている。
視界の端に白くて細い足が映った。視線を少し上に持ってくると、ベッドの上にはハコが居た。ベッドに手をついたままの僕はハコと目を合わせる。ここまで至近距離でハコと目を合わせるのは初めてだ。
ハコは、やはり先程と同じように笑っていた。僕を嘲笑うかのように笑っていた。僕は敵意をもってハコを睨んだ。
何が可笑しい。目でそう伝えた。ハコはそんな僕が面白いのか、さらに口元を歪めて笑った。口から垂れ下がる和紙のような皮がぷつりと切れて、僕の手の甲に落ちた。
◆◆◆
「何が可笑しいんだ」
――可笑しいよ。佐綾が居ないと分かったときの君の狼狽した姿、すごく滑稽だった。
「君が佐綾を消したんだろう」
――僕だよ。でもその問いはおかしいな。佐綾を消したのは君でもあるのだから。
「僕はそんなことはしない。佐綾は僕の唯一の肉親で、双子の妹だ。今までなんでも二人でやってきたし、考えも共有してきたし、いわば僕の分身みたいなものなんだ」
――あはは、はは。くすくす。
「笑うなってんだ」
――無茶言うなよ。笑い過ぎてお腹が痛いよ。
「だから、何がそんなに面白いんだ」
――佐綾は君の分身と言ったね。その考え方が危険なんだよ。
「どういうこと」
――いいかい、佐綾は君の分身ではない。ただの妹だ。
「そんなことはない。佐綾は僕の分身だ。……分身だった。少なくとも」
――少なくとも?
「少なくとも……」
――君川とかいう男が現れるまでは?
「……」
――分かった、分かった。つまり君はこう言いたいわけだ。小さい頃からずっと一緒にいて意志を共有していた佐綾が、君川という“毒”に犯されてしまった。それで彼女は変わってしまった。君川に二人の関係を崩されてしまい、一心同体同然だった二人の心が離れてしまったと。そういうことだね?
「まぁ、そういうことだ」
――君は分かってないな。人間というものを分かっていない。まぁ、君の場合は分からなくてもしかたないが、でも救いようがないね。
「なんだと」
――いいかい、まず君たちは異性だ。
「うん」
――佐綾は女の子なんだ。彼女だって年頃なんだから、恋くらいするものさ。
「男とか女とか、恋することにそんなの関係ないだろ」
――まぁ、それもそうか。男でも女でも恋はする。でも佐綾には恋を始める材料が君と違って揃っていた。彼女は毎日学校に通っていて、外の世界とのネットワークを広げることが得意だった。
「待てよ、学校に通うくらいだったら僕だって」
――君はほとんど家の中に居たんだ。辺田にもそう言われたばかりだろう。
「にわかには信じがたいけど」
――でも、事実だ。
「だからといって、君川という恋人が出来たからといって、僕に対する接し方がぞんざいになるのはどうかと思うんだ」
――そういえば、思い出してきているね。前までは君川なんて知らない風だったじゃないか。記憶が戻ってきているんだね。
「多少はね。どうでもいいだろ、今そんなことは」
――そうだな、話を戻そう。つまり君は、君川に佐綾というもう一つの自分を奪われた、と思っているようだね。
「分かってるじゃないか。その通りだ。僕はそれが我慢ならなかった」
――それが可笑しいって言ってるんだよ。いいかい、奪われたって解釈がそもそも間違いなんだ。佐綾は君のものではない。もちろん君川のものでもない。人間が誰かの所有物だったり自らの分身だと主張するのは、とんでもない思い違いってことだ。
「そんなことは分かってる。たとえ親子でも縁を切れば他人同然になる。たとえ親類だろうが夫婦だろうが、形式的には他人になることはできる。でもそれとこれとは違うんだ」
――違うって、何がさ。
「これはそういう形式的なことじゃなくて、心の問題だから。たとえ絶縁したって、僕らの意志は共有されている筈だ。遠くにいたって相手のことが分かる。これが本当の一心同体なんだ。それを赤の他人にねじ曲げられることが、僕は我慢ならなかったんだ」
――それで君は、彼女を閉じ込めた。箱に閉じ込めたんだ。
「そうだ。どこにも行かないように。誰の手にも僕の分身を渡さないように」
――そういえば辺田が以前言っていたな。箱に入れると、これは自分の物だと実感できるのだと。あれは伏線だった。やっぱり彼女は前から見抜いていたんだね。
「……」
――どうしたんだい、そんな気難しい顔をして。
「段々、君の言うことが理解できてきた気がする。つまり箱に入れてようやく自分の所有物だと実感できるということは、やはりそれは本当の一心同体ではなかったということだね。彼女を遠くに置くことが、実の所不安でならなかったから、僕は彼女を閉じ込めたんだ」
――それは二人が本当に通じ合っているとは言えない。佐綾はしだいに君の意志とは離れて、怖くなった君が彼女を閉じ込めた。そこには相手の意志など関係なく、ただ君の独占欲を満たしただけ。
「結局、僕のエゴだったわけだ」
――ちゃんと理解できているじゃないか。
「まぁね。悔しいけど」
――さすが僕だ。
「さすが僕だって……何故君なんだ。理解したのは僕だよ」
――僕は君だよ。君は僕。
「なに、いってるの」
――そうだな、分身ってのが本当にあるとしたら、君の分身は僕なんだろうな。証拠に、こうしている今も僕らは意志を共有して会話している。
「そんな」
――信じられないなら、今すぐ自分の姿を見てみるといい。君の姿、僕にそっくりだ。
◆◆◆
ふと、佐綾の部屋に明かりが灯った。ハコはもう居なかった。
振り返ると辺田が心配そうに僕を見ていた。なんと声をかければいいのか迷っているようだった。
僕は腰を上げ、彼女の隣を通り過ぎ、廊下に出る。彼女は黙ってそれに着いてきた。
廊下の先には洗面所がある。洗面所には胸から上ほどを映せる鏡があった。僕は何の躊躇もなくその前に立つ。辺田が息を呑んだ。
「はは」
乾いた笑いが喉から漏れる。
僕の顔は、ハコそっくりだった。
いくらずっと家にこもっていたからって、こんな肌にはならないだろうというくらいに病的な白さだ。髪も白くて、短髪で、遠目には肌と同化して見えるだろう。瞳の虹彩は血のような淡紅色。白い肌の上には所々斑模様のように日焼けの跡があった。僕はきっと日光に弱いらしい。そういえばあの朝、異様に日光が眩しかった気がする。吐き気を催すほどに。
額に張り付いた特別大きい二つの斑点は、目玉のような形をしていた。鏡越しに、その二つの目玉はじろりとこちらを見ているようだった。僕もハコと同じように、四つ目だったんだな、そう思ってすぐに心の中で否定する。ハコと同じようにではなく、ハコは僕の分身なのだ。ハコは僕で、僕がハコだったのだ。
「先天性白皮症」
辺田が横で言った。
「君は生まれつき日の光に弱くて、外に出ることもままならなかった。学校へ行くのも控えざるを得なかったんだよ」
「あぁ、分かってる。よく分かってるよ。これが、本当の僕なんだ」
しばらくこのままにさせてくれ。僕がそう言うと、辺田は黙って僕を見守ってくれていた。
どうしてか、目頭が熱くて仕方がなかった。