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ドアスコープの反転

作者: 安西 圭

 きっかけは、五歳のときだった。良太も多くの子供たちと同じように、夏祭りに心躍らせていた。もっとも実際のところ彼らの興味の対象は、立ち並ぶ屋台と暗くなってから外に出られる特別感であったが。良太は母にねだって、お面を買ってもらった。彼の大好きな特撮ヒーローのお面だ。目のところが半透明で、前が見えるようになっている。黄色い目を通して見た世界は、ひどく非現実的に映った。すれ違う大人たちが、ほほえましげな表情で見てくる。その視線と相対したとき、良太はたまらなく愉快に感じた。当時、まだ本人にもその理由はわからなかった。大人がそう勘違いしていたように、憧れのヒーローと一体化した感覚に酔っているのだと思っていた。彼が自身の窃視趣味に気づくのは、もう少し先のことである。


 良太は、人と目を合わせるのが苦手であった。そんな彼に、青春時代は優しくない。彼がよく本を読んだのは、本しか友達がいなかったから。それでも、少なくとも無理に誰かと関わろうとするよりは、本を読むのが好きであった。彼は江戸川乱歩を愛読した。特に気に入ったのは「屋根裏の散歩者」であった。下宿の屋根裏に忍び込み、節穴から住人の暮らしを観察している自分を想像する。その頃にはもう、彼は自らの窃視趣味を理解しはじめていた。しかし、それが彼自身のなかで決定的に言語化されたのは、安部公房の「箱男」を読んだ中学二年生の秋のこと。箱男は外界に視線を向けるが、外界からは箱の中の視線は読み取れない。つまるところ自分は「視線の優位」を求めているらしい、彼はそう自己分析した。見られることなく見ていたい。そうでなくては安心できない。そんな情けない自分を悲観してはみたものの、直そうとはしなかった。そのかわり、少しだけ自分を嫌いになった。


 彼の情熱は、写真に注がれたこともあった。小学、中学と帰宅部であった良太は、高校にあがって写真部に入った。写真に興味があったというのもあるが、顔を合わせて話し合うことがあまりない活動形態が楽そうだったからだ。写真部に入りたいと母に伝えたら、ついにやりたいことが見つかったのねと大喜びしていた。入学祝いにと、高いカメラを買ってくれた。


 はじめのうち、良太は風景を撮っていた。こちらを気にも留めない自然や人工物の集合は、観察しがいのあるものに思えたからだ。しかし、次第に別の欲求が芽生えていく。人間が、撮りたい。良太は決して人嫌いではなく、人間に興味を持っていた。だからこそ人に対して怯えていたのだが。そんな彼には、撮らせてと真正面からお願いできる勇気などない。何より被写体がカメラを意識した瞬間、視線の優位は崩れてしまう。良太は、盗撮に熱中した。とは言っても、スカートの中のパンツなどには興味を示さなかった。あんな布きれのどこが良いんだ、とさえ思っていた。彼が写しとりたいのは、無防備な表情。好みの女があくびをしたとか、居眠りをしたとか、そのような姿ばかり撮影しては秘密のアルバムにしまっていた。彼にとっては、それこそがどんなグラビア写真よりも優れたポルノであった。いつしか、賞に出すような写真は良太にとって仮になっていた。写真をやっていればずっとカメラを持ち歩いていても怪しまれない、そのためだけの隠れ蓑。だから、写真の賞をもらった時も、あまり喜べなかった。周りが勝手に謙虚だと解釈して、否定するのも面倒に感じた。


 良太は、被写体に執着した。それはほとんど、恋と言って差し支えないようなものだった。しかし彼自身は、その恋心に気づいていない。良太の恋は、いつも始まる前に終わった。誰かを好きになっても、眺めることしかできなかったから。そんな体たらくで、実る恋などあるわけもなく。加えて盗撮を始めてからは、気取られないよう好意の対象からわざと距離を置くようになった。隣になんていなくていいから、自分以外の誰かを見ているあの娘を写したい。そう自分に言い聞かせるように、良太は盗撮にのめり込んだ。別の本心を押し殺すように。女たちが無防備な表情を見せる瞬間はそれぞれであった。食事の時間であったり、本を読んでいる時であったり。その中でも多かったのは、恋をしている時。雌の顔、とでも言うのだろうか。彼の目は、それを敏感に捉えた。絶好のシャッターチャンス、喜ぶべき瞬間のはずが、どうしてか胸がざわついた。


