【急募】無敵の人の殺し方
ベル子。ベルフェゴール説ありますんで、以下は妄想という名の悪魔的言辞。
要するに人心を惑わす悪い文章です。
仮にだけど……。
仮に川崎の無差別殺人とか相模原の障害者殺人とか、京アニの放火とかが無敵の人によるものだとしたらどうだろうって思う。お茶の間で犯人の動機を探ってみると、行き着いてみると良くある話なのが無敵の人という言葉。
無敵の人っていうのは2ちゃんねるの創始者であるひろゆきさんが提唱した概念で、何も持たず何も捨てるものがないから無敵ってことで、犯罪をおかして捕まってもなんのダメージを負わない人のことを指すんだって。
無敵の人は社会に怨みを持ってるから、ルサンチマンに近い概念なんだろうけど、ルサンチマンほど志向性がないみたい。
とりあえずのところ、手軽に目についた弱者に対して暴力を向けるという性質があるように思える。
で、このあたりがよくわからないって思うよね。
持たざる者が持たざる状況にされてしまったというのであれば、そう仕向けた人たちに対して抵抗するというのが本来のあり方のように思うから。
つまり、金持ちや政治家の『子ども』を狙うというのが基本的な志向性になるべきだから。
金持ちや政治家自体を狙わないのは、その人たちは既に成功しちゃってるからだし、成功の最後の完成のピースは自分の分身たる子どもを殺すことにあろうから。もしも、無敵の人が革命家を目指すのなら、金持ちや政治家の子どもを殺すべきだよ。
川崎の事件はそういう意味では、論理的なのかもしれない。
でも、圧倒的に多いのはそういう志向性がない茫洋とした事件。つまり、明確なターゲットがいない。彼らは彼らを圧殺した社会というものを相手どっているわけではないように思う。
例えば、生活保護を受給している人たちがこの国では140万人ほどいる。不正受給ばかりが取りざたされるけれども、その割合は0.5パーセントほどで、ほとんどは高齢になって働けない人たちばかり。
生活保護は世帯分離されていないと、親や子どもが面倒をみないといけないことになっているから、ほとんどの場合、血縁・親族が現実的にいるにしても身寄りがいない人たちということになっている。
定義上は、生活保護を受給している人たちはほとんどの場合、無敵の人じゃないかな。お金もないし、大事な人もいないし、あと少しで死ぬような感じなわけだし。
ほかにも、引きこもりの人たちがこの国では100万人ほどいるといわれている。すでにニートの年齢である34歳を超えて、引きこもり中年。子ども部屋おじさんと呼ばれるようになった人たち。
この人たちもほとんどの場合は結婚もしないし、50歳くらいで80歳くらいの親の面倒をみないといけないから、親との暮らしが介護をすることメインになっていて、子どもの世話をするのは喜びではあろうけど、親の介護をするのは、哀しいだけという事実がある。
親が死ねば、何も残らないから、無敵の人に定義上あてはまるかもね。親の介護に喜びを見出す人がいれば別だろうけど、そんな精神性を持つ人はたぶん聖人クラスだよ。みんな早く死なないかなとか思いながら介護しているに決まってるよ。
だいたい引きこもりをしているってことは、そういう社会的な責任を担うことの面倒くささから逃れたいから引きこもってるわけだし、親の介護をしている引きこもりなんて、矛盾以外の何物でもない。
親の介護のために引きこもりになったという例もあるけど、その場合とは事情が違う。出発点が違うから。
いずれにしろ、引きこもりも無敵の人っぽいよね。
でも殺さない。あまり人は人を殺さないみたい。
何も持ってないからといって、人を殺すことは悪いことだと知ってる人間がほとんどであるし、人間を切り殺したり、焼き殺したりすることは趣味じゃない人がほとんどのように思える。
とはいえ、人を殺すことが禁止されているのは、それが快楽であるからだろうとも思う。殺すという極端な言葉を使っているけれども、人に迷惑をかけたり、好き勝手にふるまうということは、『趣味ではない』にしろ、確率的には増えていくものではないかな。
この利己的なふるまいは自分の生存に関わることであるから、本能的には正しいのだろうなと思う。それが抑圧されているのは、自分勝手に振舞うことが結局自己に降りかかってくることを多くの人が知っているからだろう。
あらゆるイデオロギーが死滅してしまった今でも、少なくとも因果応報というファンタジーはそれなりに信望されているのかもしれないね。
無敵の人が定義上あてはまっているにも関わらず、ほとんどは何もせずに死んでいくのは、人を殺すことがあまり趣味じゃないのと、実のところは自分の生存という意味ではまだ無敵ではないからかもしれない。
