第2話 紅子とイルカとインターネット
日本指折りの資産家である炎城寺家の一人娘、炎城寺紅子。
彼女が、何もかも恵まれた生活を捨てて単身アメリカへ渡ったのは、十五歳のときだった。
それから二年間、親の権力にも家の財力にも一切頼らず、自分の力だけでアメリカの格闘技界を上り詰め、晴れてチャンピオンとなったのだ。
その紅子はいま、東京都心からやや外れた閑静な住宅街に千坪の豪邸を構える、炎城寺家の門前にいた。二年三か月ぶりの帰省であった。
「ただいま!」
紅子は大声をあげながら門を開いた。
門の中は、紅子がいた頃と変わりない、見事に整備された洋風の庭園が広がっている。
その広い庭にひとりだけ、使用人の姿があった。門のそばの木陰で、スマートホンをいじりながら座り込んでいる、メイド服を着た少女だった。
「あはははは、このネタやべーでしょ! まじやばいですって、ぎゃはははは! うけるー!」
耳にイヤホンをさし、爆笑しながら食い入るように動画を見ているメイドの少女は、紅子に気付いていなかった。
むっとした紅子は、大きく息を吸い込んで、最大限の音量で少女に向かって叫んだ。
「ご主人様のお帰りよ! 気付きなさいよ、千堂イルカ!」
「ふえっ!」
スマホを取り落とし、大慌てで顔をあげる少女。
「お、お嬢様…………!?」
紅子と同年代の、そのメイドの少女は、突然の主の帰還に口をぽかんとひらいて固まった。
「え……まじで……紅子お嬢様……。帰ってきたんですか……」
「そうよ。久しぶりね、イルカ」
メイドの少女――千堂イルカは、子供の頃から紅子に仕えてきた侍女であり、幼馴染の友人であった。
「てゆーか、あんた。また仕事さぼってたわね」
庭の掃除を進んで引き受け、その実、人目の届かない場所で遊び呆けるのは、昔からイルカの常套手段だった。
「あ、いや。このことは、どうかメイド長には内緒に…………って、それよりも」
イルカは耳からイヤホンを抜いて立ち上がり、紅子に向かって頭を下げた。
「えーと、お帰りなさいませ。お嬢様。このたびは世界チャンピオンになられたようで、おめでとうございます。旦那様も奥様も、使用人一同も、大変喜んでいましたよ」
「ふふん、まあこれがわたしの実力ってわけよ」
「あの、ですがね。帰って来るなら、事前にちゃんと電話とかで教えてくださいよ。二年前に突然『わたしは世界最強になるー!』とか言って家を飛び出して、それっきり何の連絡もしなかったくせに、いきなり『ただいまー』とか言われても困るんですが」
「なによ。急に帰って来られたら、何かまずいの? わたしに言えないようなことやってたの」
「そういう問題じゃなく。旦那様と奥様は、昨日からフランスへ長期出張に出かけてしまったんですよ。お嬢様が帰って来るとわかっていたら、もう少し予定を伸ばしていたでしょうに」
「ふーん、パパとママはいないんだ。ま、いいけど」
いまさら両親に会えなくて寂しい、などと感傷的になる紅子ではない。
「それよりイルカ、わたしの部屋まで荷物運んでよ」
紅子は門前に積まれたスーツケースと紙袋を指さした。
「それは構いませんけど……なんですか、これ? スーツケースは分かりますけど、このでかい紙袋は……家電屋のものですか」
旅行用のスーツケースと同じくらいの大きさの紙袋を、イルカは不思議そうに眺めた。
「パソコンよ。今日、帰ってくる途中に買ってきたの」
「パソコン!? お嬢様が、パソコンを!」
紅子は昔から極度の機械音痴だった。理解できるのはゲームボーイまで。テレビですら、電源のオンオフとチャンネルを回すくらいのことしかできない。スマホも携帯電話も持っていないから、この二年間実家とまったく連絡を取れなかったのだ。
イルカにとって、その紅子がパソコンを買ったという事実は、全米チャンピオンになったことより衝撃だったようだ。
「しかし、お嬢様。どうして急にパソコンを」
「最近、インターネットが流行ってるんでしょ?」
「べつに最近ではありませんが。まあ流行ってますね」
「そうよね。あんたもさっきスマホで遊んでたし」
「お、ようやくケータイとスマホの区別がつくようになったんですね」
イルカは感心する。
「今は、インフルエンザとかいう連中が、インターネットのSOSで人気者になる時代なのよ」
「インフルエンサーとSNSのことですね」
「あー、それそれ!」
