番外編 グルメ記者の物語 その2
イエナに行くのは久しぶりだ。俺は心臓の鼓動が周囲に聞こえるんじゃないかと思うくらい緊張していた。
タパス・ガルニエに行くと、昔と変わらない看板を見て俺は大きく息を吐いた。
「懐かしいな」
扉を開けて中に入ると「いらっしゃいませ~!」という明るい女性の声がした。
(サリーという名前だったな。昔とほとんど変わらない)
感慨深く店内を眺めているとサリーに声を掛けられた。
「お客さん、以前ここにいらしたことがありますよね?」
(下手に嘘をつかない方が怪しまれないだろう)
俺は笑顔を向けながら愛想よく答えた。
「ああ、八年前くらいに何度かお世話になったな。今も料理は変わらないか? 茶碗蒸しとかいう卵料理が美味かったと覚えている」
「まぁ!」とサリーの顔が輝いた。
「そんな昔なのにメニューを覚えて下さっているんですね! 嬉しいです。また来てくださって、ありがとうございます!」
俺は茶碗蒸しと今日のおすすめ定食を注文した。アツアツの湯気が立ち昇る茶碗蒸しにそっとスプーンを入れる。ふるふる揺れる塊を口に含むと濃厚だが洗練された旨味が口一杯に広がった。
(やっぱり美味いな。しかも昔より味が上がっている。料理人のマットとサリーは結婚したんだろう。厨房でちょろちょろしているのは二人の子供か?)
周囲を観察しながらも、俺は一心不乱に茶碗蒸しを食べ終えた。
その後、定食を持って来てくれたサリーにブルトン・プレスの名刺を出すと、彼女は頬に手を当てて「まぁ!」と感心したように呟いた。
「お店の取材をさせて頂きたいので、休憩の時にお時間を取って頂けますか?」
小走りで厨房に入ったサリーは笑顔で戻ってきた。
「二時にランチが終わりますので、その後でしたら料理長のマットがお話しできるそうです」
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「ブルトン・プレスは首都で人気の新聞ですよね? すごいわ! そんな立派なところの記者さんが取材に来て下さるなんて!」
サリーが感動したように両手を胸のところで組んだ。しかし、彼女の隣に座る料理長マットの表情は硬い。取材を歓迎していないようだ。俺のことを怪しんでいるのかもしれない。
ま、当然かもな。名刺なんていくらでも偽造できる。それくらい用心深い方が安心だ。
「レナードさん、ここは首都から遠い辺鄙な場所にある。この店が首都の新聞に取り上げられたって客が来るわけじゃない。それに俺は常連客を優先したい。新聞に載って一過性の客が来るのも迷惑なんだ。だから取材は遠慮させてもらいたい」
きっぱりしたマットの言葉にサリーはガッカリした表情を見せたが、反論するつもりはないのだろう。小さく頷いた。
「マットの言う通りです。ここは小さな食堂ですし、基本的に私とマットの二人で切り盛りしています。観光客の方が多くいらしたら対応しきれなくなってしまうと思います。料理やサービスの質を下げたくないですし」
しまったな、と俺はちょっと焦る。
わざわざここまで来て、取材できなかったなんて編集長に言えるか!?
「いや、でも、一時期エステル様が王太女になった時にブームが起こって客が押し寄せたって聞いてるが……」
「エステル様のことを知っているのか?」
一瞬マットの視線が鋭くなり『しまった、喋り過ぎたか』と内心焦ったが、それを表には出さない。
「ええ、もちろん。大変な有名人じゃないですか? 新聞記者の端くれなら知っていて当然でしょう。それに客が大勢押し寄せたっていう記事を読みましたよ」
「まぁ、そうか……」
マットが渋々という感じで頷くと、サリーが焦ったように口を挟んだ。
「あの時は私とマットの家族や友人たちが総出で手伝いにきてくれたんですよ。じゃなかったら乗り切れませんでした」
「レナードさん、しばらくここに滞在されるんでしょう? 取材については何日か考えさせてもらえますか? 常連さんの意見も聞きたいし」
ちょっと逡巡するようなマットの言葉に俺は大きく頷いた。
「もちろんです。私は十日ほどこの町に滞在して、他の店や旅館も取材する予定ですから。また寄らせて頂きます! 宜しくご検討をお願いします!」
勢いよく頭を下げると、マットとサリーが「頭を上げて下さい」と苦笑した。
タパス・ガルニエは美味い店だ。本格的で美味い食事は手間暇かけて調理されている。それなのに庶民向けの価格帯なのも有難い。俺は是非ブルトン・プレスでこの店を紹介したかった。
その後、俺はイエナの町を探索した。美しい街並みの中に歴史を感じさせる遺物も多く、観光客は喜ぶに違いない。過去の戦争で破壊されなかった古い建物も残っている。
平和であればこそ旅行を楽しめる。そういう意味でも地方への旅行を促進すれば、人々の戦争忌避の感情は高まるに違いない。国の経済も潤うだろう。人々の移動が増えれば、旅人の安全を守るため各領主たちが治安維持やインフラ整備に動き出し、そこで雇用も生まれる。うん、良いことづくめだ。
***
一週間後、昼食を食べようと再びタパス・ガルニエの扉を開けた瞬間、俺は妙な違和感に気がついた。
「いらっしゃいませ!」と笑顔を向けるサリーだけじゃない。何人かの客の視線もこちらを向いている。
嫌な予感が全身を貫いた。
(これはヤバいっ……)
俺はすぐに踵を返して店に入らずに逃げようと思った。
しかし、振り返った途端に目に入ったのは小柄な愛らしい女性の姿だった。旅支度の女性は真っ直ぐに俺の目を見ながら大きな笑顔を浮かべた。
「お久しぶりです。その節は大変お世話になりました」
深々と頭を下げる女性と対峙して俺は情けなくも狼狽えた。
「いや、こちらこそ……お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
頭を掻きながら会釈するしかできない。
「まぁ、私のことを覚えておいでですか? 絶対に忘れられていると思っておりましたわ」
彼女のリスのような瞳が大きく見開かれる。
(忘れるはずないだろう。つーか、そっちが覚えている方が驚きだ)
俺は内心呟いた。
「ダフニー・ロベール嬢。あなたのことははっきりと覚えていますよ。ラファイエット公爵ご夫妻はご健勝であらせられますか?」
「はい。もちろんです! 是非公爵邸にご招待するように申しつかっております。馬車を待たせておりますので、良かったら一緒に来ていただけないでしょうか?」
マズイマズイマズイマズイ。
後ろ暗いことだらけの俺がまさかラファイエット公爵に会うことになるなんて予想だにしていなかった。
「えっとですね……実は私はここに仕事で来ていまして……遊びにきている訳じゃないので……」
しどろもどろで訴える。
「フレデリック様がブルトン・プレス社に急ぎの使者を送りましたわ。高名なグルメ記者であるレナードさんをヴァリエール王国のラファイエット公爵邸にご案内し、最近開発したばかりのカレーソースという新しい料理について取材して欲しい、とお伝えしたところ、編集長から『是非宜しくお願いします』との返信を頂きました。ですから、お仕事の方は何もご心配なさらなくて大丈夫ですのよ」
明るく告げるダフニーに俺はもう白旗を上げた。もう逃げきれるものじゃない。ヴァリエール王国で俺はお尋ね者になっているのかもしれない。
もう自由な生活はお終いだ、と思うと絶望的な気持ちになる。ダフニーの善良そうな笑顔さえ腹立たしい。
しかし、自分が犯した罪は償わなくてはならない。俺は深く息を吐くと覚悟を決めた。




