その6
(6)
「二十年前?」
若者は老人に問いかける。
――二十年前
それが特別な事なのかは分からない。唯分からないが今の自分に唯一分かるのは、自分では愛犬の遺骨は探せないという事だ。
百日紅の巨木の下では。
――ならば自分が成すべきことは何か?
現実の世界で響く問いに対して聞こえるのは現実の闇奥から響く声。
「置いて行け、その南蛮錠。そいつは俺が埋める」
老人の鋭い声が鼓膜奥に響く。若者は顔を上げて老人を見る。老人は作業帽を目深く被り、唯手を出している。さもまるでその錠が自分の忘れていた所有物だとも言わんばかりに。
若者は老人の差し出された掌を見た。その掌に山蛭が動いている。まるで老人の血を吸うわんばかりに。いや、それは若者に見えた幻覚かもしれない。掌に南蛮錠を置いた時、現実的視覚として山蛭は見えなかった。唯見えたのは、皺のない綺麗な掌だった。
「愛犬の供養は俺がする」
老人は言った。そして若者に続けざまに言った。
「ご苦労さん」
言うや老人は南蛮錠を受け取り、百日紅の巨木を見た。紅色、桃色が混じる花が見える。謳歌繚乱とも言うべき咲き誇る百日紅の花を見て老人が嗤う。
「やっぱ、願掛けは呪いじゃない。最後は信じ切る者だけに幸が必ずある」
若者は立ち上げる。立ち上がりながら満ち足りた表情の老人を見た。見れば老人は作業帽を脱ぎ、咲き誇る百日紅の花弁を見ている。まるで美しい桃源郷に足を踏み入れた猿が其処に居た。猿はきっと美しい花弁を見て夢を見ているのかもしれない。恍惚地した表情で頬を朱に染めている。
「あの…田中日出夫さん」
若者は老人の名を呼んだ。呼んだが老人は恍惚の世界に居る。居て夢を見ているようだった。
「では、万次さんの南蛮錠。確かにお渡ししましたよ。僕はこれからここを去りますから万次さんの愛犬の遺骨の側に必ず埋めて供養下さい。それとですが、くれぐれもお間違いがないように」
言うと若者はスコップを手にしたままリュックを背負うと百日紅の巨木の下を去って行った。そして去りながら若者は手にしたスコップをぽいと藪の中に放りこんだ。
まるでそれは全く自分の人生で意味がなった物だとも言わんばかりに。