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他人

作者: 神尾睦

「これ以上最悪にはならないさ」

 まるであっけらかんとするように、男はなんら臆する様子もなくそういった。

『僕の罪を懺悔しよう』と、始まりは唐突に、そして見ず知らずの男に告げられた。

 その男はたまたま電車で隣になった。紺のスーツに真っ赤なネクタイというダサい組み合わせを、臆面もなく身に着けているのはひとえにその男が身なりに無頓着だったからであろう。

「そのまま黙って聞いてくれればいい。これは”病”の様なものだからね、喋っておかないと気が済まないんだよ」

 男は返答も無いままに話し出した。あるいは一方的会話に罪を感じないタイプなのかもしれない。

 人は誰かに、何かを聞いてもらいたい生き物だ。そしてその誰かを探すために、話す話題を見つけ出す。

「僕は取り柄のない男でね。それ故に仕事では多くのミスをする。上司や後輩からも呆れられている。家庭環境にいたっても私は何一つ嫁や娘にしてやることがない」

 促すまでもなく話が進んでいく経験は初めてであった。奇妙な感覚だ。まるで自分が天性の聞き上手であったかのような錯覚すら覚える。

「近頃、食欲がなかったんだ。謎の倦怠感もあった。だから今朝病院にいったんだ。そしたら”鬱病”と診断されたんだ。知っているかい、鬱病”は心の風邪と呼ぶんだ」

 男の話に一貫性は無かった。話したいことを話したいだけ話す。理性より感情で話すタイプなのだろう。

 こんな話をして、何が言いたいんだ。などとは思うまい。たわ言ついでに聞いてやろう。

「正直、僕が怠け者の病にかかるなんて思ってもいなかった。でも現代社会では鬱病なんて珍しくない。僕だけが特別ってわけじゃないんだ」

 鬱病は三人に一人がかかる病気と言われている。右や左に首を振れば一人は鬱の兆候があるという事だ。

 恐ろしい時代だ。

 建物がドンドン高くなって行く時代に、下を向いて歩く人間が溢れかえっているということだ。

 昔、アメリカで日本の通勤風景が取り上げられたが時代はその頃より更に悪化していると言えよう。

「会社を辞めようと考えているんだ。辞表も提出した。でも辞表は役職のあるものが書くんだといってと突き返された。平社員は退職届や退職願が一般的だってさ」

 それは初耳であった。いつか社会に出た時に役立てようとうすぼんやりと考える。

 そして今更ながらに気づいたことだが、いつの間にか男の話に聞き入っていた。別にそれが恥ずかしい事ではないのだが、内心の驚きを隠せない。

「そろそろ駅に着くね。それじゃ」

 そう言って男は立ち上がる。

「待って下さい。なぜ私なんかに話したんですか」

 自然と言葉が口からついて出た。自分でも驚いている。

「何故か。それは君が赤の他人だったからだよ」

 誰だって何かを話したいときはある。だが、それ以上に他人だからこそ話したくなるようなことがあってもいいのではないだろうか。

「それじゃ、最初の懺悔ってのは何だったんですか」

「これからの不徳に対する社会への贖罪だよ。予め申し開きをする事によって許しをこうなんて図々しいにもほどがあるんだけどね」

 男は会社を辞めることに強い自責の念を抱いている。ここまでに至る間に様々なことで悩み苦しみ、寝れぬ夜を明かしたことだろう。

 そんな男を誰が責めるというのか。

「最後に、これから貴方はどうするんですか」

「わからない。でも大丈夫、これ以上最悪にはならないさ」

 緩やかな振動と共に電車がゆっくりと停車位置へと着いた。

 そして、電車は動き始める。

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