 秘密のアルバムをどこに隠すか、それは良太にとって大きな問題であった。もし母に見つかりでもしたら一巻の終わりだ。どうすれば見つけられないか。その答えを、彼はすぐに導き出した。カメラと一緒にしまえばいいと。そして母に「あの棚はカメラが入っていて、デリケートだから絶対触らないで」とでも伝えておけば完璧だ。母は彼の写真への入れ込みようを知っていた。知らないのは写真の中身だけ。それを利用するのは心苦しかったが、盗撮が知れるよりはマシだと思っていた。


 また、彼はマジックミラーに興味を持った。たとえばデパートのトイレに行ったとき、洗面台の鏡を前に想像した。この鏡がマジックミラーで、奥の暗い小部屋から誰かが覗いていたら。マジックミラーは暗い方からだけ明るい方が覗ける。それはつまり、視線の劣位に立たされることだ。良太はぞっとした。だが、逆に女子トイレならどうか。先ほどとは違って、彼は覗き見をする側として想像していた。暗い小部屋の中で、こちらに気づかない女たち。手を洗ったり、化粧を直したりしている。その様子は、良太を喜ばせるに足るものだった。


 高校二年生の夏休み、良太はひとり隣町のホームセンターに向かった。母には友達と遊びに行くと嘘をついた。ついに友達ができたのねと大喜びする母を見て、心が痛んだ。自転車を飛ばし、見慣れない道を走る。わざわざ少し遠くまで行くのは、彼の企みが誰にも知られたくないものだったから。良太は窓用のマジックミラーフィルムとプラ板、小型のライトを買って家に帰った。家に着く頃には夕方で、晩ご飯の香りがしていた。食卓を囲み、母は良太に楽しかったかと訊く。良太は嘘の思い出を語ってみせた。その夜、良太は眠れなかった。ごめんなさい、母さん。僕に友達はいないままだし、あなたが買ってくれたカメラもずいぶん汚してしまいました。そんな言葉が腹のなかを巡って、吐きそうな気分だった。


 翌日、良太は作業にとりかかった。プラ板にフィルムを貼り合わせ、太い十字に切り抜く。それを折り畳むと、鏡張りになった底抜けの箱ができるのだ。それこそが、彼の作りたかったもの。カーテンを締め切り、代わりに部屋の電気をつける。この時点では、まだ何も変わりはない。ライトを点け、箱を被せると、小さな光が鏡の箱に覆い隠される。さらに良太は例のアルバムから写真を取り出し、それも箱の中にしまった。良太は、箱をじっと眺めてみる。見えるのは鏡に映る部屋だけで、中の様子はわからない。ぱちん、と部屋の電気を消す。その瞬間、箱の中が筒抜けになった。透明の箱の中で、ライトがぼんやりと光っている。その光が盗撮写真を照らす。その光景は、良太をたまらなく興奮させた。彼が作っていたのは、覗き見装置だったのだ。


 やがて大学生になり、そこそこの都会で一人暮らしすることになった。隣の住人の足音が聞こえてくるようなボロアパート。その新居は、彼に新たな刺激を与えた。ドアスコープ。それが良太の興味を引いた。中からは外側が見え、外側からは中が見えない。それはまさしく彼が言うところの「視線の優位」を実現するものだった。良太は日に何度か、意味もなくドアスコープを覗き込んだ。とは言っても見えるのは入り口前の通路と隣の民家くらいで、彼を満足させるものではなかったが。良太はある時、ドアスコープの縁に小さな溝があることに気づいた。硬貨を引っ掛けて回せば、扉から取り外せるのではないか。良太はさっそく試した。案の定、容易に外すことができた。と同時に、新たな思いつきに至る。もし、これを逆にはめ込んだらどうか。実際に試してみると、なかなか面白いものだった。慣れつつあった自宅が、レンズに歪められまるで知らない場所のよう。覗き見に気づかないまま、その家で暮らす自分を想像する。覗く優越、覗かれる恐怖。一人二役の一人芝居。レンズの中の自分、それを見ている自分。感覚が混じりあう。それは目眩がするような衝撃だった。がちゃり。隣の扉が開く音で、良太は我に帰る。彼は動揺を押し殺し、ちょうど帰ってきたところだったようなふりをしてみせた。見られたか。もし自分の覗き趣味が知れたら。軽蔑されるのは確かだ、もしかしたら捕まるかもしれない。それだけが気がかりで、他の何事も手につかなかった。もう、消えてしまいたかった。それでも腹は減るもので、晩飯の買い出しに行くのだった。


