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ある日、部屋の隅にぽつんと白い箱が置かれていた。
それは一メートル四方くらいの大きな箱で、取っ手や窪みや鍵穴のようなものはない、完全に真っ白な立方体だった。遠目には何で出来ているのかも分からない。鉄、木、プラスチック、陶器。そのどれにも見えたけど、逆に言えばそのどれにも見えない。
僕は虚ろに霞む視界でベッドの上からそれを眺めた。
いつの間にこんなものが置かれていたのだろう。僕がベッドに入る前はこんなものは無かった。夜中、何度も何度も眠りから飛び起きたときも、こんなものは無かったはずだ。
とすれば、と僕は壁掛け時計に目を向けた。七時三十二分。僕がようやく眠りらしい眠りについて三十分弱。この間に何者かがこの部屋に箱を運んできたことになる。しかしそれはおかしい。僕は部屋の鍵はきちんと締めていたはずだし、窓の鍵だってしばらく開けていない。
頭が重い。いつも以上の鈍痛に思わず頭を抱えた。
僕は鉛で出来たように重い体を起こして、その箱に歩み寄り、手を触れてみる。
すべすべした肌触りだ。新品のガラスだってこんなにすべすべとはしていない。触ってみてもこの箱がどんな素材で出来ているかは分からなかった。傷も無ければへこみもない、牛乳よりも濃い真っ白なその表面に、僕は吸い込まれそうになった。好奇心で持ち上げてみようと試みるが、持ち上がらない。重さもそうだが、取っ手もないつるつるすべすべした正四角形なので、さらに持ち上げにくい。
その後も叩いてみたり揺すってみたりしたが、結局箱について何も分からず、僕は諦めて学校へ行く支度を始めた。
腕に制服の袖を通し、学生鞄を肩に掛け、部屋を出て鍵をする。毎日のように鍵を掛けるようにしているのは僕が不在の時に家族に入ってこられないようにするためで、特に部屋に何があるというわけではないのだが、何というか、誰かに勝手に自分の部屋に入られるというのは僕にとって落ち着かないものなのだ。ここ最近は特に、強くそう思う。何故なのかは不明なのだけれど。
階段を降りてリビングへ向かうと、妹が朝食のトーストを食べていた。僕に気付くと軽蔑するような目で一瞥してくる。どうしてそんな目をするのか、僕には分からない。
「おはよう」
返事は無い。
「おはよう、佐綾」
返事は無い。代わりに彼女のため息が聞こえた。異常にそれが鼻について、僕は少し語気を荒げた。
「おい、あいさつくらい返せよ」
それでも妹は僕を拒絶するように目を逸らすばかりだった。僕は訳が分からなくて、もう何も言えずに立ち尽くすばかりだった。彼女が口を開いたのは、トーストを二度、三度口にしてからだった。
「食欲失せた」
「え?」
「本当、あんた気味悪い」
「何が?」
僕は今まで通りじゃないか。
なのに、何故いきなり気味が悪いだなんて言うんだ。
全く佐綾にそういう言葉を投げかけられる原因が分からなくて、身に覚えがなくて、頭に浮かぶ言葉をひたすら口にして、それから立ち尽くして茫然自失とするばかりだった。
佐綾は言葉通りもう食べる気を無くしたトーストを皿の上に置く。食べかけのトーストがあの正四角形に見えて、何故か僕の胸中に黒いモノがうずめいた。
「お願い、もう学校では話しかけないで」
「佐綾」
「お願いします」
彼女は嫌みったらしく丁寧な口調でそう言うばかりだ。
ふざけるな。意味が分からないんだよ。
佐綾は皿を持ってキッチンへ向かった。僕は大きく息を吐いて、テーブルについて軽く頭を抱える。
僕が一体何をした。思い出せない。人から気味悪がられることをしたっていうなら、思い出せないというのはおかしいじゃないか。思い出せ、僕は何か佐綾に軽蔑されるだけのことをした。昨日はお互い話す時間が無かったからよく分からない。でも一昨日の佐綾はいつもと変わらなかった。何かあったとすれば、僕が何かしたとすれば昨日?
思い出せ、思い出せ、思い出せ。
気付けば、髪を掴み上げるように頭を抱える僕がいた。こういう大事なことを思い出せないというのは、吐き気を覚えるほど気持ちが悪いものらしい。自分の記憶力に絶対の自信があるわけではないのだけれど、それにしてもこれはおかしいじゃないか。
佐綾はもう居なかった。いつの間に出て行ったのか、開け放たれたリビングのドアが風に揺られてきぃきぃと耳障りな音を立てている。風なんか吹いてないのに。