表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

日常の崖際より。

作者: 枕くま。

【ざまあみろ。ザマアミロ。そして死ね。死ね。】(フリッカー式/佐藤友哉)

■ 1.


 部屋で死蔵していた古臭い小説を読んでいると、階下が妙に小うるさいのに気付いた。小説の出来不出来によらず、感覚からつまらないか否かを判断しかねていた僕は、その騒動に乗っかる形で決断を保留し、部屋を出た。

 廊下に出、戸を閉じる際に大人達に混じって子供の甲高い声があるのに気付く。近所の子だろうか? しかし、変声期も訪れていない子供に覚えはなかった。僕が知らないだけかもしれない。なにせ、ここずいぶんと部屋を出てすらいないのだ。学校は退屈だし、口を開けばみんな上っ面のしょうもないことしか口にしない。僕を慮ってくれているようでいて、彼等の本心は面倒事を手早く処理したいと云う、ただそれだけなのだ。自分の周囲に不安要素を残しておきたくないと云う、ただそれだけなのだ。本心から、少しも僕に対して深く関わろうともしない。僕自身、そんなことは欠片も望まないけれど、彼等は口々に本心からやさしく接しようと云うのに、ちっとも僕が譲歩しないとおべんちゃらを吐きやがる。どこの世界に自分のやさしさを率直に言葉にあらわす『やさしい人』があろうか。そんなものは、軒並みインチキだ。クソッたれさ。反吐が出るね。

 階段を一段一段降りていくと、キンキン声の叫びが轟く。少女の声だ。酷く不機嫌そうだな。関わり合いにならないべきか。しかし、どうも喉が渇いてしかたない。

 僕はあくまで飲み物を取りに来ただけの木っ端を意識し、リビングの戸を開ける。すると、僕の姿を見とめた母が、ああこれで助かったと云うような顔をした。久しぶりにそんな顔を見た。この母と来たら、僕が思うインチキおべんちゃらの筆頭なのだ。自分の腹の中から僕みたいな偏屈が捻り出されて来たのが余程気に入らないらしい。自分の腹の中が真っ黒だったと云う考えにはいつ至るのだろう。

「あんた、いいとこに来たね」

 なにがいいもんかと思ったけれど、母の僕を頼ろうと云う声色に、僕は妙に従順な態度を見せてしまう。僕は人に頼られることが、それほどきらいではないのだ。それがインチキおべんちゃらであろうとね。人なんかみんなインチキおべんちゃらみたいなものだからさ。人はみな平等であるべきだ。僕も含めて、どいつもひたすら平坦なクソッたれだ。

「なにか用? 我が家のサイコパスになにを頼もうって?」

 僕が云うと、母は表情を不愉快そうに曇らせた。お前の顔はなにを考えているのか、ちっとも判らないといつか母は僕に云ったのだ。僕が頭をおかしくして、犯罪にでも手を染めようとしているかのように。その時、僕はずいぶんと頭にきたものだ。よし、手始めにお前の首を鉈で叩き切ることにしよう。そう思うくらいには。

「ふざけたことは云わないで頂戴。お客様が来ているんだから」

 僕はようやく、そこに見知らぬ女性とローティーンの少女の姿を見とめた。女性は小皺を丹念に化粧で隠していたのにも関わらず、さめざめと泣いた後のようで、白い頬に幾重にも涙の筋を残している。僕はさっそくうんざりしてしまった。

 女性は母と向かい合ってソファに腰を据え、スカートから伸びた足の膝小僧を合わせてこじんまりとした雰囲気に纏まっている。歳は幾つくらいだろう。少なくとも、彼女の足元で持参した玩具を派手にぶちまけている少女の親と云うには、いささか歳を取り過ぎているようにも見える。僕の値踏みする視線に良くないものを感じたのか、母がごほんと判りやすく空咳を打った。

「こちら、井本さん。私のむかしの友達なの」

 母の紹介に、井本さんは恐る恐ると云うふうに小さく会釈した。僕はなぜだか申し訳のない気持ちにさせられたが、そんな謂れもない気がして、棒立ちのまま彼女のほうを見つめる他なかった。間の抜けた僕を、母が険しい眼差しで一瞥して、「すみませんねえ」と感情を含んだ声音を調節して云った。癪に障ったが、僕の不手際の結果なので、黙していなした。

