番外編 フレデリックのトラウマ
*フレデリックの過去の話です。ちょっと辛い話なのでご注意ください。
フレデリックは十歳の頃、とある貴族令嬢のお茶会に招待されたことがある。
正直、気は進まなかった。
それまでにもお茶会に誘われて、フレデリックを巡って複数の令嬢が喧嘩を始めたり、『どちらが好き?』などと初対面では答えようもない答えを求められたり、ろくな目に遭ったことがない。
しかし、貴族として社交を避けるのは難しい。
過保護だった父は『無理に行かなくてもいい』と言ってくれたのだが、その通りにしてしまうと自分が一人前ではない証拠になりそうでかえって従いにくかった。
思い出したくもない、と思っていたら、本当に名前も忘れてしまったが、どこかの伯爵令嬢だったと思う。
当時は執事だったフィリップが付き添いで来てくれたので、まさかあんなことになるとは予想もしなかった。
美しいテーブルセットが並べられた部屋に入ると、多くの令嬢と令息が談笑していたので普通のお茶会だと信じて疑わなかったのも当然だろう。
公爵家の一人息子であるフレデリックが入室すると一瞬ざわっと空気が変わったが、いつものことだと案内されるまま席に座った。
既に頭が痛い……気がする。
もともと極度の人見知りで、人が多い場所は苦手だ。
積極的に会話に加わることもなく、ぼんやりとお茶を飲んでいたらますます頭がぼーっとしてきた。
その時、ふと足元に柔らかい感触を覚えた。
テーブルの下を覗き込むと子猫がみゃーんと鳴いている。
(可愛い!)
思わず手を伸ばして抱き上げても嫌がらない。
ずいぶん人懐っこい猫だと滑らかな背中を撫でていると、お茶会の主催者らしき令嬢が近づいてきた。
「まぁ! フレデリック様、猫を捕まえてくださったのね! 良かった。逃げ出してしまって困っていたのです」
甲高い声の令嬢は、頬を赤く上気させて目をらんらんと光らせている。
関心がないからはっきりと覚えているわけではないが、どこかで会ったことがあるのかもしれない。
今年魔法学院に入学したそうなので十五~六歳だろう。彼女も腕に猫を抱いている。
(飼い猫が二匹、逃げ出したってことなのかな?)
「猫を部屋に戻したいので、申し訳ありませんが猫を抱いたまま付いてきていただけます?」
猫を二匹逃がさずに抱いていくのは難しいだろうし、自分の腕の中の子猫は満足げに喉を鳴らしている。
黙って頷くとフレデリックは令嬢の後について部屋を出た。
フィリップの姿は見えなかったが、すぐに戻ってくるし問題ないだろう。
階段を上り小さな部屋に入ると令嬢が扉を閉める。彼女が猫を床に降ろしたので自分も猫を放してやると二匹とも大きな寝台の下に潜りこんだ。
この部屋の空気は少し色づいているような気がして気分が悪い。
さっきから頭がぼーっとしていたが、それが一段と酷くなった。立ち眩みがして頭がぐらぐらと揺れる。
「まぁ、フレデリック様、お加減が悪いのですか? お顔の色が悪いですわ」
わざとらしい声で令嬢がフレデリックを寝台に連れていった。
「どうかゆっくりおやすみください。服も窮屈でしょうから脱いだほうがよろしいわ」
彼女がフレデリックのシャツのボタンに手をかけるのを必死に食い止める。
「やめろっ、戻る!」
「あらあら、そんなご無理なさらないで。ここは暑いですわね。私も楽にさせていただきますから」
令嬢は自分のドレスを脱ぎ始めた。
(なんで服を脱ぐんだ!?)