 入学から幾月か経った頃。良太は学食のカレーを前に、写したい女を物色していた。あそこで席を探している娘などいいかもしれない。背は高く、肉付きも良い。髪は短めで、ゆるい格好をしている。何より、堂々とした佇まいに惹かれた。女一人でカツ丼大盛り、我が道を往く者の所業である。どこをとっても、彼女は良太の好みであった。今ここで写すのは難しいかもしれないが、見るだけ見ておきたいと思った。幸い、食堂はそれほど混んでいない。一番奥に座っていた良太からは、おおかたの席なら見渡せるはずだった。どこに座るのか観察していると、目が合ったような気がして良太はとっさに目をそらす。気づかれていないことを祈りながら目を伏せていると、隣に誰かが座ってきた。

「相席していいかな」

「え、あ、はい」

良太が顔を上げると、そこには先ほどの女がいた。女は微笑み、言う。

「嫌だった?」

「嫌では、ないですけど。あっちとか、空いてますよ」

「そうだね」

「そ、そちらに、移ってはどうでしょうか」

「あっちいけ、ってこと?」

「ち、違いますけど」

「けど、なに?」

言いよどむ良太に、女が圧をかけてくる。今すぐにでも逃げ出したかったが、手付かずのカレーを置いていくわけにはいかない。彼は不機嫌そうに言った。

「どうして、僕なんかに構うんですか」

「うーん、面白そうだから?」

「つまんないですよ、僕なんか」

「面白いかどうかはこっちで決めるから。それより、カレー冷めちゃうよ」

「大丈夫です、熱いと食えないんで」

「猫舌かぁ、かわいいね」

「あ、あのですね、自然界でも火を通して食べる動物は少なくてですね、熱々が美味しいという考えがまず自然に反してましてね」

早口に反論する良太を見て、女が笑いだす。良太は恥ずかしくてたまらなかった。彼女は言う。

「よく喋るね」

「そ、そりゃ、喋ることもありますよ」

「そんなムキになることないって」

「なってないです」

「なってるよ」

「なってないですって! 食えますし!」

良太はスプーンを持ち、熱々のカレーを口に突っ込んだ。そして、口の中を盛大にやけどした。

「あっ、熱い! 熱いし辛い!」

良太がひとしきり悶え終わったところで、女は訊く。

「そういえばキミ、名前は? 新入生? 学部はどこ?」

「えっと、文学部一年の、沢井良太(さわいりょうた)っていいます」

「良太くん、か。私は永野光希(ながのみつき)。教育学やってる二年生。よろしく」

「よ、よろしく、お願いします、永野、さん?」

「光希、でいいよ」

「あ、はい、光希さん」

結局、その日は光希のペースに乗せられ、盗撮のチャンスを見つけられない良太であった。


 数日後、良太は大学構内で光希を見かけた。道に迷うふりをして追いかけ、遠巻きにシャッターチャンスを狙っていると、彼女は振り向きこちらに向かってきた。

「何してるの?」

「いや、特に、何もしてないですけど」

「それ、カメラ? どんなん撮るの? 見せて見せて」

こういう場面に、良太は時々出くわした。常にカメラをぶら下げているのだ、ごく自然な流れだろう。しかし、彼は自分が撮った写真を持ち歩いていない。盗撮写真の方はもちろん、当たり障りない方のアルバムもだ。カムフラージュとして仕方なく撮った写真たちを褒められるのが、彼には堪えがたかったからだ。また今度見せると言っておけば、大体はそのままやりすごせるという彼の作戦だった。良太は答える。