「それで、どう云うこと? 僕がいいとこに来たって」

 井本さんが菓子折りでも持ってきて下すって、そのおこぼれに与れると云う話なら受けないでもない。しかし、一度受動の姿勢を見せた時点で、僕に舵を切る権限は恐らくなくなったと云っていいだろうけど。これは僕の勘だ。外れたためしのない、経験に裏打ちされたものだ。僕はいつも同じように貧乏くじを引かされる。

 しかし、母はなかなか本題を話そうとしなかった。井本さんのほうを、視界の端でちらちらと窺って、次に少女のほうを見、最後に僕のほうを見る。なにかを察しろと云われている気がし、僕は首を竦めた。他ならぬ我が母上のこの下手糞な隠密行動に、僕はほとほと嫌気がさすと同時に、面倒臭い話が待ち受けているに違いないと悟ったからだ。

「お茶のお代わりはいかがです?」

 母が唐突に井本さんに話を振った。

 井本さんは、少々気圧された様子で(この女性は目の前で、たとえ蟻に威嚇されたとしても一々気圧されそうだけれど)、いいえ、お構いなく、と右手を軽く振った。どちらでも構わないので、とりあえず遠慮しておくアレだな、と僕は偏屈と青さの入り混じった小汚い頭で思った。

「まぁまぁ、そう遠慮なさらないで」

 そう云って、母は台所に、僕の傍に来る。母は妙に頑なだ。

「あら、お茶っ葉切らしたかしら」

 茶筒を開けてそんな白々しいことを云うものだから、僕がそっと覗き見ると、茶葉は半分ほど入っているのだ。それを悪戯心で指摘しようとすると、心の底冷えするような目で睨みつけられ、僕は反射的に口を噤まざるを得なかった。絶望の淵のような色の目をしたまま、母の口調は明るかった。

「すみませんねえ、備えが悪くって。ちょっと向こうを見てきますから」

 母は僕の腹を肘で思い切り突き回して来たので、僕も着いて行くしかなかった。「ああ! 僕もお供しますお母様!」とでも大仰な台詞調で云ってやろうかと思ったが、僕等の珍劇を、いつからか少女が冷やかな目線で観察していたのを見、なにも云えなくなってしまう。代わりに、ささやかな反抗心から、黙して母の後を追った。井本さんの、お構いなくと云うか細い声が、さらに僕の背を追った。

 廊下に出ると、不機嫌な顔をした母が待ち受けていた。それだけでうんざりして首を括りたい気持ちだが、僕としては少々長生きしたい心持だったので、無視して自室に帰ろうとすると、首根っこを掴まれた。息苦しさの中、僕は猫かなにかだったろうかと至極純粋な疑問が浮かぶ。首根っこを掴まれて然るべき存在は猫と相場は決まっているのだ。すると、今、僕の首を引っ掴む母上様もケダモノと云う話だ。

「あんた、ちょっと協力して欲しいのよ」

 協力、ときた。

「だったら、この手を放してくれよ! 脅迫と強制を協力だなんて」

 母は生意気なことを云う僕を眉間の皺の間に挟んで圧殺したそうな顔で睨んだ。こっちは都合のいい言葉の綾に反吐が出そうだって云うのに。

「あの親子、なんなの?」

 僕が率直に訊ねると、母はただでさえ険しい顔をこれでもかとさらに険しくした。母の険しさには幾億もの種類と段階があるものだと、僕は感心した。常に限界を越えようとする姿勢には市中の喝采を得るだろう。その前に僕の犯罪の第一の犠牲者になって貰えば、母も余計な苦労を背負い込まなくって済むだろうさ。

