番外編 ホワイトデー その4
「フレデリック!お風呂、すっごく気持ち良かった。ありがとう!」
エステルが笑顔を向けると、厨房から戻ってきたばかりのフレデリックの顔は真っ赤に染まった。
ゆっくり入浴して血行が良くなったエステルの皮膚はかすかに色づいている。くらくらする頭を押さえるかのようにフレデリックは片手を額に当てた。
「……喜んでもらえたら嬉しいよ。エステルに僕を翻弄する意図がないのは分かってるし」
「え?何かおっしゃいまして?」
小さく呟いた声が聞き取りづらかったので身を寄せるようにすると「あ、いや、僕の自制心との戦いだから気にしないで」と彼は逃げるようにテーブルに向かった。
フレデリックが持ってきてくれた昼食はピクニックスタイルの二つのバスケットだった。一つのバスケットの中には熱々の鶏の唐揚げとフライドポテトが入っている。
もう一つのバスケットにはトマトとリコッタのサラダと冷たいデザートが入っていた。サラダはルッコラとベビーホウレンソウをベースにして、赤、黄色、オレンジ色のトマト、アスパラガス、ブロッコリーニが色鮮やかに彩っている。その上にかかっている白いリコッタチーズも食欲をそそるものだった。
「まぁ、美味しそう!」
手を叩いて叫んだエステルのお腹がぐぐぅーっと鳴った。
顔を赤らめるエステルと楽しそうに笑うフレデリック。
フィリップとクロード以外の使用人は今日二人がどこで過ごしているかを知らない。ただ、この一画には近づかないよう指示が出ているそうだ。その辺はフィリップが上手くやってくれるだろう。
二人はカウチでリラックスしながら昼食をとった。唐揚げは嚙んだ瞬間に肉汁がほとばしり、フライドポテトの表面はサクッとしていて中はほこほこだ。サラダもさっぱりしていてとても美味しい。
デザートは白桃のトライフルだ。サヴォイアルディというビスケットにカスタードと生クリームをかけて薄く切った山ほどの白桃を添える。
料理長は冷たい飲み物も用意してくれていた。入浴で体が火照っていたエステルには有難い。冷たいルイボスティーにオレンジを絞ったドリンクは爽やかで幾らでも飲めそうだ。
一杯目を一気に飲み干したエステルがぷはーっと息を吐いた。
「美味しい!さすが料理長ね。私が好きな味を分かってくれているわ」
いつもよりも闊達で表情豊かなエステルに、フレデリックは蕩けるような甘い視線を送った。
「あ、ごめんなさい。つい気が緩んじゃって」
「いや、いいんだ。それがこのホワイトデーの目的だしね」
フレデリックの目つきが真剣になる。
「貴族の生活は窮屈だよね。こんな生活に引きずり込んでごめん。君は居酒屋でとても楽しそうだったのに……」
エステルは優しく微笑みながら彼を見返した。
「ううん。私はここでとても幸せよ。双子と貴方と暮らせる幸せは何物にも代えがたいわ。居酒屋は楽しかった。でも、今もとても楽しいの」
彼の瞳が不安そうに瞬く。
「でも、君は平民の暮らしの方が良かったんじゃないか?だから、自分で部屋の掃除をしたりしているんじゃない?」
突然掃除の話を持ち出されてエステルはきょとんとした顔つきになる。
「え?なんの話?掃除?」
「君が執務室と僕たちの寝室の掃除をしているのを知らなかった。ごめん」
フレデリックに謝罪されてエステルの頬が赤くなった。
「あのね、私が自分で掃除しているって知られたら問題になると思って、フィリップや侍女の皆さんには内緒にしてもらっていたの。でも、寝室とか執務室って、その、私が自分で掃除したかったの。だって……」
「だって?」
彼の視線を感じてエステルの頬はますます熱くなる。
「執務室には機密書類もあるから、あまり人を入れない方がいいかなって。それと、わ、わたしたちの寝室は、その、私とフレデリックだけの秘密の場所でしょ?だから他の人に入って欲しくないというか……」
大きな溜息が聞こえてエステルが顔を上げると、フレデリックが天を仰ぎながら真っ赤な顔をしていた。
「……そうだね。僕たちしか知らない秘密が沢山ある神聖な場所だからね」
エステルは顔が熱くなりすぎて、しゅーっと沸騰する音が聞こえそうだった。フレデリックの顔も赤い。しかし、とても幸せそうに微笑んでいる。