パニックになったフレデリックは恐怖で叫びたくなった。
どぎつい香水の匂いが部屋に充満する。
フレデリックの全身に鳥肌が立った。
(逃げろっ! このままだと……)
想像しただけで背筋がぞっとする。
頭も体もふらふらだったがフレデリックは必死で寝台から立ち上がり、部屋の扉を開けようとした。
しかし、いつの間にか鍵がかけられている。
絶望的になりながらもフレデリックは窓を目指した。
幸い魔法には自信がある。
《壊せ(フランゲ)》
叫びながら窓に向かって飛び込んだ。
屋敷の三階から飛び降りて三か所の骨折と擦り傷で済んだのは幸運だったのだろう。
大きな植え込みがあったおかげかもしれない。
意識を失う前に蒼白になったフィリップの顔が見えた気がした。
***
その後のことはよく覚えていない。
フレデリックは高熱を出してしばらく寝込んでしまった。
ただ、父親のラファイエット公爵が激怒していたのを覚えている。
フィリップがきつく叱責されていたのが気の毒だった。彼は口実をつけてお茶会の会場から出されていたらしい。
お茶の中から判断力を弱らせるような睡眠薬が検出され、さらに同様の噴霧型薬剤が部屋の空気に含まれていたことも判明した。
フレデリックを襲った令嬢は以前に彼を見かけて一目惚れし、何としても彼と結婚したいと両親に訴えたそうだ。
親としても公爵家の嫡男との結婚は願ってもない縁談である。
フレデリックにはまだ婚約者がいなかった。だから既成事実を作って迫れば娘が婚約者になれるだろうと浅はかな計画を立てたらしい。
まさか窓を破壊して飛び降りるほど嫌がられるとは予想していなかったようだ。
ただし、公爵家の嫡男に薬を盛り、部屋におびき寄せて襲うのは重大な犯罪である。しかもフレデリックは重傷を負った。
その場にいた人間は全員厳しく聴取され、犯罪を企てた伯爵家は廃爵されて一族は国外追放になったと聞く。
同情する気にもならなかったが、あの恐ろしさは忘れられない。
今でも悪夢を見ることがある。
ハッと目が覚めて荒い息をする自分が情けない。
ねっとりと甘ったるい香水の匂いや、相手の気持ちを無視して自分の欲望しか考えていない令嬢のぎらついた目つきを思い出すと鳥肌と寒気が止まらなくなる。
その事件以来、父親はますます過保護になり魔法学院に入学させずに自邸で教育する道を選んだ。
フレデリックも完全に女嫌いになり、どんなに美しいといわれる令嬢を相手にしても冷徹な表情を崩すことはなくなった。
エステルと出会うまでは……。
彼女が経営する料理屋に行った時、初対面のはずのエステルを見て不思議と懐かしいという感情を抱いた。
のちに彼女が初恋の人だったことが判明するのだが、エステルは最初から他の女性とは違っていた。
媚びることのない落ち着いた声や仕草。
自分の意見をしっかりと伝えられる自立した態度。
ココとミアへの深い愛情。
料理屋での礼節をわきまえつつも思いやりのこもった接客。
時折見せる少女のような初々しい表情。
鈍感なところも可愛いと思った。
全てが新鮮で、こんな女性が本当に存在するのか?と何度も自問自答した。
料理屋で彼女の姿を目で追いながら胸の高鳴りを抑えられなかった。
貴族令嬢の中にもまともな女性はいたのだろう。エステルだって貴族令嬢だったのだから。
でも、こんなに心惹かれたのは彼女が初めてだった。
彼女の心をどうしても手に入れたい。
しかし、何をしたらいいか分からない。
自分の恋愛経験の無さが恨めしかった。
ラファイエット騎士団団長のクロードは女性経験が豊富だと聞いて、彼に助言を求めたこともある。
試行錯誤した挙句、不器用で間違った選択をしてしまったこともあっただろう。
それでも幸運にも彼女と両想いになることができた。
フレデリックはしんとした寝室を見つめて寂しくため息をつく。
エステルとココミアは隣国ブルトン王国にある居酒屋に数日間の予定で遊びにいっている。
(彼女達の声が聞こえないだけでこんなに静かになるのか……。今日、戻ってくるはずだけど……)