 母はとても云い難そうに、もったいぶって話し始めた。

「……お母さん、前に『世界でいちばん幸せになろう会』に参加してたじゃない?」

 その、頭が悪過ぎて悪過ぎて即死しそうな会の名前を聞いて、僕は卒倒しそうになるのをやっとこさ堪える。両親が参加していたそのクソの噴火口のような会は、十年ほど前にこの街の主婦達の間で大いに受けた。どこからやって来たのか、黒のタートルネックに黒のニット帽を被り、グラサンを掛けて、高圧的に現状のあらゆる物事をボロクソに叩く男が、自らを講師であると自称した。特撮ドラマの怪人と比較しても怪しさに遜色ないそいつに、大人達がみんながみんな騙されていくのは、見ていて爽快なくらいだった。物事をボロクソに云うことにかけては僕にしても負けてはいないけれど、こいつの巧妙なところは貶した挙句に流麗な話術でもって、しっかり良いと思われる方向に話を持っていくところだった。さしもの僕でさえ舌を巻く手腕だった。


『 この国は駄目。経済は駄目。なにもかもがこれ以上良い方向には向かわないでしょう。それは街を見ても判ります。若者の衣服は乱れ、風紀も乱れ、言葉までも乱れています。彼等を救う手立てすらなく、良い者だけを国は掬い取ります(金魚掬いみたいにな、と僕は思った。)これで、果たして良いのでしょうか? 未来ある若者を正しく導くこともせず、絹で濾し取るような真似をして、ほんとうに良い社会になるのでしょうか? 私共はそんな彼等と、彼等を擁するご家族の皆皆様のため、より良き社会よりも、まずは皆様です! 皆様が寄り集まり、形成されるものこそが社会なのです。皆様をお救いすること、それこそ、私共が為さねばならぬことなのです。 』


 概ね、そんな馬鹿げた話をしていた。

 そんな馬鹿げた話を、母はまるで託宣を受けた敬虔なクリスチャンのような、真剣な眼差しで受け止めていた。母は僕の手をぎゅっと握りしめていて、その手のじんわりとした熱を、僕はなかなか忘れることが出来ない。講師はその後、妙な教材をしこたま喧伝し、札を握った大人達は我先にと群がった。その会は真に善良な市民により通報され、警察が踏み込んだ時には既に事務所はもぬけの殻だった。僕も両親に連れられて、見物しに行ったのだ。人は疎らに集まっていたが、みな僕の両親と同じように、心をどこかに置いてきたような顔をしていた。誰にでも扱えそうな下らない正論の書かれた教材をたらふく抱え、呆然とした信者が空っぽの事務所の前に何人も立ち尽くしていた。

「あのクソッたれの会のお仲間ってわけ?」

「汚い言葉を使わないで頂戴」

 母はそう云って、深く溜め息を吐いた。まるで自分が被害者であるかのように。自分から矢面に立ち、真摯に正論を吐き散らかす奴は政治屋か批評家か、詐欺師くらいのものだ。そんなことも判らないで、見た目の怪しさに目を瞑って、なに様だろう。自分の安心のために、目の前を自分勝手に解釈して、当たり前に裏切られて、それで被害者ぶるつもりかよ。お前の頭は何のためについてるんだ? お前の責任に対する観念はどこにいった? 笑わせんじゃねえよ。つまんない冗談なんかで。

僕は胸の内がぐずぐずに腐ってしまいそうな気分に吐き気がした。もう何も聞きたくなんかなかった。僕の表情を察して、母の声色が深く濃紺の色合いを示し始める。

「……あの子の家、ほんとうに大変なのよ」

「やめてくれよ、聞きたくなんかない」

 僕の悲痛な制止の言葉は母の耳に届かないらしかった。

「前の旦那に逃げられて、途方に暮れたところに優しく声をかけてくれる男性がやって来たんだって。その人もバツイチで、子供を抱えていたの。その子は足が悪くって、でも二人なら乗り越えていけるって、そう思ったらしいの」

