12
「……やめよう」
僕はかぶりを振って、辺田の手を振り払った。僕は震えていた。辺田はそんな僕を静かに見下ろしていた。
「辺田は僕に何を望んでいるんだ。贖罪だろ? “あの子”とかいうのに対しての」
「そうだね」
「なら、鏡を見ることに何の意味がある。辺田の意図は分からないけど、そんな回りくどいことをせずに、君たちが僕にそれ相応の罰を与えればいい。ただし僕は何も覚えてないから、君らが僕が何をしたのか教えてくれればいいんだ。それを聞いたら僕も納得して罰を受けられる」
僕は目を閉じ、痛いくらいにこめかみを押さえた。あの白い箱を見た朝から今までのことが、走馬燈のように駆け巡る。何も知らない僕をみんなは忌み嫌い、忌避しているというのに、僕には直接何も言ってくれない。真実を突き付けてくれない。佐綾は耐え難いことのように口を噤み、ただ僕を避ける。君川は怒りにまかせ、一方的な攻撃をぶつけてくる。
「そうだ。事実なんて、本当はないんじゃないのか。それなら合点がいく、だってみんな真実を語ろうとしないだろ。僕が何かしたなんてのは嘘。みんなが僕を陥れようとしているんだ。僕は嵌められているに違いない。なぁ、そうなんだろ」
気付けば僕は弁明を始めていた。辺田も佐綾も何も言わずただ口を閉ざしたままだ。僕はそれが異様に鼻についた。
「答えろよ。“あの子”なんて、本当はいないんだろ。“あの子”ってのは僕を混乱させるための口実なんだろ。僕の記憶にはそんな奴いない。僕の記憶だって完全に無くなったわけじゃないぞ」僕はテーブルを叩いた。「“あの子”は架空の人物なんだ!」
一気に喋った僕の息は乱れていて、肩を揺らして息をしていた。辺田酷く冷静に口を開く。
「あの子はいる」辺田は訂正する。「……いたんだよ。君の記憶にだってちゃんとあるはず」
それ以上何も言わない辺田を、僕は鼻で笑った。
「そればっかりだ。いた、いたって。そんな言葉に何の意味も証拠もない。いたっていうなら、言ってみろよ。僕に真実を教えてみろよ!」
佐綾は隣で怯えていた。それでも彼女がリビングを出て行かないのは、彼女も成り行きを最後まで見届ける義務が自分にもあると感じているからだろう。
辺田が息を吐いた。
「君は、いつまでそんな情けない台詞吐くつもりなのかな」
「何?」
「君はいつも他人任せなんだよ。真実を自ら直視しようともしないで、いつだって嫌なことは箱に仕舞い込む。自分は被害者だって喚いていつまでも妄想の檻に浸かってる。本当は知りたくなんかないくせに。そんな人間に、そんな妄言野郎に、他人は本当の言葉はかけないものだよ」
辺田は諭すように言った。
「そんなに真実が知りたいなら、自分の目で見なさい」
僕は奥歯を噛みしめ彼女を睨み据えた。辺田は全く怯んだような様子はなく、むしろ親が子を叱りつけるような視線を上から浴びせてくるのだ。
「……五月蠅いんだよ」
僕は席を立ち、佐綾の肩を掴んだ。佐綾の怖じけたような声が上がる。
「鏡なんか必要ない。佐綾、どうだ。僕の姿はどう映る。普通だろ? 気味が悪いなんてのは嘘だろ。僕はおかしくなんかない、正常だ」
「やめて――」
「佐綾!」
僕はうめき、佐綾の肩を離してテーブルに手を付いた。吐き気が蘇ってきて、うめき声を上げたまま口を押さえて目を閉じた。
僕は一体何を恐れている。僕の今見ている景色が壊されるわけでもないのに。ただ過去を知るだけなのに。過去はねじ曲げられない。ただ過去にあったことを現在に繋げるだけ。たったそれだけのことなのに。
「そんなに自分で知るのが怖いなら、ヒントをあげる」
立ち尽くしたままの辺田は、そんな僕を見下ろしたまま言った。僕は顔を上げて辺田の顔を見た。その顔は何故か、哀れみのこもった目だった。
「――君は、さっきから誰と話しているの?」
「は……」
僕は意味が分からないという風に声を上げる。
「誰って……辺田と……」
「私と?」
あっ、と聞こえるか聞こえないかというくらい小さな声を僕は漏らした。前髪を掴み、テーブルの角を数秒見つめる。色んな情報が頭の中を回っていて、混乱してしまいそうだった。
何かを思い出し、僕はポケットを探った。ポケットの中には、あのとき辺田がくれた丸められた一枚のプリクラが入っていた。僕は震える手でゆっくりとそれを広げていく。
紙の上で楽しそうに笑う二人の少女。一人は辺田彩子。そしてもう一人。
『これを閉じ込めていいのは、君だけなんだよね』
辺田の言葉が反芻されて、次に君川の最後の姿が脳内をかすめた。この世の終わりを見たような目でホームにしがみつく君川。その口が開かれる。
『……俺は、ただ、彼女に会いたくて、それだけでよかったのに』
僕は全てを理解し――いや、あの君川の言葉を聞いたときから、もう理解していたのかもしれない――悲痛に叫んでいた。
リビングを見回す。もちろん、“あの子”はいなかった。
『――佐綾』
頭を抑えた。君川の言葉が反響し、それがすごく痛くて、頭が割れてしまいそうなくらいで、僕は必死に髪を掻き毟った。
そんな僕を見て、辺田はゆっくり目を閉じた。目の端から涙が伝っていた。
「佐綾は、もうここには居ないんだよ」
テーブルに置かれた佐綾のカップに注がれたコーヒーは、静かに波紋を揺らしていた。