第16話 宿命の対決・紅子VSイルカ⑤
「イルカ、いる?」
紅子が入ってきた。
「お、お嬢様!」
今まさに紅子のことを考えていたイルカは、飛び上がって驚いた。
「す、すみません。聞こえてましたか……?」
「は? なにが?」
「あ、いえ。なんでもありません」
どうやら、イルカの声が聞こえたわけではないらしい。
とりあえず安心したイルカは、ノートパソコンを閉じ姿勢を正した。
「それで、何か御用ですか。お嬢様」
「ちょっとパソコンで聞きたいことがあるんだけど」
紅子がそう言ってくるのは、実に一週間ぶりだった。
だが、自分から切り出しておきながら、紅子は話しづらそうに黙り込んでしまう。
「あの……なんですか? お嬢様」
イルカが促すと、ようやくおずおずと紅子は語りだした。
「これは、アメリカの友達の話なんだけど」
「なんですか、外国人の友達がいる自慢ですか。お嬢様もなかなか俗っぽくなられましたねえ」
「黙って聞け」
「ア、ハイ」
「で、その友達はブログやってんだけど。そのブログを荒らされて困ってるらしいのよね。今までは、とある漫画が面白い面白くないって議論の範囲だったから許してやってたけど、今日はとうとう発狂してコメント欄を無茶苦茶な文字列で埋め尽くしやがったから、さすがにキレたのよ」
「はあ、レスバトルですか。けど、わたしも英語でレスバするのはちょっと……」
「住所突き止めて殺しに行く方法ないの?」
「無理ですよ」
「でも、ネットで犯罪予告するバカが、身元特定されて逮捕されたりしてるじゃない」
「犯罪予告ならね。どこそこに爆弾仕掛けたとか、誰々を殺しに行くとか、そういう書き込みは脅迫罪とか営業妨害みたいな重い罪になるから、警察が権力使って捜査するんです。けど、たかだかブログ荒らされたなんてのは、名誉毀損にすらならないイタズラの範疇ですからね」
「じゃあどうすればいいのよ」
「アクセス禁止にすればいいじゃないですか」
「アクセス禁止って?」
「荒らしがお嬢様のブログを見れないように設定するんですよ」
「それってブロックってこと? そんなの逃げじゃない! いやよ!」
また紅子が面倒なこだわりを振りかざす。
しかし、紅子の操縦はイルカの十八番である。
「アク禁とブロックは違います。SNSなどで相手をブロックする権利はお互いが有していますから、先に相手をブロックしたほうが逃げたことになる、というお嬢様の主張も一億分の一くらいは理解できます。しかし、特定の読者をブログにアクセス禁止にするのは、ブログ主だけが一方的に持つ権利です。やられた側は一方的に悔しがるしかないのです」
「……そういうもんなの?」
「そういうもんです」
イルカは、自分でも意味不明な謎理論を自信満々で肯定する。
「そもそも、その荒らしは今、発狂してコメント欄に無茶苦茶を書き込んでるんですよね。つまりすでに論破され、荒らしは敗北しているのです。ならアク禁しても逃げではありません。もうブログ主は勝利してるんですから」
「そっか、そうよね!」
紅子は納得したようだった。
「で、アクセス禁止ってどうやればいいの?」
「まず、ブログの機能で荒らしのコメントを解析して、IPアドレスを特定します」
「あいぴーアドレス?」
「どこのネット回線から書き込んでいるかを示す、アドレス番号です。郵便番号みたいなものと思ってください」
「そんな事がわかるの!? それなら住所特定できるじゃない!」
「できませんよ。べつにIPアドレスがわかったからって、東京都〇〇区〇〇番地〜とかまで詳しく解析できるわけじゃないですから」
実際は、法的手続きを経て情報開示請求を行えば住所の特定も不可能ではないのだが、そんな事を紅子に教えても、話がややこしくなるだけだ。
「ただ、そのIPアドレスをアクセス禁止アドレスに指定してやれば、荒らしはもうブログを見ることも、もちろんコメントを書き込むこともできません。どんなブログにも、そういう設定ができる機能はあるはずですよ」
