番外編 フレデリックの異変
*エステルとフレデリックの結婚前のお話。フレデリック視点です。
「……んなさま……だんなさま……旦那様!」
(誰だ? フィリップ……?)
ラファイエット公爵家の忠実な家令フィリップの声が聞こえて、水の中でゆっくりと浮いていくような感覚と共にハッと目が覚めた。
「あ、ああ……すまない」
フレデリックは執務室の机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。
(最近、忙しかったからな)
ふぅっと深いため息をつく。
「来ていたのか」
「たった今参りました。旦那様、このような場所で寝ると体調を崩します」
フィリップが顔を覗きこむように声をかける。随分心配そうだ。
「ああ。すまない。少し気が緩んだだけだ……ライリーはどこに行った?」
さっきまで一緒に仕事をしていたはずの秘書官の姿が見当たらない。
「昼食休憩かもしれません。旦那様、根を詰めすぎです。今日はもうお休みになられたほうがよろしいのでは?」
「そうだな……。この書類は明日でも間に合うか」
机に鎮座する一センチほどの厚みのある書類を憂鬱そうに見ながらフレデリックは呟いた。
「ええ。そうなさってください。廊下を通りかかった時にいびきが酷かったので、さぞかしお疲れなのではと心配に……」
「いびっ……き⁉」
フレデリックの顔が強張った。サーッと血の気が失せたように顔色が白くなる。
「さっき眠っている時に? 僕はいつもいびきをかいているのか?」
「尋常ではない異様ないびきでございました。私は初めて聞きましたが…。旦那様が寝ているところを拝見する機会はほとんどありませんので……」
フィリップの困惑はもっともだが、フレデリックにとっては切実な問題である。
いずれエステルと結婚し寝室を共にする予定だ。心待ちにしていると言ってもいい。
尋常ではない異様ないびきの夫を彼女は受け入れてくれるだろうか?
いや、無理だろう。もしかしたら新婚早々寝室を別にしたいなどと言われてしまうかもしれない。なんて恐ろしい…。
「普段の旦那様の声とは違っていました。苦悶に満ちた異様な唸り声のように聞こえました。ただ机に突っ伏しておられたので、おかしな体勢のために異様ないびきになってしまったのかもしれません。きっとたまたまでございますよ! たまたま!」
真っ青な顔のフレデリックにたまりかねたようにフィリップが言いつのる。
「でも、そんなの誰かが一緒の寝室にいて確かめるしかないだろう?」
思いつめた表情のフレデリックが立ちあがった。
***
「はっ⁉ ……嫌ですよ。そんなの。誰か他の人に頼んでください!」
鍛練の休憩時間に突然当主に捕まり、意味不明な頼みごとをされたラファイエット騎士団団長クロードの顔には全面に『迷惑だ』と書いてある。
「僕がいびきをかくかどうか…もしそうならどの程度酷いのか、同じ部屋で寝て教えてほしいんだ! それだけなんだ!」
「……エステル様にお願いしたらどうですか?」
「駄目だ! 僕がいびきをかくかもしれないなんて彼女には知られたくない。幻滅されたらどうする?」
「いびきくらい……気になさらないと思いますけどね。懐の広い方だから」
「いや! 僕がいびきをかくなんて彼女に思われたくない! お願いだ」
必死に懇願するフレデリックは諦めない。
「頼む! 今夜だけだから!」
クロードは仕方ないと大きなため息をついた。
「分かりました。今夜だけですよ!」
「助かる! さすがクロードだ!」
フレデリックはほっとしたように頬を緩めた。
***
とんとん
翌朝、ノックの音が聞こえてフレデリックの意識は徐々に覚醒していった。
誰かの温かい腕に包まれて眠っていたような気がする。久しぶりに熟睡できた。
「フレデリック~! おはよう!」
「あのね~、今日は……」
「ココ! ミア! いきなり入っちゃ駄目よ! フレデリックは疲れているんだから……それにノックをしたら、ちゃんと中からの返事を聞いてからじゃないと扉を開けちゃ駄目って……え?」
(ああ……双子とエステルの声がする……幸せな朝だ…)
フレデリックはまだ半分眠っていた。
「旦那様、おはようございます」
妙に色気のある低音ボイスが耳元で聞こえてフレデリックはハッと身を起こした。
「クロード!? なんでお前が……? そういえば……」
自分がいびきをかくのかどうか確認してほしいと頼んだのが夕べ。
我が身を振り返ると、しどけない姿で寝台に横たわっている。しかも、クロードの腕枕で背後から抱きしめられるようにして……。
(道理で夕べは温かくて……いや違う! 何故クロードは僕を抱き枕のようにして寝ていたんだ⁉)
パニックに陥るフレデリック。
「あ、あああの、ごめんなさい! お邪魔してしまって……」
真っ赤な顔のエステルが後ずさりして部屋から出ていこうとするのでフレデリックは必死になって止めた。
「ま、まってくれ! ちがうんだ、これは……! その……とにかく違うんだ!」
「一体何の騒ぎですか?」
その時、救世主のように登場したのは忠実な家令フィリップだ。
「あ、あああああ! 良かった! フィリップ! どうかエステルに説明してくれ! 僕は深い事情があってクロードに同じ部屋で寝てくれるように頼んだだけなんだ!」
「ふ、ふかい事情……?」
ココとミアの目を両手で覆い隠すようにしてかがみこむエステルの顔が怪訝そうに傾いた。
「……旦那様、私もその深い事情とやらは存じあげないのですが?」