「既にもう、ひとり欠けてるな。だからもう――、」

「聞いて。それで、二人は再婚して、最初のほうはうまくいっていたの。新しい旦那もやさしくて、でも、子供のほうはちっとも懐いてくれなくて」

「当たり前だ、前提からハブにされてちゃ――、」

「口を挿まないで頂戴」

 僕がぐだぐだと敵意を撒き散らすのを、母は例の眼差しでもって押し留めようとした。心根も冷め、どうせ他人事だと云う腐り切った妥協案が鎌首をもたげてくるまで、それが僕の口をついて忍び出てくるまで、母は僕をじっと睨みつけていた。僕は猫どころか、犬畜生やもしれないな。パブロフドッグだ。手始めに軽い電撃を見舞ってくれよ。クソ。

「……それで、旦那が段々と本性を露わにして来たの。井本さんに暴力を振るったり子供を投げ飛ばしたり。それで、最後にはどこかに行ってしまったの。子供ひとり放って、行方知れず。ね? 酷い話でしょ?」

「だから、聞きたくないって云ったんだ」

 僕は自分の中身が毒されてしまった気がした。不憫は不憫だ。だけど、そりゃあの怪しさが巨大化してランニングしてるような会にも騙されると云うものだ。と、そこで小さな疑問が生まれた。

「それ、井本さんがあの会に参加する前の話なの?」

 僕の言葉に、母はまた不可思議な反応を見せた。あれだけ人の秘め事をつらつらと恥も知らずにぶちまけたくせに、他になにを云い澱むことがあるだろう。頭の螺子がいくつか緩んでいるに違いない。しかし、この螺子の緩みはことの他深刻なものだった。その話を聞いてしまった僕は、僕の持論をまるっきり冗談で済ますことが出来なくなった。僕の脳みそは不具者のそれになった。曖昧な耳元で母がなにかごちゃごちゃと云っている。

「じゃあ、お願いね」

 母はそう云ってリビングに戻っていった。死んだように静かだったリビングに、母の喧しい声が響く。ひっそりと静かな廊下にひとり、僕は立ち尽くしていた。



■ 2.


「なにしてるの?」

 僕が話しかけると、少女は不審そうな眼で僕を見上げた。その冴え渡る警戒の機微に、僕はちょっとばかし感動した。周囲の大人共にもぜひ見習って貰いたい態度だ。今、我が家には僕と目の前の少女しかいない。母が、井本さんを連れて気晴らしとか云う身勝手な歌い文句で、さっさとおさらばしてしまったからだ。母にはそろそろ知っておいて貰いたいことがあって、それは、気晴らしなんかで晴れる気など、この世のどこにもないと云うことだ。

「お母さんは?」

 座り込んだまま、少女は僕の目をじっと覗き込んだ。まず親の所在、つまりは見知らぬ家の中で、自分を守ってくれるはずの存在を確認した。僕は気晴らしに出掛けたよと云いそうになって、喉元の言葉をぐっと飲み込んだ。

「ケーキを買いに行ったよ、僕等のために」

「そう」

 少女は端的に納得を示し、僕は傍のソファに腰を落ち着けた。窓から射し込む柔らかな陽射しが、窓枠型の影を落としている。その十字の中心で、少女はガラクタを弄び続けていた。僕は段々とコーヒーが飲みたくなってきた。混じりっ気のない、特別苦い物を。

「ジュースでも飲む?」

 僕が訊ねると、少女は素直に頷いた。僕は落ち着かない気持ちのまま立ち上がり、台所に向かう。しかし、両足が巧く動作せず、ぎくしゃくとした自分の歩き方を嫌悪した。僕はこんなに無様だったろうか? そんなことは微塵も考えたくないことだけれど。どうにか台所に辿りつき、戸棚からインスタントコーヒーの瓶を出すと、少女が声を上げた。

「私、やっぱりコーヒーがいいわ」

 僕は微笑ましい気持ちのまま、「そいつは大人だね」と口走ってしまう。少女は明らかに不愉快そうな顔になった。

「なぜ? 飲み物ひとつでどうして私が大人ってことになるの? コーヒーは未成年でも飲用可でしょ? そう云う言葉は私がトチ狂ってビールを飲みたいと云い出してからにして!」