自分が死んでもいいというレベルで振り切れた人はそんなにいない。
それに親も死んで恋人がいない人でも、アニメを見たり、小説を読んだりして、あるいは住んでる安アパートで行き交うときに挨拶するぐらいでも社会的つながりを感じられて、やっぱり世界を滅ぼすのはやめようと思ってる人は多いかもしれない。
何も持ってない無敵の人でも、何も持ってない。何も捨てるものはないっていうのは主観的な『感じ方』だから、つまり赤い色を赤いと感じるのと同じ感じ方の問題だから、どんな苦境にたたされていても、自分は『持っている』と感じることはできる。
社会的つながりがあれば、人は人を殺さないのかもしれないし、迷惑もかけないように振舞うのかもしれない。
ひとりの凶悪犯が生まれるにはそれに万倍する犯罪者予備軍が存在するという説もある。実際に社会に対して怨みを持つ人間は無数にいるように思えるが、本当に放火したり殺人したりする人はほとんどいない。
よって、理論的に言えば、この無数にいるプチ無敵の人をどのようにして滅していくかというのがひとつの課題になりえる。
この点に関して、『与える』ことが、解決策であるという人も中にはいる。実際にひろゆきさんもウサギを与えればいいんじゃないかといっている。
無敵の人に関する無関心が無敵の人を生んでいるのではないかという仮説だ。
ただ、無関心というのも微妙に違う概念だと思うんだよね。
例えば生活保護を受けている透析患者に対して本来なら高いお金がかかる透析の治療とかを無料でするわけだけど、このお金の出所は結局のところ、みんなのお金なんだ。
生活保護の人でも、例えば、入院して病院でテレビを見たりすると、そのお金は生活扶助費から捻出しなければならない。これもみんなのお金なんだけど、誰が払うかバーカとか言っちゃう人がいる。これがプチ無敵の人。みんなやるべきことはやってるし、仕事にしろその人にかかわりを持ってるし、優しいよ。でもそんなの無敵の人からすれば"知るか"なんだ。
このプチ無敵の人をどう打倒するかというのが、今日の思考実験なんだけどさ。
例えば、暴力的にテレビの費用を払わない人に対して、生活扶助費が打ち切られるというのだったら、その人は払わざるを得ないだろうけど、生活扶助費は最低限の生活を送るだけのお金をその人が生み出せないから、国が代わりにそのお金を肩代わりしているわけであって、入院時にテレビを見たからといって、その費用までを肩代わりするものじゃない。
誰が払うかバーカは、わりと無敵だ。
お金がないから払わない。他人に迷惑をかけてよいという論理が通ってしまう。
つまり、無敵というのはそういう意味でもある。
お金を誰かに借りた側は無敵という話。
お金を持っていない人は無敵という話。
人を殺すほどの無敵感はないにしろ、因果応報が働いていない。
なので、因果応報を強化し、因果応報というファンタジーが正当であることを知らしめなければならないだろう。
はい。ここから悪魔的思考をいいますよ。
あくまで幼女作家ですから、多少はふんわりとした言い方にするけどね。
ひとつは凶悪犯に対しては残虐な刑罰を課すというのがいいかもしれないって話。
そもそもひとりの命で何人もの命とつりあいがとれるわけもないって考えるし、だったら死刑よりも重い刑を創るしかない。
憲法で残虐な刑罰は禁止されているけれども、国家という最高の暴力機関が暴走するのを防ぐというのが理由だと思う。であるならば、暴走しない限りにおいては、残虐刑というのも論理的にはありうる話ではないかな。人権屋さんは当然怒ると思うけどね。
ここ、『なろう』でも……。
なろう小説とかでも、わりと盗賊さんたちはみじめにむごたらしく殺されてたりするけど、作中の主張はきっと、残虐刑を肯定する考え方だと思う。
あるいは、なろう小説のなろう主人公って「無敵の人」っぽい属性持ちが多いんだけどさ、ヒロインというウサギを与えられて、一応は社会的な存在になるという意味では無敵の人脱却物語といえるのかもしれないね。なろう小説は無敵の人撲滅キャンペーンに少しは寄与しているのかなぁなんて考えたりもするよ。ただ根っこが無敵の人だから、基本的には迷惑になっても俺は困らないからべつにいいって考え方が主流っぽい気がするけどね。
現実的に発生する無敵の人ないしプチ無敵の人を滅ぼすほどの力はないかなぁ。
言ってみれば、なろう小説は無敵の人のリハビリ作品というかそういう系統なんじゃないかな。
リハビリも大事です。無敵の人というこころの「フレイル」を予防する効果があります。
※フレイル=虚弱のこと。
話がそれちゃった。
ともかく、まずは因果応報理論を正当なるものとして復権すること。
そのひとつが残虐刑の復活だということだけど、これはプチ無敵の人にはつりあいがとれてないかな。