「いや、だから、昨日フィリップは僕の異様な声を聞いただろう? それが夜も発生するのかどうかクロードに確認を頼んだんだ」
「ああ、なるほど!」
フィリップは握りこぶしで手のひらをポンと叩くと合点がいったというように頷いた。
「エステル様も昨日旦那様の異様な声をお聞きになったでしょう?」
「え⁉」
エステルに問いかけるフィリップにフレデリックの顔が青ざめた。冷や汗が背中を伝う。
「え、えええええすてるも昨日の僕の声を聞いたのか……?」
「はい。申し上げませんでしたでしょうか? 異様な声が聞こえたので旦那様の執務室の扉をノックしましたら、ちょうどエステル様がそこから出てこられるところだったのです」
「エステルが?」
ぽかんとエステルを見つめると彼女の頬が急速に赤く染まっていった。
「あ、ああの、ごめんなさい! 昨日フレデリックの執務室に忘れ物をしてしまって、取りにいったんです。秘書の方が扉を開けて中に入れてくださったの。秘書さんは用事があると部屋を出ていってしまわれて……。中に入ったらフレデリックが眠っていたので『ああ、疲れてるんだな』って……つい……つい」
エステルに目を覆われていたココとミアが彼女の手を振り払って大声を出した。
「ママ! まさか!」
「どうして⁉ どうしてそんなことをしたの⁉」
「もう二度としないって約束したのに?」
「ご、ごめんなさい! つい出来心で……」
エステルの顔は沸騰したように真っ赤だ。
ココとミアの剣幕にフレデリックたちは戸惑ったが、エステルは恥ずかしそうに体を縮こませてもじもじしている。
(もじもじしているエステルも可愛い……)
思わず見惚れてしまったが、ハッと我に返ると「どういうことだい?」と双子に尋ねた。
「ママはね! 歌がとってもへたなの!」
「鼻歌はふつうなのよ。でもね、歌を歌うと……なぜだか声がひくくなってね……」
「あくまが呪いのじゅもんを唱えているってご近所さんのうわさになって……」
「きょうかいからあくまばらいの人がきたこともあったわ!」
ココとミアが興奮して言いつのる間、エステルは耳も首も真っ赤にしながら両手で顔を隠している。
「ご、ごめんなさい! もう歌は歌わないって…そう誓ったはずなんだけど! でも、フレデリックの寝顔を見ていたら…。あまりに可愛くて無垢な寝顔に思わず子守歌を歌ってしまったの!」
「え!? まさか……あの異様な唸り声は……?」
フィリップが顔を引きつらせた。
「ええ……おそらく私の歌声ですわ」
エステルは身の置き所がないとばかりに身をよじっている。
「がーはっはっは!」
まだ寝台にいるクロードが腹を抱えて笑いだした。
「結局、旦那様はいびきなんてかいていなかったということですね! 夕べも静かなもんでしたよ。良かったじゃないですか?」
「いびき? フレデリックが?」
クロードが明るく言うとエステルはきょとんとした表情を浮かべる。そんな顔もカワイイ。
「大変申し訳ありません。執務室から聞こえてきて、入室すると旦那様が机で眠っておられたので、旦那様のいびきと勘違いしてしまったのです」
「え!? いいえ! それは私です。私が悪かったのですわ! ごめんなさい!」
頭を下げて詫びるフィリップに負けじとエステルも深くお辞儀をした。
「あとは旦那様ご自身がご説明ください。さ、ココ様、ミア様、紅茶を淹れますのでおやつにしましょう。クロードも……」
気づくと全員を引きつれてフィリップが退室してしまい、フレデリックはエステルと二人きりで残された。
「あ、あの! 本当にごめんなさい! フレデリックはいびきなんてかいていなかったわ! 全部私のせいなの!」
話の流れで事情を察したらしいエステルが謝り始めたので、フレデリックは優しくそれを止めた。
「君が謝ることなんて何もないよ」
「でも……幻滅したんじゃない? 私の歌がそこまで酷いだなんて……。異様とまで言われて…」
真っ赤な顔のエステルは少し涙目になっている。
「いや……。可愛いなって思うだけだけど」
「え……? どうして? 酷い歌声の女なんて嫌じゃない? ダンスはできるからリズム感とかは大丈夫だと思うのだけど、歌おうとするとどうしても駄目なの」
しょんぼりと肩を落とすエステルを見て、愛おしさが胸に溢れた。
「君にも苦手なものがあると知って僕は嬉しいよ。親しみを感じられるというか……可愛いから」
そう言いながら彼女の華奢な肩を引き寄せる。莫迦の一つ覚えのように『カワイイ』という言葉しか出てこない。
「本当に?」
潤んだ瞳で見上げるエステルを思いっきり抱きしめた。愛おしすぎて胸が苦しい。
「ああ、歌声ごと君を愛してる。……あと僕がいびきをかいていなくて良かった。君の安眠の邪魔をしてはいけないからね」
「そんなこと……。私はちょっと残念だわ。あなたがいびきをかくのだったらそれを聞いてみたかった」
悪戯っぽい笑顔も可愛い。フレデリックは完全に語彙力を失っていた。
「エステル……君は…僕がいびきをかいても嫌いにならない?」
「なるわけないわ! いびきでも……どんな短所があっても私はフレデリックを愛しているから……」
(まったく……どうしてこんなにカワイイことばかり言うんだろう)
心臓が締めつけられるように痛い。どれほど彼女が好きなんだと我ながら呆れてしまう。
(ああ、もう我慢できない……)
フレデリックは蕩けるような甘い眼差しでエステルの顎に指をかける。
頬を上気させて恥じらうエステルの顔を上向かせると、柔らかい唇にそっと自分の唇を重ねた。