「判った、判ったよ。僕が悪かった。そう怒らないでくれ」

 僕が小さめのコーヒーカップを用意すると、少女は途端に申し訳のなさそうな顔をした。どうやら感情の起伏に素直な性格のようだった。

「……ごめんなさい、私、いつもは初めて会った人にこんなこと云わないのよ、絶対」

「良いんだ。僕が不用意だった。君がまだ、僕よりずいぶんと小さいから、つい先輩風を吹かしたくなったんだな。とんだインチキだったよ」

「インチキ?」

 少女は不思議そうに小首を傾げた。

「そう、インチキだ。大人が当たり前の顔をして自分の意見やなんかを無理やり押し通そうとしたり、型枠に嵌めて褒めたり貶したり、そう云う、身勝手なものをインチキと呼ぶんだ、僕は」

「それはすごい発明ね」

 少女はそう云ってから、少しだけ慌てた。

「今のは嫌味な意味じゃないのよ? 本心からそう思ったの、だから――、」

「いいさ、そもそも僕の発明ってわけじゃない。ルーツはどこだか知らないけれど、ともかくこの言葉を好んで遣う輩の胸にはいつもホールデン・コールフィールドがいるのは違いないな」

「誰?」

「大昔からいる、みんなの悪友みたいな奴だ。後でそいつが思い切り管を巻いている小説を貸してあげよう」

「……私、小説なんか読んだことないわ」

「難しかったら、無理に読まなくっていいんだ。返すのはいつでもいいよ。君が然るべき時に読んだらいい。何事も、無理やりは良くない。何事もね」

 僕はカップに粉末を落しながら、なんだか気分が良いことに気付いていた。

「あんまり粉を入れないでね」

 少女が首を伸ばして注文した。

「苦過ぎるのって、苦手なの。風味くらいでいいわ。砂糖も入れないで。私、缶コーヒーの微糖は普通に飲めるんだけど、自分で淹れるとなると、全然甘さの調節が利かないの。お母さんもそう。苦さと甘さがちっとも混ざらないで、ホント、泥水みたいで……」

 少女が自分の口の悪さに自己嫌悪を催す前に、僕は返事をした。



■ 3.


 僕がカップを差し出すと、少女は両手を伸ばして受け止めた。

「ありがとう」

 僕は自分のカップを慎重に持ちながら、ソファに座る。今度は気持ちまできちんと落ち着くような気がした。

「りか」

 不意に、少女が云う。それが、その子の名前であると思い至るのに少しの時間を要した。僕はなぜ名前を初めに訊ねなかったのかと、恥ずかしい気持ちがして、それを詫びながら自分の名前を伝えた。少女はお互い様と笑った。

「あなた、あんまり人にあれこれ詮索しないのね。私、八歳にしちゃ大人びてるふうに見えるらしくって、いっつも気持ち悪いくらい褒められるのに」

 僕は喉がぐっと引き締まるような感覚を堪えながら、「そうなんだ」とだけ答えた。

 それから、少女はまたぶちまけた玩具を規則正しく並べ始める。「それで、なにをしてたの?」僕が初めの問いに戻ると、りかは「おままごと」と云った。今の八歳はまだままごとが出来る幼さを保持出来るのかと驚いたが、別段、言及するようなことでもない。

「さっきまで、あなたのお母さんに相手して貰ってたんだけど、こう云っちゃあなんだけど、ヘッタクソだったの。受け答えも上の空で適当。私を微笑ましそうに見つめているだけで、ちっとも真面目に取り組んでくれないのだから。思わず怒っちゃった」

 りかの文句に、僕は素直に賛同した。母のインチキおべんちゃらは僕等の中で共通のものらしい。おどけて云うと、りかはくすぐったそうに笑った。その遠慮の滲む微笑はまるで、今まで誰かをこんなふうにからかってみることもなかったかのようだった。