たった数日エステルが留守にしているだけで取り残されたような心もとない気持ちになってしまう。
いつもは忘れているような嫌な記憶が不意によみがえったのも彼女がいないせいかもしれない。我ながら情けないと自嘲する。
その時、屋敷の正面玄関の方が騒がしくなった。
(もしかして⁉)
希望に胸をふくらませて階段を駆け降りる。
仮にも公爵家の当主なのだから落ち着け!とも思いつつ、はやる気持ちを抑えることができなかった。
正面の扉が大きく開いて家令のフィリップがちょうどエステルと双子を迎えいれているところだった。
「おかえりっ!!!」
思っていたよりも大きな声が出てしまった。呆れたようにフィリップが苦笑いを浮かべる。
「中でお待ちくだされば良かったのに」
「待ちきれなかったんだよ!」
二人のやり取りを聞いてエステルがくすっと笑った。
「どうしたの?」
フレデリックの問いにエステルは薔薇のような笑顔で答えた。
「なんだか、初めてこのお屋敷に来た時にもフレデリックとフィリップが似たような会話をしていたなって」
「え? そうだった?」
照れて頬が熱くなる。
「あの時も君達が来るのが待ちきれなくて、朝からずっと落ち着かなかったんだ」
(なに子供みたいなこと言ってるんだ。カッコ悪い……)
ふと顔を上げるとエステルの顔も真っ赤に上気している。
「ど、どうしたの? 大丈夫? 熱でもあるんじゃ……」
フレデリックが近づくとエステルが必死に首を振った。
「ち、ちがうの! 平気よ! ……ただ、私もあなたに会いたくて、急いでくださいって御者さんにお願いしたの。寂しかったから……」
愛おしすぎて頭がくらくらした。フィリップ達の目がなかったらその場でエステルを抱きしめていたことだろう。
「ママね、『フレデリックはなにしてるかしら?』とかしょっちゅういってたよ」
悪戯っぽくココが言う。
「『ちゃんとたべてるかしら?』とか『ねむれてるかな?』とか」
ミアも揶揄うように二人に笑いかけた。
「そ、そんなにしょっちゅう……言ってたかしら?」
「「うん!!!」」
元気な双子の返事にエステルの顔は蒸気がでそうなくらい火照っている。
「エステル、荷物は僕が運ぶよ」
(僕は常に落ち着いたカッコいい男でいたい。だから、こんなに可愛いエステルを見ても平静を保たなければ……)
自分に言い聞かせて脈打つ心臓をなだめつつエステルの鞄を持って階段をのぼる。
寝室に入り二人きりになるとエステルが大きく伸びをした。
「あ~、やっぱりここに戻ってくると落ち着くわ。帰ってきた、って感じ」
「……そう、思ってくれる?」
自信なさそうな小さな声しかでない。
エステルが驚いたように目を丸くした。
「フレデリック? どうしたの? さっき会った時も思ったの。ちょっと元気ないなって。何かあった?」
「いや、昔の嫌なことをちょっと思い出しただけだ。ごめん。無事に帰ってきてくれて良かった。君が僕のいるところを『落ち着く』と言ってくれて嬉しい」
エステルが柔らかい笑みを浮かべながらゆっくりとフレデリックに近づく。そして彼の胸に飛びこむと背中に手を伸ばしてぎゅーーーっと抱きしめた。
(だ、抱きしめたかったのは僕なのに……)
動揺するフレデリックの顔をエステルは心配そうに覗きこむ。
「フレデリックは苦労してきたものね。並外れた容姿っていいことばかりじゃないわ。少しでも気が楽になるなら嫌なことも辛いことも何でも話してほしい。……私もそうするから」
「カッコ悪くないかな……?」
「全然! 何でも話せるから『落ち着ける』のよ」
「そ、そっか……」
「ココとミアとフレデリックのいるところが私の帰る場所。一番幸せだと思える場所なの」
「僕もだ……」
言葉にできない衝動に駆られてフレデリックはエステルの華奢な体を思いっきり抱きしめた。爽やかな石鹸の香りが鼻をくすぐる。
「エステル……。君のおかげで僕も安らぎを覚えたんだよ」
「嬉しい……」
ゆっくりと互いの目線が交わった。愛おしさに胸が震える。
フレデリックはそのまま身をかがめて優しく唇を重ねた。