「今は持ってないんで、今度持ってきますよ」

「じゃあ明日見せてね」

「あ、明日ですか? でも明日会えるかわかんないですよ」

「会えるよ。明日もたぶん今くらいの時間、この辺にいるからさ」

「暇なんですか?」

「わりとね」

「友達いないんですか」

「いないよ」

「いいんですか、それで」

「君に言われるとはね」

作戦が脆くも破れ、良太は苦し紛れに悪態をつくが光希にはまるで効かなかった。そのうえ反撃までされたとなれば、当然彼も言い返す。

「僕はまだ新入生なので。これからなので」

「そっか、ちょっと出遅れただけだもんね。追いつけるよう頑張ってね」

「フォローするふりして抉らないでください。だいたい僕で出遅れなら、光希さんは何周差なんですか」

「いいの。私はハナからレースしてないから」

「強がりですか」

「本心だよ。なんかさ、人に好かれようとするほどかえって恨まれたりしてさ。嫌じゃん、そういうの。だったら独りでいいやって」

そう言った光希の表情は、どこか寂しげで。良太にしてみれば絶好のシャッターチャンスだったが、この近距離ではそうもいかない。口惜しさを噛み殺し、彼は言う。

「じゃあなんで僕に構うんですか」

「うーん、なんでだろ。気の迷い?」

はた迷惑な気まぐれですよ、とは言えなかった。傷つけてしまいそうで。臆病な彼は、この状況に当惑していたのだ。


 良太が見かけるとき、光希はいつも一人でうろついていた。そしてシャッターチャンスをうかがっていると、決まって彼のほうに向かってくるのだった。

「元気かな、少年」

「少年って、いっこしか違わないんですが」

「いいじゃん。一回言ってみたかっただけ。ところでさ、今週末、暇?」

「な、なんでそんなこと訊くんです」

「気になるからだけど」

「暇だったらどうなんです」

「ちょっと付き合ってよ」

「つ、つ、付き合う? それもちょっと? ちょっとだけ付き合う? だ、駄目ですよそんなただれた関係」

付き合う。それは良太には縁遠い言葉であった。そのため、落ち着いて文脈を拾うこともできず、動揺するしかなかったのだ。その様子を見た光希は笑って言う。

「ごめんごめん、紛らわしい言い方しちゃったね。一緒に来てってこと」

「一緒に、来て? つ、つまり、デートですか? でも、僕遊びとかよくわかんないですよ」

「違うよ。そういう感じじゃないでしょ、私たち」

「え、あ、そうなんですか?」

「うん。ゲーセン行こ」

なんだ、ただの遊びの誘いか。良太が我に帰る。と同時に、彼の中にある恐れと自己否定がむくむくと頭をもたげてきた。

「でも、なんで僕なんです。一人で行ったらいいじゃないですか」

「えー、冷たい。二人プレイじゃないと取れないミッションがあってね、あとはあれ、女一人で行くと変なのが寄ってきて困るからさ」

「こんなひ弱な僕に用心棒をしろと? 不良に絡まれでもしたらションベンちびっちゃいますよ」

「大丈夫、重要なのは彼氏がいる女って思わせるとこだから。いてくれるだけでいいの」

「か、彼氏? 僕が、光希さんの、彼氏役ですか? 嫌じゃないです?」

「嫌じゃないよ」

あっさりと言い切る光希に、良太の胸はひどく高鳴った。


 その夜、良太は光希の夢を見た。ファインダー越しの光希が、何者かに追われ逃げている。追う者の姿は真っ黒で、誰かはわからない。良太は助けようともせずに、ひたすらにシャッターを切る。なりふり構わず必死で逃げる姿は、彼を満足させるものだった。じりじりと距離は縮み、黒い人影が光希を背後から抱く。意外にも彼女は抵抗せず、そいつを受け入れた。ショックで良太がカメラを落とす瞬間、そこで目が覚めた。


