11
佐綾は一人、自分だけ話から取り残されたようにキョロキョロと僕らを見ていた。しかし彼女は必死に会話を聞き逃すまいとしているようだった。僕はそんな彼女の存在を思い出し、声を掛ける。
「佐綾、ちょっと席を外してくれないかな。あんまり面白い話にならないようだから」
「嫌」
佐綾は短くそう言う。その目は毅然としていて、何を言っても聞かないという風だった。辺田は何か不思議そうに僕らを見る。僕は諦めたようにため息を吐き、辺田との会話を続けた。
「ハコが見えるってことは、もしかして辺田も以前は僕のように?」
辺田は首を振る。
「いや、君のように記憶を削がれるってことはほとんど無かったよ。全くって言ったら嘘になるけどね。そもそも箱っていうのは自分の目の届かないように隠すっていう役割もあるから。臭いものには蓋を、ってやつ」
辺田はそこまで言って、頬杖を解き、膝の上に手を置いた。
「でもね、私は箱をそんな風に使ってほしくない。箱は大切なものを守るためにあるもの。それを傷つけたくないから箱があるんだよ」
「待って」
僕は、辺田が責め立てようとするのを制した。
「僕には色々な記憶が欠落しているから定かではないんだけれど、それでも僕が、みんなの言う“あの子”を消し去ったっていう証拠はあるの?」
「証拠はないよ。なんせ彼女自身が見つからないんだもの。でもみんな確信はしてるよ」
「どうして」
言い切る辺田の口調に、僕は語気を少し荒げてしまう。
「あの子と君の仲は、みんなあの子の話から知っているんだよ。最近うまくいっていないんだってね。さらに、君川くんっていう彼氏が出来てからは顕著だった」
辺田は続ける。
「君にとって彼女は唯一、箱の外との繋がりだったんだろうね。君は、君川くんに嫉妬していたんじゃないのかな。君川くんに彼女が奪われてしまうじゃないのか、そう思ったんじゃないの? 箱の中でしか行動できない君は、ぶつけることのできない怒りを彼女に向けるしかなかった。事実、毎日あの子には生傷が耐えなかった」
辺田は、今の僕には理解し難いことを続ける。僕はじわじわと沸き上がる悪寒に苛まれた。消え去った記憶を抉られている。
「そしてある日、あの子が消えて、そしてあなたが学校にやってきた」
「ちょっと、待って。そんな、それじゃまるで、僕があの子が消えるまで学校に来てなかったみたいじゃないか。僕は今まで普通に学校に通っていた。それが僕の残った確かな記憶だ。辺田のその話とじゃ、食い違いが……」
「食い違い? じゃあ聞くけど、君は自分の記憶に絶対の自信があるわけ? 残った記憶に、本当に確実性があると思うの?」
辺田が僕の目を逃がすまいというように捉える。
「それは……現に僕が過去を体験していることが証拠だ。他の誰にも証明できなくても、僕の覚えていること、そのとき感じたもの、見たもの、体感したもの、そういう過去の証拠が僕自身にはある」
「今はそんな哲学的な答えは求めてないよ。君が、例えば幻覚を見ていたんじゃないかって思うの。普通に学校に通っていたっていう幻覚」
「幻覚? どうしてそんなもの見る必要があるんだ。辺田、君こそそんな根拠のないことを……」
「クマ」
そういって辺田は僕の顔を指さした。
「クマが酷いよ。しばらく寝てないんじゃないの。幻覚を見てしまう要因は色々あるし、私も過去に見ていたわけだけど、君の場合、原因は寝不足にあるんじゃない?」
僕は何も言い返すことができなかった。幻覚を見ているなんて自覚はない。しかし、自覚がないからといって、ほんとうに見ていないと言い切れるのだろうか。
「君は幻覚を通して、自分のしたことから逃げているだけなんだよ。悪い事や都合の悪い記憶を箱に閉じ込めて、鍵をかけて。その反動でこぼれ落ちた記憶やありもしないものがたまに見えたりする」
額に汗が滲む。次々と受け入れがたい事実を叩きつけられているような気がして、心臓の鼓動すら耳に痛かった。
押し黙っていると、辺田は畳みかけるように続けた。
「じゃあ質問を変えるけど、最近鏡って見てる?」
突飛もない問いだった。戸惑いながら、僕は答える。
「鏡? あんまり見てないけど、たまに目につくくらいかな」
「自分の顔、どんな感じだった?」
「どうって……」
一体何の質問だろう。僕は怪訝に思いながらも、学校のトイレや、学校の帰り道のショーウインドウに写る自分の顔を思い出した。
「クマが酷くなっているな、とは。それ以外は普通だと思うけど」
「そう……」
顎に手を当て、考え込む辺田。彼女はハコに視線を移し、しばらくして手を合わせる。
「今から鏡を見てみよう」
辺田はジャスミン茶を飲み干し、席を立った。佐綾は何か狼狽したように状況を見守っていた。
「どうして。そんなもの見たって何か変わるわけでもあるまいし」
嫌がる僕の手を、辺田が掴む。
「変わるかもしれないんだよ、現実に気付き始めた今の君なら。君の箱を暴くにはそれしかない」
彼女は確信を持ったように言った。
横目にハコの姿を捉える。僕はハコに縋りたい気持ちだった。何か嫌な予感を感じ取っていた。これまで記憶が欠落してしまったと嘆いていた僕は、ここに来て過去を直視していくのが怖くなってしまっている。
ハコが何か訴えるように、だらりと白い皮の垂れ下がった口を小さく開いた。何を言うのだろう。何か助言してくれるのだろうか。僕はハコの言葉を、藁にもすがる気持ちで待った。
ぞわり、と得体の知れない感覚が襲ってくる。ハコは開けた口を歪め、小さく不気味な笑顔を見せただけだった。