「漫画の紹介してるブログにも?」
「はい」
どんなブログにも、というのはブログサービスという意味であり、ブログの内容は関係ないのだが、イルカはそんなことをいちいち指摘しない。物事を紅子に理解させるときは、枝葉末節にこだわらず、結論さえ合っていればそれでよしとするのがコツなのだ。
「よし、わかったわ」
紅子はイルカの部屋から出ていこうとして……ドアに手をかけたところで、少しきまりが悪そうに振り返った。
「イルカ」
「はい?」
「ごめんね、なんか。最近イライラする事があって、あんたに八つ当たりしちゃってさ。でもやっぱり、困った時に頼れるのはイルカだわ。いつもありがとう、イルカ」
そう言って、紅子は珍しくドアを静かに閉めていった。
その意外な態度に、イルカはしばしドアを見つめていた。
「お嬢様……」
ここ数日、さんざん怒鳴られて不満を溜めていたイルカだったが、紅子の一言であっさり報われたような気になってしまう。実に損な関係だと自分でも思うのだが、感情の問題はどうしようもない。
「それにしても、お嬢様はブログを始めたんですか。それでここ数日、部屋にこもりきりだったんですね。秘密のブログを荒らされたということなら、わたしに相談できなかったのも無理はないですね」
友達の話、などという紅子の嘘は、イルカにはまったく通じていなかった。
それはそれとして、紅子と話すことでしばしのクールタイムを経たイルカは、完全に平常心を取り戻した。
先程閉じたノートパソコンを開いて、通販サイトで“宿命の対決”を検索して、レビュー欄を見た。他の人間はこの漫画をどう評価しているのか、気になったのだ。
「ふうん。やっぱり評価は高いんですね。ま、素人さんにはうけるんでしょうよ、こういうのは」
イルカは負け惜しみをつぶやいて、“宿命の対決”が五段階評価で平均4.7点という高得点をとっている事実を受け流した。人気漫画だということは知っていたから、そこはべつに意外でもないのだ。
イルカは、高評価の感想には目もくれず、数少ない低評価を下しているレビュアーの感想を、いくつか開いてみた。鋭い批判があれば、青子のブログを叩く参考にさせてもらおう……と、こじらせたネット廃人は考えたのだ。
しかし、低評価しているレビュアーの共通の批判ポイントは、『アルがオームを軽んじているように見えるのが気に食わない』というものであり、イルカはまたイライラしてしまう。この感想は、先程の青子の指摘そのものではないか。
「あーもう。いいですよ、ふん」
イルカは通販サイトを閉じた。
しばらく何をするか迷ったが、結局、また『“宿命の対決”応援ブログ』の様子を見に行くことにした……のだが。
「あれ?」
ブックマークをクリックして、青子のブログを表示したつもりだったのだが、飛ばされたのは真っ白い画面だった。殺風景な画面の中央には、そっけない一文が表示されている。
【ERROR:このページへのアクセスは禁止されています】
「アク禁にされた?」
ここ三日間、毎日荒らしコメントを投稿していたのだから、こうなるのも当然といえば当然か。あの青子はどう見てもネット初心者だったが、誰かに聞くなりネットで検索するなりして、アクセス禁止にする知恵をつけたのだろう。
ともあれ、こうなってしまっては、もう青子とのレスバトルは強制終了だ。
「……ま、いいですよ。どう見てもわたしの優勢でしたが、引き分けということで許してあげましょう」
イルカは、無理矢理そう結論付けた。レスバトルは、自分が負けたと思わないかぎり、負けではないのだ。
消化不良ではあるが、これでおしまい、ハイさようなら、とイルカはブラウザを閉じてパソコンの電源を切った。
本当の戦いがこれからだということを、イルカはまだ知らなかった。