 起きると同時に、良太は絶望した。パンツを履き替え、味噌汁を火にかける。朝食の準備をする間も、彼は光希のことを考えていた。結局のところ、自分は性欲の対象としてしか彼女を見ていないのだ。恋をしたような気がしてもそれはきっと錯覚だし、恥ずかしげもなく好きと言う資格もない。だから、彼女を撮れさえすればいい。そう思うことにした。


 そして日曜日。駅前の広場で、良太は光希を待っていた。待ち合わせの時間まではまだ一時間ほどあったが、早く着きすぎてしまったのだ。カメラの手入れをしてみたり、周囲の様子を眺めてみても、どうにも落ち着かない。これはデートでもなんでもないというのに。光希は、時間ちょうどに現れた。動きやすそうな格好であった。彼女は言う。

「ごめんごめん、待った?」

「い、いえ、今来たところです」

「じゃあ、行こっか」

アーケード通りをふたり歩く。良太はどこに向かっているかわからないので、光希の斜め後方について進んでいった。彼女は人の入っている大きなゲームセンターを素通りし、暗い階段を下りていく。

「ここ、穴場なんだよね」

「そういえば、どんなんやるんですか」

「あれ、言わないっけ。音ゲーなんだけど、足でボタンを押すやつ」

「なんか行儀悪いですね」

「お行儀いいゲームなんて楽しくないよ」

「そんなもんですかね」

そんな話をしながら階段を下りきり、扉を開けるとそこは狭く薄暗い遊技場。客は他に二、三組だけいるらしく、なにやら意味不明な言葉を叫びあいながらゲームをする者、ひとり黙々と遊ぶ者もいた。タバコの匂いが鼻をつく。その光景は、良太に目眩をもたらすのに十分すぎた。立ち止まる良太を気にかけ、光希が声をかける。

「大丈夫? ほら、行こ」

「あ、はい」

光希が、良太の方に手を差し出している。掴まれ、ということだろうか。そう思い至ったとき、良太は先ほどとは別の意味でくらくらした。女性の手など握ったことがなかったからだ。彼は言う。

「あ、手、ですか」

「うん。手だよ」

「あ、いえ! お気遣いなく!」

良太がぎこちなく歩き出し、光希を追い越して進んでいく。彼の足取りは、光希の一言で止められた。

「そっちじゃないよ」

「あ、すみません」

良太はそう言って、ばつが悪そうに戻ってくる。そして今度こそ、目当てのゲームの前までふたり向かうのだった。幸いなことに、その台に他に客はいない。光希が無邪気な笑みを浮かべ、言う。

「んじゃ、やりますか」

「はい」

ゲームは苦手な方ではなかったが、運動不足の良太には厳しいものがあった。足でボタンを押すということは、踊るようにプレイしなければならないからだ。ワンクレジット分だけ遊んだところで、良太はすでにグロッキーであった。

「う‥‥死ぬ‥‥」

「ちょっと休憩しよっか?」

「いえ、大丈夫です。トイレ行ってきます」

トイレで朝飯を嘔吐し、息を整えてから戻る。先ほどと同じ台で、光希は一人踊っていた。その姿は美しかった。今なら、撮れるだろうか。カメラを向けてみるが、それに気づく者はない。今なら。シャッターを切る直前、良太はいろいろなことを考えた。例えば、これで僕の中の欲望は満足してくれるだろうかとか、そうすれば光希さんと普通の関係になれるかとか。虫のいい話だが、彼はそれを望んでいた。光希を写真に収め、何食わぬ顔で彼女のところに戻る。

「長かったね。腹痛? ゲロ? 大丈夫だった?」

「あ、はい。でもこりごりです。一回、別のやりません? あそこのとかどうです」

良太が指さすのは、ゾンビを銃で撃つゲーム。光希は意外というような様子で訊き返した。

「え、あのゾンビのやつ?」

「怖いんですか?」

「まさか。ただ、ゾンビってワラワラ寄ってきて気持ち悪いじゃん」

「じゃあ逆にどんなんが好きです?」

「えっとね‥‥」

楽しい時間は、つつがなく過ぎていった。それと裏腹に、良太の脳裏では罪悪感がうるさく鳴いていた。


 その後しばらく経ったが、良太の光希への欲望は満足を見せなかった。むしろ増大したと言っていい。一度撮れたなら、もう一度でも二度でも撮れるはずだったから。彼女は、決して無敵ではなかったのだから。現像した写真を新しいアルバムに入れて眺めてみても、例の覗き見装置で覗いてみても、消えてくれない。もっと見たい、もっと撮りたいという感情。バイトの給料が入る日、良太はある悪魔的な考えを思いついた。それはいつものように、ドアスコープから玄関前を覗いている時のことだった。