「あなた、良かったらお相手してくれない?」

 りかの申し出に、僕はほとんど反射的に首を横に振った。

「申し訳ないけど、僕には荷が重いな。くすぐったくて、きっと真面目には取り組めないよ。ほんとう、申し訳ないけれど」

「いいわ、出来ないならそうはっきり云ってくれたほうが面倒がないもの」

 下手な芝居はもううんざりなの。りかは忙しない手の動きに視線をぴたりと沿わせ、黙々と作業にのめり込んで行った。そう、僕の眼にはそれは最早遊びではなく、なんらかの作業のように映っていた。シルバニアファミリーの人形が二三、あっちへ行きこっちへ行き、強烈な焦燥感のみに振り回される記憶障害者のような動きが僕を楽しませた。僕はりかの見事な手際にしばし見入り、時おり熱いコーヒーをすすった。

 時間が泥のようにゆったりと流れ澱んでいた。だらしなく弛緩している、と僕は思った。それが悪いとも良いとも云えないけれど、ただそう思った。心地良いとは、云える気がした。僕はりかの手にした、ヒゲを蓄えたウサギ面の片方の足が失せているのを見、気付かないふりをして「ねえ」と声をかける。

「お母さんは好き?」

 りかはきょとんとした眼差しで、僕の目を覗いた。

「好きよ。嫌ったことなんかない。でも、どうしてそんなことを訊くの?」

「判断材料にしたくてね。さっき見た通り、僕にも母親がいるけど、僕はあんまり好ましく思っていないんだ。それで、他の人はどうなのかなと思ってね」

「どうして嫌うの?」

 りかの眼差しに堪え切れなくなり、そっと視線を外し、薄暗い天井を見上げた。

「理由は、よく判らない。でも、きっかけはあったと思うんだ。それは、そうだな、もう十年も前のことになる。僕の母親はね。詐欺に引っかかったんだ」

「騙されたの?」

 その口調から、彼女は自分の母親の件については知らないようだった。

「騙された方が馬鹿みたいな話さ。当時、もっと子供だった僕から見たって、相当怪しい奴等だった。でも、騙された。そこは、若者をとにかく馬鹿にする世間の風潮に乗っかって、我が子を馬鹿にしたくない親達をターゲットにした言葉を巧みに使ったんだ。もしくは、馬鹿な子を持つ親達だ。酷いもんだったな。会場には無理やり連れて来られたやんちゃな奴等が暴れたりして。で、それがまた他の親達の不安を煽るんだ。でも、僕はまだまだ子供だったんだ。誰かを殴ったり、馬鹿にしたり、下品な言葉を遣うより、サッカーボールを蹴ったり、外を走り回ったりしてる方がずっと楽しかった。なのに、僕の母親はね、僕を何度も、何度も、そこに連れて行ったんだ。高い金をばら撒いて、こう云うんだぜ?


『先生、うちの子ったらまた成績が落ちたんです! このままじゃあ馬鹿に育ってしまいます! 助けてください! 恥知らずの子なんか持ちたくないんです!』


 ってさ。僕はすっかり呆れてしまったよ。まったく殺してやりたかったな。僕はなにをしたわけでもない。僕はまともだった! なのに、母親には僕があの無暗に暴れ回る狂人染みたやんちゃ坊主共とおんなじに見えてたってわけだ! ……それでも、まあこの際いいんだ。もしかしたら、そうなってたかもしれない。そこは結果論だから。

でもな、あの女は自分の手すらかけずに、余所のインチキ詐欺師に親としての責任をそっくり明け渡そうとした、僕はそこに完全に失望したんだ。悲しくなっちまったんだ。死にたいくらいだった!」

 りかは僕の言葉をじっと聞いていた。賢い子だと思った。きっと、僕の長ったらしい話の半分も理解出来ていないだろうに、僕をほんとうに慮って、突き放すまいとして、判らないって言葉を飲んでくれている。僕はこの子に、すっかり好意を抱いてしまった。もちろん、健全な、親愛の情と云う意味だけど。

 しばらく、部屋の中は静けさに包まれた。

 小鳥のさえずりや、行ったり来たりする車の走行音がくっきり聞こえるくらいだった。僕はぬるくなった珈琲を飲み干して、コップを机に置いた。りかは、手元でシルバニアファミリーの人形をぶつけあっていた。遊んでいるのかと思ったけれど、なにか考え込んでいる間の手慰みと云うことに、僕は気付いた。