今日知ったばかりの言葉を、紅子はもう忘れていた。
「そこでわたしは考えたわけよ! わたしも格闘技の夢と技術を、インターネットを使って世界に広めようと! それで、わたしは人気者のインフルエンサーになるの! これがわたしの第二の人生よ」
「はあ、なるほど。引退したアスリートが、タレント業を始めるのは珍しくないですもんね。しかし、それならテレビとかに出ればいいのでは? 出演オファーとか、来なかったんですか」
「だめよ、あいつらは。テレビも新聞も、わたしのこと根も葉もない中傷で叩いてくるんだから」
「まあ、たしかに日本でも、お嬢様に批判的な報道は多かったですね……本当に根も葉もないかはさておき」
紅子がどんな人間かは、イルカが一番よく知っているのだ。
「それにね、今はテレビなんかより、インターネットの方が影響力強いんだってさ」
「そうですねえ。今の時代、マスコミに頼らなくても、自分で動画なりSNSなりをネット配信していけば、それで十分人気者になれる可能性はあります」
「可能性、じゃなくて。なるに決まってんじゃん。わたしなら」
紅子の言葉は、あながちうぬぼれでもない。
紅子はいまや世界一の天才格闘家で、しかも容姿も極めて整っている。フランス人の母から遺伝した煌めく金髪と、父から受け継いだ燃えるような紅い瞳は、日本人離れした華やかさだ。
普通なら、日本が誇るスーパーアイドルだ。そう、普通なら。
「ただ、完璧なわたしにも、ただ一つ欠点があるわ」
「IT音痴で、頭が悪くて、口が悪くて、常識が完全に欠落していて、わがままで、凶暴で、もの凄くキレやすいところですね」
「そう、ITってやつがほんとわかんないのよね。インターネットとかSNSとか、さっぱりよ」
紅子には、イルカの並べた七つの欠点のうち、最初以外聞こえていなかった。
「だから、イルカ。あんたが頼りよ。あんたパソコン詳しいもんね」
「はあ。お嬢様のネットデビューのお手伝いをしろ、というのですね。それはまあ、お安い御用ですよ」
「じゃあ、さっそくわたしの部屋に行くわよ。……わたしの部屋、残ってるわよね?」
「大丈夫ですよ。ちゃんとお嬢様が出て行った時のまま、残してあります」
「よしよし」
紅子はトランクを手にした。
イルカも、パソコンが入った紙袋を抱え上げる。
「それにしても大きいですよね。ノートではなくデスクトップを買ったんですか」
「ですくとっぷ……ああ、店員がそう言ってたわね。デスクトップの最新機種なんだって」
紅子は紙袋からチラシを取り出した。
「ええと……最新型しーぴーゆー いんてるこあ7-9700 ぷろせっさー めもり32ぎがばいと えすえすでー2てらばいと ぐらふぃっくあくせられーた じーいー2080てーあい 27いんち4けーでぃすぷれい革命的すいれーせいおんしすてむ搭載……とかいう、超ウルトラスーパーハイエンドモンスターマシンなんだってさ」
「……すごいですね」
「すごいでしょ! 店員に、一番いいのを選んでもらったからね」
「で、お嬢様。その超絶マシンで、今日から何をするつもりですか?」
「SNS……えーと、Twiterってやつね。店員に教えてもらったわ」
「…………」
「ふふ、これでわたしも情報強者。略して情強ね」
「この買い物がすでに情弱の極みなんですが。SNSにこんなマシンパワー、全く必要ありませんよ」
「そのうち動画編集とかやるようになったら必要になるかもしれないって、店員が言ってたもん」
「そのうち……ですか。まあ十年後くらいには、やることになるかも知れませんね」
その時は、マシンの方が化石となっているのだろうが。
千堂イルカは、紅子とは対照的にインドア派であり、機械関係やIT文化に詳しい。
といっても、プログラミングやホームページ作成、動画編集といった生産的なことはろくにできず、もっぱら下らないブログや動画を巡回して、ゲラゲラ笑うことを趣味としているだけなのだが。
とはいえ、紅子はイルカのことをパソコン博士として信頼しているので、帰宅して早々に、新しいパソコンのセッティングを命じた。
イルカは、慣れた手付きでウインドウズの設定と炎城寺邸の無線LANへの接続、Twiterのアカウント取得を行い、三十分と経たないうちに、紅子のSNSデビューの準備は整った。
炎城寺紅子@Redfaire