 翌日、良太は光希を待ち伏せしていた。とは言っても、これくらいの時間にこの辺にいるという不確かな根拠しかなかったが。果たして彼女は現れた。良太が声をかける。

「光希さん! ウチ来ません?」

「キミから話しかけてくるとはね」

今までは、光希から話しかけるばかりだった。そのため、良太に話しかけられた彼女は面食らっていた。良太は答える。

「そういう日もあります」

「にしても、なんで?」

「僕、新しいゲーム機買ったんですよ。光希さんゲーム好きだから、一緒に遊んでくれないかなと思いまして」

「あー、そっか」

光希がはっきりしない相槌を打つ。この反応は、良太にとって想定外だった。彼女が最新のゲーム機に食いつかないはずがないと思っていたから。動揺した良太が訊く。

「嫌でした?」

「いや、全然嫌じゃないよ。行く行く。いつにする?」

光希が、繕ったような笑顔で答える。最終的に軌道に乗ったので、良太はその時の違和感を大して気にも留めなかった。


 そして、光希が良太の家に来る日。彼は朝から下準備をしていた。ドアスコープを裏返し、外側をテープで封じる。これでテープを剥がすだけで、いつでも中を覗くことができるというわけだ。テープで封じるのには外から仕掛けを気づかせないためだけではなく、中に光が差さないのをごまかす効果もあった。通常、玄関の扉を中から見ると、外の光がドアスコープから差し込みドアの上に白い円が見える。もちろん、裏返ったドアスコープでは中から外が見えることはない。その違和感を消すためにも、あらかじめ封じておくのだ。ドアスコープ越しでは、写真は上手く撮れない。それは事前に検証済みであった。それでも、覗いてみたかったのだ。光希が自分の部屋に来て、自分のいない間、いったいどう振る舞うのか。それを見たかった。ただゲームをしているだけかもしれないし、あるいはそうでないかもしれない。いずれにせよ、非日常的な光景が見られるのは確かであった。出かける準備を手早く済ませ、袋を持って家を出る。袋には、いくつかの菓子パンが入っている。これは前日買い込んでおいたものだ。その袋を、良太はすぐ外の郵便受けに隠す。これで準備は完了というわけだ。そして光希を迎えに行くため、彼は駅まで向かうのだった。


「お邪魔しまーす」

「散らかってて申し訳ないんですけど、まあ、くつろいじゃってください」

良太が光希を招き入れる。平気なふりをしていたが、内心では期待とスリルで気が狂いそうだった。誘い込みさえすれば、計画は八割がた完成だ。あとは適当な理由をつけて、出かけるふりをするだけ。玄関からすぐの台所を通り、光希が居間に上がる。その後ろをついてきた良太は、居間への扉を閉めなかった。それも彼の計画のうち。覗き見をするにあたって、障害となる扉が一枚だけあった。台所から居間に入る扉だ。幸いにも季節は夏、扉が開きっぱなしなのはそれほど不自然ではない。はじめの数時間は、普通にゲームをして遊んだ。そして昼になった頃、良太が動き出す。