「……私のお父さんもね、ちょっと変なの」

 その語り口から、僕はもう悲しくなってしまう。

「すごく怒りっぽくて、いっつもお母さんに酷いことを云うの。ババアとか、淫売とか、色狂いとかなんとか……。確かに、お父さん、お母さんと比べるとずいぶん若く見えるのね。でも、そんな言葉を遣うのはちょっと、その……止めて欲しいの。でも、お父さんもね、可哀そうなのよ。……足がね、動かないの。片一方。産まれつきみたいで、治らないの。それで、私のお祖父さんにも捨てられたんだって」

 僕は重苦しい溜め息を、りかに気付かれないように吐くことに専念した。僕は母から訊いた話が、性質の悪いクソッたれの冗談であって欲しいと思った。でも、冗談なんかではなかった。冗談みたいな現実だった。

 井本さんと二人目の夫は、そりゃあ初めは巧くいっていたらしい。でも、井本さんはどうにも特殊なご趣味をお持ちだった。小児性愛。産まれつきのクソだった。あのしおらしい態度の裏っ側で、年端もいかない少年達への甘美と背徳に満ちた妄想にくびったけだったと云うわけだ。そこへ、棚からぼた餅。生活を保障してくれる現金自動発生装置と自分の性対象にぴったりの親子がやって来た。母は言葉を濁していたけど、結果はそうで間違いない。そして、これもまた母は濁していたけれども、井本さんは、その新しい息子を、足の動かない息子を、なんとレイプしやがった!

 きっと、一回や二回の話じゃない。いや、回数でどうこう云う話ではないけれど。それで、井本さんに子供が出来てしまった。貞操観念にも愛想を尽かされているらしい。理性がない。そして、それが夫にばれた。暴力の日々が始まり、挙句二人は捨てられた。

 望まない行為から望まない子が生まれ、唯一信頼した父親を裏切らされ、捨てられ、その新しい息子は、心を完全に壊してしまった。行為の最中にも好ましい反応を示さなくなった。そこで、井本さんはあの死滅した脳細胞が生みだしたようなネーミングの会に参加していた。

 井本さんは、近頃ご無沙汰らしいと云う。その新しい息子がすっかり成長してしまったからだ。別れたい、自分なりの生活をもう一度見直したい。そう云っているらしい。

 死んでくれないか。

 どこをどうしたら、あんなにも臆病な人間が、そこまでの暴虐に満ちた考えを続けられるのだろう。それは、僕だって周りを犠牲にしてでも何かをなしたい、そう云う気持ちは判る。でも、井本さんの自分勝手は反吐の出る類だ。死んで償うべきものだ。

「でも、」

 云い知れない嫌悪と怒りに爆発しそうになっていた僕に、りかは云った。

「でも、私、お父さんも好きなの」

 僕はなにも云うべきじゃなかった。

「泣いてるの?」

 りかの言葉に、応えるべきものを、僕は何ひとつ持たないのだ。



■ 4.


 やがて、井本さんと母親が帰って来た。僕はその色キチガイの裏の顔を糾弾してやりたかったけれど、りかを前にそんなこと、間違っても出来なかった。井本さんはニコニコと心の底から湧いたような笑顔でりかに手を振った。その薄汚い手には、有名ブランドの紙袋がたんまり。ケーキの箱はどこにもない。

 りかは井本さんの方へ駆けて行く。

 その手を取って、引きとめることが僕には出来ない。僕はもどかしくて、仕方がなかった。死んだ方がいいくらい、僕には力がない。弱者。弱者は自覚して死ぬべきだ。弱者のための椅子はない。弱者のためのマイクはない。弱者に貸す耳も手も目もない。この世の中に弱者が存在していい理由なんてこれっぽっちもない。そして、僕も弱者だ。