凶悪犯の下地になっているプチ無敵の人。
他人に迷惑をかけても俺自身は困らないからどうでもいいという思考に対してのカウンターになりうるのは、残虐に殺されるかもしれないということでは微妙にほころびがある。
プチ無敵の人というのはいわば恥を知らない人のことだけど、スカッとなんたらみたいに、恥を与えて撃退するということがそもそもできるのかな。
できないよね。
だって確信犯的に、『迷惑をかけてもいい、恥なんてしらね』って思ってるから。
悪魔的にはさぁ、その思想に対抗するには、
暴力
しかないんじゃないかって思ったりもするよ。
暴力って言い方が醜聞だとすれば、仕事人のいる世の中って感じかな。スカッとなんたらみたいに、口で言い負かすのがうまいおばちゃんとかがたくさんいればいいんだろうけど、たぶん、プチ無敵の人はなにをするかわからない怖さがあるから、無敵じゃない人は手をだしにくい。
であれば、プチ無敵の人を滅ぼしていくのは、そこにビジネスの概念を持ち出すしかないかもしれないね。お金を持ってない人からお金を生み出すことは実はいまでも可能なんだ。貧困ビジネスってやつ。
例えば裏では国家直轄だけど民間の『ワーカー』と呼ばれる人たちを形成するとしよう。ワーカーは出来高なんだけど、無料低額宿泊所をたくさん経営していて、そこに身寄りがなくてお金が無い生活保護を受けているような無敵の人をたくさん押しこんでいくの。
で、無敵の人のなかには当然迷惑をかける人も出てくるんだけどさ、生活扶助費がなくなったからどうにかしてくれとか、さっき言ったみたいに入院してもテレビの費用とか遊興費を払わないとか、そういう確信犯的な人が出てきたら、工場とかに連れて行って働かせるの。
働きたくないって人はべつにそれでもいい。だって、本当に働かせるわけじゃないから。
まずは小指あたりを詰めてもらって、障害者手帳を取るのがいいかな。障害者になれば、障害加算がとれて、一万円から二万円くらいはつくよ。
つまりオマエは呼吸していればいい。生きてさえいればいいよ。
それでビジネスは成り立つからね。
これには国のほうもにっこり。だって、生活保護を受けていてかつ他人に迷惑すらかける存在になったら、指を一本一本失っていくのだから、恐ろしくて生活保護になんかなりたくないってことになる。国の負担は減る。
生活保護になったからといって、即座にそういうふうになるわけじゃなくて、あくまで無敵の人に犯罪志向性が表れたらそうなるという話にしないといけないけどね。生活保護にはなりたくてなったわけじゃないってみんな言うし、まっとうな生活保護受給者は因果応報的に怖い目にあうのはまちがってると思うから。
で、それでも無敵の人の無敵感がなくならなかったらどうすればいいかというと、最後には手足をもいだらどうかな。
いわゆる達磨さん状態。
で、無料低額宿泊所には五人一組で達磨さんのお世話をさせるとかさ。さすがに達磨さんにはなりたくないから、みんなもまっとうに迷惑をかけないで生きていくんじゃないかな。無敵の人も自分のいのちは惜しい。特にプチ無敵の人の場合は、なおさら惜しいと思ってる。
これには予防的効果もあって、突然変異的に凶行に及ぶ前に達磨になるから犯行実行能力を奪っちゃう。
そんな思考。
たぶん、これをファンタジーとかでやれば立派ななろう小説になるかもしれないな。最近は追放復讐系とか流行ってるらしいし。
うーん。ディストピアすぎるかな。
そうなると、凶悪犯を確率的に発生させてしまうほうがまだマシかな。
金持ちや政治家はきっと無敵の人のターゲットにはなりたくないだろうから、上のようなシステムをつくれればつくりたいって考えそうだけど、人権っていう発明も息が長いから、なかなか導入は難しいのかもしれないね。
ついでに言えば、そういう無敵の人の犯行が革命とかと同軸上に語られるのもどうかと思うけど、上のような仕組みはないにしろそれに近いようななんらかのビジネスモデルがあったとして、それに抗するかたちで、凶行に及んでるとしたら……、それはそれで人間の自由の発露であると考えたりもする。ディストピアになるよりは、凶行が確率的に発生するほうがまだしも良いといえるのかもしれない。『虎よ虎よ』的な発想かな。あれはみんながテロリストになりうる超能力を得るっていう話だからね。みんなが原発に忍び込んでボカンと爆発させることができる世界になるんだけど、それでいいよって話。
自由のためには人は人を殺してもいいのかな。
無敵の人の場合は、自由のためとかそんなの思ってないだろうけどね。
いずれにしろ人間の選択をわたしは尊重します。
なろう小説の暴力的なところは、少し抑制的に書いたほうがいいと思うな。
幼女的にはそう思います。