「そろそろお昼にしません? 僕、適当に買ってきますよ」

「いや、いいよ一緒に行こ。私も選びたいし」

「いやいや大丈夫ですよ、僕、後輩なんで」

「ひとつ違うくらいで何が変わるのさ。このステージクリアしたら私も行くよ」

「あとどれくらいかかります?」

「すぐだよすぐ。あっ、うそ、死んだ」

「かかりますよねやっぱり。自分行ってきますよ」

「うーん、じゃあ、お願いするよ。焼きそばパンお願いね」

そういうわけで、良太は無事に外に出られた。郵便受けの袋を回収する。焼きそばパンは買っていなかったが、売り切れていたなどといくらでも言い訳できる。買い物をしているはずの数十分の間、近隣の目がなければという括弧がつくものの、怪しまれず覗き見できる態勢は整ったのだ。音がしないよう、慎重にテープを剥がす。レンズの向こう、光希は良太の視線をつゆも意識せず遊んでいる。良太は、覗き見装置を思い浮かべてみた。家という鏡の箱に、彼女がしまい込まれている。そして電気が消える瞬間、彼女は丸裸になるのだ。その様子を思い浮かべると、興奮を押さえきれなかった。これからスイッチが切られ、彼女はどんな姿を見せるのか。良太はそれだけに心奪われた。


 はじめのうち、彼女はゲームに集中していた。しかししばらく見ていると、疲れたのだろうか、光希はコントローラーを手放した。さてこの後何を始めるか、良太は期待とともに見守っていた。光希が、良太のベッドの下を調べはじめる。隠している本でも探そうという魂胆だろうか。良太は動じなかった。見つからない自信があったからだ。一人暮らしになってからは母に見つかる心配がなくなったとはいえ、秘密のアルバムの隠し場所は彼が最も腐心するところであった。正解は、台所の引き出し。意表を突く難問である。しかし、居間をひとしきり調べると、光希は台所に向かってきた。気づいたというのか。しかし、彼女は彼の想定を超えてきた。玄関の扉に近づいてくる。逃げ出そうか、しかしもう遅いだろうか。混乱する良太の足は動かない。レンズ越しの光希が、こちらを見てにやりと笑った。それだけならまだ彼の思い違いであったかもしれない。しかし、そうではなかった。光希が口を動かす。彼女は口の動きだけで、

「み・え・て・る・よ」

と言った。良太は恐ろしくなり、今すぐにでも逃げ出したかったが、腰が抜けて立ち上がれない。彼の脳裏に、再び覗き見装置のイメージが浮かぶ。スイッチが切れ、丸裸にされたのは自分の方だった。鏡の箱に囚われていたのは自分の方だった。すべて、彼女の手のひらの上だったらしい。あちらからは伺えない、視線の優位が、ドアスコープが、反転した。これはどういうことか。扉が開いた時、良太はすでに気絶していた。


 気がつくと、光希は帰ってしまっていた。痛む体を起こし、家に入る。幸いにもあまり時間は経っていないようで、良太はほっとした。もし泥棒でも入って家の中を調べられたら、秘密のアルバムが露見するかもしれなかったから。そうして良太の企みは失敗し、普通の生活に戻った。しかし、ドアスコープの仕掛けだけは元に戻さなかった。彼はあの日、見られる快楽に目覚めてしまったのだ。彼は見えないドアスコープの向こうに、光希を幻視する。そうして生活のすべてを見られている自分を想像しては、恍惚に浸るのであった。


 あの一件から数日後、良太は構内で光希を見かけた。しかし、寄ってくることはもうない。盗撮するには好機であったが、彼の興味はすでに見ることから見られることに移っている。視線への恐れが快楽に変わった良太は、積極的に光希に向かっていけるようになったのだった。

「光希さん、こんにちは」

「あんなことしといて、よく話しかけてこれるね。言いふらされたくなかったら、二度と関わらないで」

当然と言うべきか、光希の反応は冷ややかだった。しかし、その軽蔑と嫌悪の混ざった視線さえ、良太を興奮させる材料となった。彼はにこやかに言う。

「いいですよ、言いふらしても。本当の自分をみんなに見てもらえるなら、それはそれで興奮しますし」

「気持ちわる。本当の自分なんて、人に見せちゃ駄目なんだよ」

その言葉には、妙な重みがあった。身を切る痛みとともにあるような言葉だった。良太はそれ以上何も言えず、茫然と立ち尽くすだけだった。


 良太は、あの日のことを何度も思い出しては悦に入った。視線の優位が崩れ劣位に立たされる、もとい、はじめから劣位にあったことを思い知らされる瞬間。その記憶が色褪せる様子はない。百三十八度目に反芻したとき、彼はある違和感に気づいた。その正体が何か、彼は考えた。考えて考えて、考えがまとまった時、彼はそれを確かめたいと思った。だから、直接訊くことにした。その日の午前、ちょうど光希に会うことができた。良太は言う。