「エステル。分かった。今度から僕も寝室の掃除をするよ。当番制にしようか?」
「え!?フレデリックは忙しいからそんな……」
「僕たちの寝室は二人で掃除するべきだ。今まで気がつかなくてごめん」
優しい声音にエステルの胸はいっぱいになった。彼はいつも自分の気持ちを一番に考えてくれる。掃除を一緒にしてくれるなんて、信じられないくらい良い旦那さまだ。
「フレデリック、いつもありがとう。私がこんなに幸せなのは貴方のおかげよ。掃除までさせてしまうなんて申し訳なくて……」
「いや、いいんだ。お掃除ロボットもあるし問題ないよ。サリーに頼んだらもっと便利な魔道具を作ってもらえるかもしれないし」
「サリー?」
エステルが眉を顰めた。知らない女性の名前が夫の口から出るだけで、ちょっとムッとしてしまうなんて昔の自分からは考えられない。
フレデリックが前世の夫でなくて心から良かったと思った。他の女性を忘れられないなんて言われたら嫉妬に狂ってしまいそうだ。
「ああ、サリーは魔道具師だよ。とても腕が良くてね。お掃除ロボットも彼女が開発してくれたんだ。ちょっとエキセントリックだけど仕事熱心で優秀な女性だよ」
「……そうなんだ」
「エステル……どうかした?頬が……」
知らず知らずのうちにエステルは頬を膨らませていたらしい。慌てて両手で頬を押さえた。
「な、なんでもないの。ごめんなさい」
「エステル、君が考えていることは何でも知りたいんだ。ちゃんと言ってもらわないと僕には分からない。気が回る方じゃないから……」
不安そうな表情を浮かべるフレデリックにエステルは罪悪感を覚えた。勝手に嫉妬して拗ねているだけなんて告白するのは恥ずかしいけど……。
「えっと、私ね、フレデリックがサリーさんを褒めるから面白くないって思っちゃったの。心が狭いよね。ごめんね」
小さくなって詫びるエステル。しかし、フレデリックは真っ赤になって口元を手で押さえながらも笑いがこぼれている。
「フレデリック?」
「あ、いや、いいんだ。エステル、そんなこと謝る必要ないよ。僕はむしろ君のそういうところをもっと見せて欲しいんだ」
エステルは戸惑って目を瞬かせる。
(許してもらえたってことでいいのかな?ヤキモチもそんなに気にならないのか。フレデリックは心が広いな。私も彼を見習わないと)
反省するエステルを愛おしそうに見つめた後、フレデリックは大きな鞄から何冊も本を取り出した。
時間がなくて読めていないエステルの本を持ってきてくれたのだ。
読書好きなエステルは瞳を輝かせる。
「まぁ、いいの?本を読んで?」
「もちろんだ。休みの日もエステルは忙しそうだから、今日はとことんまでのんびり過ごしてほしい」
「ありがとう!」
エステルは晴れやかに笑った。
フレデリックは、エステルが本に夢中になっている間は邪魔せずに隣で自分も本を読んでいて話しかけることはない。それなのにエステルが本の感想を言いたい時は楽しそうに聞いてくれる。
エステルの気分に寄り添う形で一緒にいてくれる。それがとても心地よい。そして、リラックスできる。
合間にフレデリックと色々な話をした。普段はどうしても仕事や子供たちの話になってしまう。今日はどうでもいいようなくだらない話から子供の頃の思い出や関心のある時事問題まで、楽しく会話ができてエステルは心から満足することができた
(英気を養うってきっとこういうことなんだろうな。明日からまた頑張ろうって気力が充実してるわ。今まで生きてきたなかで最高のホワイトデーだった)
「最高の一日だったわ。終わっちゃうのが寂しいみたい」
ピカピカツヤツヤの顔でエステルが笑うと、フレデリックが嬉しそうに彼女の頬に唇を寄せた。
「いつでも言ってくれたら君のためにまた休暇を用意するよ。僕も君を独り占めできて嬉しかった」
完全に二人きりで一日を過ごすのは初めてだったかもしれない。それに誰に気を使うことなく部屋着にすっぴんで一日中過ごすのも。
エステルはフレデリックの首に自分の腕を巻きつけて、薔薇のように華やかな笑みを浮かべた。
「大好き……ありがとう」
ハッピーホワイトデー(#^^#)!