「お母さん、ケーキは?」

「ケーキ?」

 井本さんは不思議そうな顔。

「じゃあ、帰りに買いましょうね。きちんとお留守番してた?」

「うん、お兄ちゃんに遊んでもらったの」

 りかは喜色満面に云う。

「あらそうなの? すみませんねえ、お手数おかけして」

 沈黙。

 僕は汚泥で歯を磨くような人種と交わす言葉を持たない。

 場の空気が淀む。母がキッと眉根寄せた。

「こら、ちゃんと挨拶しなさいな」

 沈黙。

 やがて、井本さんの笑みが凍りつき、次第に表情が薄れていくのを見た。冷酷な眼差しの、針のような閃きを。

 それがお前の本性かよ。

 嘘の笑顔で、周りを油断させて、嘘の遠慮で、周りをご満悦にさせて、嘘の謙虚で、周りへそれとなく線を引いて、それで頭の中は悪魔染みた色情でいっぱいなのか。

「りかちゃん」

 僕はその場にしゃがみ、りかに視線を合わせた。そして、僕はその手に約束していた小説を持たせた。すると、その表紙を見た井本さんが「あら!」と声を上げた。

「私もよく読みましたよ! ライ麦畑でつかまえて! えぇえぇ、十代も半ばの頃です。当時、不安定だった私に寄り添ってくれるような内容で、本当にいい本ですよねぇ。でも、この子にはまだ早いような」

 僕はその声を無視した。この本を自己肯定のうっとりのために食い潰すクソの言葉に価値はない。クソは黙れ。クソは本来、喋らない。

「さっきも云った通りだよ。無理には読まないで。本当は、こう云うのは読む必要がなかったら読まないでもいいんだ。でも、もしいつか読んでくれたら、その時初めて返しに来て欲しい」

 すると、りかは少しだけ悲しい顔をした。

「……これを読まないと、ここに来たらいけない?」

 僕は微笑ましい気持ちになって、思わず笑った。

「いいさ。いつでも来なよ。そしたら、また苦くない珈琲を淹れよう」

「よかった!」

 りかは嬉しそうにし、僕は何度も頷いてやった。それから、りかは僕に向けて何度も何度も手を振って、井本さんに連れられて、帰って行った。

 玄関の戸が閉まると、室内はりかのいなくなった分だけ、薄暗くなった気がした。僕はしばらく玄関の前に立ち尽くしていた。

すると、母が身を震わせ、心底嫌悪感を滲ませて云った。


「あぁ、気持ちの悪い家族!」


 僕は振り向きざまに右ストレートを見舞った。

 その動作は完全に母の意表を突いた。

僕の拳は母の鼻っ柱を砕き、母の意識を奪った。

母はびゅーっと鼻血を吹いて漫画みたいにぶっ倒れた。

僕は仰向けに倒れたまま動かない母をしばらく見降ろした後、自室に向けて歩き出した。階段をずんずん上る間、明日から学校に行こうと決意した。そして、もっともっと勉強しようと思った。なぜなら僕には、力が必要だから。

 嘘とインチキを嗅ぎ付けるやり方はホールデンにしっかり教わった。

 次やることは決まっている。

 インチキ共を蹴散らすのもそうだ。崖際に立って、落っこちそうな子達をそっと捕まえて、崖から遠ざけてやらなければ。夢で終わったホールデンの望みを、僕が成し遂げてやる。そのためには力がいる。力が。

 部屋に入り、ベッドに横になった僕は、初めて階下でのびている母のことを考えた。

 母さんには悪いけど、深刻なふうにはちっとも思えなかった。

 父さんが帰って来たら。きっと驚くだろうな。

 圧倒的な希望の中、僕は声を上げて笑った。

青春小説を読み出してから2年。佐藤友哉の書籍に衝撃を受けてから1年半。現状こんなもんしか頭から出て来ないってことが、僕にはもどかしくて仕方がない。しかし、出てしまったからには、たとえ誰もこの話を読まなかろうが、読んだ上でクソ扱いしようが、僕だけはこの物語を好きだと云いたい。たとえ改善の余地が七割を超えていようとね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] おっすおっす。それでは書いていくぜ。 毎度の通り、自分も他人も斜め下に見た鬱々とした文章は流石の一言。登場人物のはてしないくそっぷりと女の子に少しだけ救いをあげて、最後は前向きに終わるあた…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