『総合格闘家。世界最強です。Twiter始めました』
「よーし、ついに開設できたわね! さっそく発信していくわよ!」
十二時間を超えるフライトで、二年ぶりの実家に戻ってきたというのに、紅子には休むという選択肢はまるで存在しない。突然の帰郷に大慌てした使用人たちへのあいさつもそこそこに切り上げ、自室の机の前に座って腕を鳴らした。
炎城寺紅子@Redfaire
『この炎城寺紅子が、みんなに格闘技の極意を教えてあげます』
ポチポチ、ペチペチ、と紅子は慣れない手付きでキーボードを叩いて、ツイートを送信する。
「どう?」
紅子は誇らしげな顔をイルカに向けた。
「どう、とは?」
「わたしだってキーボードで文字を打つくらいはできるのよ」
紅子とて中学校は出ているので、基本的な情報教育は受けているのだ。
「はあ。たしかに、もしかしたらキーボードの打ち方から教えなければいけないかと懸念していましたので、その点は安心しました。まあ、タイプ速度が遅すぎて、若干イライラしますけど」
炎城寺紅子@Redfaire
『わたしが戦い方を教えてあげれば、日本人はみんな強くなると思います。そうして、もう二度と戦争に負けることがない、強い国になればいいなと思います』
炎城寺紅子@Redfaire
『とりあえず初心者は、うさぎ跳びを一日五百回くらいから始めるのがいいと思います』
「これでよし」
十分あまりをかけて、ツイートを三つ送信したところで、紅子は椅子の背にもたれこんだ。
「とりあえず、こんなもんでどうかしら、イルカ」
紅子は顔を向けて、パソコン博士に感想を求めた。
(ゴミのような文章ですね、小学生の作文のほうがまだマシですよ……って言ったらどうなるんでしょうか)
イルカは心の中で考える。
「ゴミのような文章ですね、小学生の作文のほうがまだマシですよ」
イルカは考えたことがそのまま口に出る性格だった。
「ああああああ!? なにがゴミだってのよ!」
いまにも殴り掛かりそうな剣幕で、紅子が凄んだ。
「いえ、だって。『思います』『思います』『思います』の三連発ってなんですか。もうちょいセンスのある言い回しっていうか、まともな文章書けないんですか」
「大切なのは、上っ面の言葉遊びじゃないでしょ。内容が大事なのよ」
「内容はもっとひどいんですが」
だが、紅子はもうイルカの言葉に取り合わず、ふたたびツイートを送信した。
炎城寺紅子@Redfaire
『みんなからの質問も受け付けます。わたしはチャンピオンだからといって、偉そうにする気はありません。みんなと気さくに交流してあげようと思ってます。わたしに聞きたいことがあれば、遠慮なく質問してください』
実に偉そうな文面であった。
「よし。これで、わたしのファンたちが沢山やってくるでしょうね」
紅子の言葉通り、それから三分と経たないうちに通知が表示され、反応があったことを告げた。
「はや! もう反応が来ましたよ」
「わたしってやっぱ有名人なのね、ふふ」
紅子は微笑みながら返信のツイートを開いた。
さくらもち@seeBall7
『炎城寺さん、質問です』
「『さくらもち』さんかあ……ようこそ。あなたは炎城寺紅子Twiterの、記念すべき一人目のお客さんよ。……フォロワーって言うんだっけ?」
さくらもち@seeBall7
『八百長でチャンピオンになるのに、いくらお金を使ったんですかwww?』
「あ…………?」
浮かれていた紅子の全身が停止し、こめかみに青筋が浮かんだ。
「八百長……だと……」
「あらら、さっそく厄介なのが絡んできましたね。これが俗に言う『荒らし』というやつですよ」
しょっぱなからネットの闇に触れてしまった紅子に対して、イルカが解説する。
「こういうのがいるから、お嬢様がネットするのは不安だったんですよねえ。お嬢様、こんな安っぽい煽りにのってはいけま」
「殺してやるわこいつーーーー!!!」
煽りにのってはいけません、とイルカが言い終える間もなく、紅子は光速で反応して怒りくるっていた。
「ふざけんなおい! 誰が八百長だよ! このカスが!」
目の前のキーボードに拳を叩きつけながら、顔を真っ赤にして紅子は怒鳴る。
「お嬢様……釣られるの速すぎですよ……」
「わたしはね! この言葉を今まで百回は言われてきたのよ! その度に、馬鹿どもの体でわたしの拳が本物だってことを教えてやったわ!」