「あ、あの、確かめたいことがあるんですけど」

「二度と話しかけないでって言ったよね」

「あの時、なんで笑ってたんですか」

良太の質問に答えないまま、光希は立ち去ってしまった。


 その日の昼休み。良太が相変わらず学食でカレーを食べていると、向こうから光希が現れた。今日は天丼を食べるらしかった。彼女は良太より手前、一人でうどんを食べている男子学生の隣に座った。

「隣、失礼するよ」

「あ、はい、ど、どうぞ」

「それ、おいしい?」

「はい、おいしいです」

「ちょっとちょうだいよ」

「え、えっと」

「ほら、代わりに大葉の天ぷらあげるからさ」

「え、あ、ありがとうございます」

彼女は大葉の天ぷらをうどんの器に入れ、その箸でうどんをさらっていった。

「うん、おいしい。そっちは?」

「あ、はい、おいしかったです」

そこで会話は途切れ、しばらくお互い無言で飯を食らった。男が先に食べ終わり、席を立つ。光希は完食までもう少しかかるらしいとふんだ良太は、彼女を出待ちするのであった。食堂から出てきた彼女に声をかける。

「光希さん、下手くそすぎますよ」

そんな良太に冷たい目を向け、光希は言う。

「何のつもり? いい加減にしてよ」

「演技ですよね。僕に見せつけるために、わざとやったんですよね」

「違うよ。私は誰にだってあんな感じ。だからキミは私にとって、特別でもなんでもないの」

「名前、訊きませんでしたよね。名乗りもしなかった」

「そりゃそうでしょ。一回隣になっただけだよ、友達になるわけじゃない」

「じゃあ、なんで僕の時は、名前を訊いたんですか」

「気の迷いだよ」

「違います」

良太がぴしゃりと遮る。彼の中で、とうに答えは出ていたから。彼は続ける。

「あの時、光希さん笑ってたんです。僕の覗きに気づいた時。驚くでも怒るでも引くでもなく、笑ってた。僕、考えたんです。光希さんは、あの瞬間を待ち望んでいたんじゃないかって」

「そんなわけないじゃん」

「でも、だとしたら辻褄が合うんです。人付き合いを面倒くさがる光希さんが、僕とは仲良くしてくれたのも。あの時、名前を訊いたのも。最初から僕の覗き趣味を知ってて、僕に近づいたんじゃないんですか。面倒くさくなったら、盗撮か覗きをネタに脅して縁を切ればいいやって」

光希が黙り込む。その沈黙は、限りなく肯定に近かった。彼女はついに何も言い返せなくなったのだから。それでもどうにか言葉を探し、半ば自棄くそに彼女は吐き出す。

「もしそうだとして、それが何? あんたが最低な覗き野郎で、私はもう面倒になっちゃったってことがわかっただけじゃん」

「確認しておきたかったんです。嫌われてるかどうか」

「嫌いだよ、嫌いに決まってるじゃん」

「でも、じゃあなんで僕と友達になったんですか。最低な覗き野郎だと知った上で」

「それも気の迷いか何かだよ。頼むからもう放っといてよ」

「嫌です。僕には、光希さんが寂しそうに見えるから。光希さんが寂しがるのは嫌だから」

「私さ、キミに同情されるほど殊勝な人間じゃないよ。もう、わかるでしょ。人が苦手で、そのくせ寂しがりで、人間関係使い捨てて、自分で自分の首を絞めてる。知られたくなかったよ、ただの悪女でいたかったよ」

「でも、知ってしまった。変わらず友達でいられるとか、もしかしたら恋人になれるかもとか、そんなワガママは言えないのはわかってます。だから、せめて、近くにいさせてください。その視線で、僕のことを、たとえ端の方でも、見ていてください。あなたの視界の中にいさせてください」

「気持ちわる。勝手にすれば」

光希はため息をつき、そう答えた。

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