10
「何しに来たの」
少し辛辣な口調で言う僕。辺田彩子は口の端を歪める。
「昨日言ってたじゃん。君の家に行くって。遊びに来たの」あっけらかんと辺田彩子は言う。「まぁ……暴きにきたって方が正解かな、この場合」
意味深に言う辺田。僕は意味が分からないという風に首を傾げた。
「とりあえず上がるね」
図々しい。
辺田をリビングに通す。佐綾は辺田が入ってくるのに気付くと、涙を拭って顔を逸らした。彼女を少し待たせて、僕はコーヒーでひたひたになったテーブルをテッシュで拭く。辺田は難しそうな顔をしてその光景を見ていた。
「お待たせ、そこ座って」
「あ、うん」
座るよう促すと、辺田は逡巡したようにテーブルに着く。彼女は少し迷って、佐綾の右隣に座った。
「コーヒーでいい?」
「お茶があればお茶がいいなぁ」
辺田は頬杖をつきリモコンでテレビのチャンネルを変えながら言う。なんと図々しい。すると彼女は目だけで笑いながら僕の方を振り返る。
「今私のこと、図々しいって思ったでしょ」
「まぁ、正直」
「図々しくなきゃそうそう他人の箱開けるなんて大業はできないんだよ」
もはや言葉の意味を考えるのも面倒臭かったので、僕は何も返事を返さずキッチンへ向かった。
辺田の分のお茶と、佐綾と僕の分のコーヒーを淹れ直し、僕は佐綾の正面に座った。左隣の辺田は、お茶を見て感嘆と声を漏らす。
「おっ、ジャスミン茶じゃん」
「クセの強いお茶だよ。苦手だった?」
「いやいや好物好物。中々センスいいよ、君」
有り難そうに手を合わせて湯飲みを傾ける辺田。佐綾はずっと彼女から視線を逸らして会話すら交わそうとしない。僕は途端に居心地が悪くなってテレビに視線を向けた。
テレビの上にはハコが座っていた。僕はハコの出現にさして驚いたり、反応を見せたりするようなことはなくなっていた。ハコはいつでもどこにでもいることが分かったし、僕にとっては置物のようなものだ。ハコはテレビの上から僕らを見下ろし、これから起こることを見逃すまいとしているようだった。
僕は佐綾や辺田に悟られないようにちらりとハコを見ただけで、すぐに辺田を見据えた。
辺田は何の目的で我が家を訪れたのか。彼女の笑顔の裏に何か欺瞞があるのではないか。そして、昨日あの言葉。
『他人の箱は開けてみるまで分からない』
この言葉の含む意味は一体。
辺田は湯飲みを置き、テレビに目を向けたまま口を開く。
「君川くん、死んじゃったね」
僕は身を固まらせた。動揺を悟られまいと努めて平静を装い、「そうだね」と答えた。
「そうだねって……何とも思わないの? あの子の最愛だよ。あんたの“恋敵”が消えたのに――」
「恋敵?」
僕は意表をつかれたように声を上げた。ますます意味が分からなくなってきた。あの子と僕の関係は一体どういうものなのか。
「君川がぼくの恋敵だって?」
「あ、いやいや。恋敵ってのはあくまで比喩でさ。君がそうじゃないって言えばそれまでだけど。それでもあの子は君にとって大切な人でしょう?」
佐綾が不安げに僕らの顔を交互に見つめていた。僕は手を前に出し、ひとまず質問を断ち切りたいという意志を示す。
「ちょっと待って。どこから説明したらいいのか。とにかく今の僕にはその質問には正確には答えられない」
「どういうこと?」
「なんというか……僕には君川や辺田が指している“あの子”という人物がピンとこない。心当たりがないし、そもそも今の僕は……」
そこで口ごもる僕。辺田は首を傾げて僕を見る。突然こんなことを言い出したのだからきっと彼女も不審に思っているかもしれない。皆が皆当たり前のように、僕と関わり深い人物だと言わんばかりに『あの子』と表現してくる。当人の僕がこんな風な発言をするのもおかしな話だ。
口を閉ざす僕を静かに見つめ、辺田は口を開いた。
「そっか。きっと君は箱に閉じ込めてるんだね」
「閉じ込める?」
「記憶だよ。それも自分にとって都合の悪いものばかり」
辺田の言葉は、不気味なくらいに的を射ていた。僕の感じている現象をぴたりと言い当ててみせたのだ。
「どうして、分かったんだ」
思わず僕はそう返していた。理解者を見つけたつもりでいたのだろうか、これではその通りだと言っているようなものだ。
「だから分かるってば。私も君と同じように箱が好きだから……ううん。私も君と同じように、一度“ハコ”に魅入られているから」
僕は、辺田の言いたいことを一瞬掴めずに唖然とした。辺田はテレビの上のハコに視線を向け、「久しぶり」と言い放った。
ハコはすうっと首を動かし、確かに辺田を見た。それだけで辺田とハコの意思疎通が完了したのか、両者とも僕に目を向けた。
「そういうことだから」
辺田は笑ってそう言った。