「知ってますよ。『またクラッシャー・クレナイが暴力事件を起こした』って、ネットニュースで何度も見ましたから」
「この『さくらもち』ってやつにも、同じ教育が必要みたいね!」
「無理ですよ。ここにいない相手を、どうやって殴るんですか」
「うぐぐぐ……」
紅子は世界最強である。殴り合いの喧嘩なら、誰が相手でも負けはしない。だが殴れない敵が相手では、自慢の拳の破壊力もなんの意味も持たない。
インターネットは、まさに紅子にとって、相性最悪の戦場であった。
「お嬢様、落ち着いてください。この手の荒らしにムキになってはいけません。冷静に対処すればいいんですよ」
「……そう、そうね。大丈夫よ、炎城寺紅子はいつだってクールよ」
イルカの言葉で、とりあえず落ち着きを取り戻した紅子は、深呼吸して返信を打ち込んだ。
炎城寺紅子@Redfaire
『八百長とはなんですか? わたしは常に正々堂々と戦い、試合を勝ち抜いてきました。いい加減なことを言わないでください』
「よし、どうよ。クールで冷静な反論でしょ?」
「反論せずブロックしてください、と言いたかったのですが」
だが、紅子の自称クールで冷静な反論もむなしく、悪口や批判的な反応は次々とやってきた。
『炎城寺がTwiter初めたwwwバカ丸出しwww』
『うさぎ跳びって……この人なに言ってんの?』
『この人、インタビューの受け答えとかでも思ったけど、本当に残念な人なんだな……』
『ブス女まじで消えてくれよ。おまえのせいで、総合格闘技はつまらなくなったんだよ』
『八百長でチャンピオンになって嬉しいですか?』
『あの試合とかどうせやらせなんだろw』
「はああああああああ!? 何よコイツら!」
「見事にアンチだらけのリプライですね。……それにしても凄い。Twiter開設して二十分でこれだけ反応もらえるなんて、やはりお嬢様は余人とは違いますね」
「なにが『もらえる』よ、こいつらみんなわたしの悪口ばっか言ってんじゃない! このわたしにむかって、いい度胸ね!」
「いや、度胸がないから、匿名のネットでいきがってんですけどね、こいつらは。あははは」
イルカが笑いながら訂正するが、紅子にとってはまるで笑い事ではない。
「くそっ、こんな悪口だらけの反応が日常だなんて、インターネットって聞いてた以上に酷いところなのね」
いくらなんでも、こんな反応が普通なわけはないのだが、ネット初心者の紅子にはそれが分からない。
「まあまあ。こういう連中に、いちいち腹を立ててもきりがないですし。スルーしてればそのうち……」
しかし紅子の怒りは、とあるアンチの書き込みを見て、完全に臨界点を超えてしまう。
『炎城寺の試合見たことあるけど完全に素人。絶対仕込みだわwこんな女、俺ならワンパンで沈められるんだがwwww』
「こ、こ、こいつ……こっちが礼儀正しくしてたら、調子に乗りやがって……」
紅子の全身が震え、右手に掴んでいるマウスがミシミシと音を立てた。
「もう許せないわ!」
「落ち着いてください! お嬢様!」
炎城寺紅子@Redfaire
『わたしに勝てるっていうなら名前出して正々堂々勝負しろよ! 匿名でいきがるな!』
『うわ、なにこの女。勝負とか子供の喧嘩かよ……恥ずかしいやつだな』
炎城寺紅子@Redfaire
『お前が勝てるって言ったんだろ! 勝負してやるから名前と住所書けよ! 決闘だぞ! 逃げんなよ! ボコボコにしてやるからな!』
『ヒエッ〜幼稚園児なみの発言www』
炎城寺紅子@Redfaire
『住所書けって言ってんだろ卑怯者!』
『こいつ本当に十七歳なの? 七歳の間違いじゃないのww』
炎城寺紅子@Redfaire
『おまえ住所突き止めて殺すからな!』
炎城寺紅子@Redfaire
『絶対殺しに行ってやるから覚悟しとけよ!!!』
【このアカウントは凍結されました】
「………………」
「あらぁ……早かったですね。開設から三十分でアカBANされちゃいましたか」
「なによこれ……」
マウスを連打しながら、いっこうに操作できなくなった画面を見て、紅子がつぶやく。
「殺害予告するような悪質な利用者は、Twiterの運営からアカウントを停止されることがあるんですよ」
「なんでよ! 悪いのはあいつらの方でしょ! うがああーーーー!」
紅子が怒りに任せてキーボードを殴りつけ、キーキャップが2、3個飛び散った。