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前編



女性に囲まれ、うっとりするような美しい笑みを浮かべる貴公子は、華々しい広間に数多くの男性のいる中でも一際際立った美貌を持つ男だった。

整った精悍な顔立ち、長身の逞しい躰に隙なく着こなされた燕尾服。

表情は柔らかいのに、凛々しさを失わない魅力的な灰色の瞳。

その唇がゆっくりと弧を描くと、イオリアはその口元に釘付けになった。一度だけ触れ合わされたその感触を思い出してしまい、僅かに頬に朱を走らせると、誰にも悟られないよう顔を背け、熱を逃がすようにそっと息を吐く。

アレクシス・バージル・オルヴィスタム・グランフェルト伯爵。

数代前には冬狼の名を持つ将軍を輩出した名家の当主だ。

青藍の髪色に灰色の瞳に飾られた恵まれた容姿。そして、当代切っての宰相に一目置かれるその政治手腕は同世代では並び立つものがいないという。

その自信に満ちた内面が、こぼれ落ちるように男の魅力を更に輝かせる。

(それに比べて、なんて平凡な私)

落胆はいつものこと。平均的な身長に、そこそこの顔立ち。窓硝子に映る自分は、対して見栄えのする容姿など持ってはいない。

加えて、同じ伯爵家と言えども、こちらは没落寸前の貧乏貴族だ。

比べるのも烏滸がましいだろう。

別に卑屈になっているわけでも、いじけているわけでもなく、それが純然たる事実である。

そんな釣り合わない二人は婚約という形で結びついている。

ただし、当然というべきか、「仮初」と、頭にはつくのだが。


彼と出会ったのは、イオリアが13歳の時だった。当然、社交界デビューなど果たしていない。

仮に年齢に達していたとしても、まずお金がなかったから、碌なデビューにはならなかっただろう。

人の良い父は頼まれるたびにお金を貸してしまい、ブレイアム伯爵家の家計は火の車、領地の管理もままならなくなっていた。

それでも、農地には適さず貧しい領地を、縫製技術に長けたこの地独自の産業でどうにか豊かにできないものかと、イオリアは子供ながらにギルドの技術者や商人たちとない知恵を絞り、試行錯誤を繰り返した。その結果が少しずつ実を結び始めた矢先。

父が保証人をした相手が失踪し、またもや借金が増えた。

家が傾く。取り立てる税を増やせるほど、領民たちには余裕がない。

困り果てたイオリアの元にやってきたのが、アレクシスだった。

「借金を肩代わりする代わりに、婚約者になって欲しい」

面倒な縁談を断るためだと、男はそう言った。

ブレイアム家は血統だけならばかなり古く、落ちぶれたといっても、家名だけでなら名家のひとつ。

ようは、イオリアはお金で買われた婚約者なのだ。

あまりに美しい大人の男性にぽっかりと見蕩れていたイオリアは、なるほどと自分に白羽の矢が立った理由を理解した。

その当時は彼には好きな人はいなかったのだろう。それに、イオリアの年齢的にも結婚を急ぐ必要もない。問題が生じれば、婚約を解消すればいいと、彼はそう言ってにっこりと微笑んだ。

確かに、一方的に婚約解消を通告されたとしても、ブレイアム家はふたつ返事で受け入れるしかない。

都合の良い婚約者。

けれど、それを隠そうともしないあまりにも明け透けな態度に、毒気を抜かれ。

向けられた笑みは優しく、差し出された手はとても親切だったから。

背に腹はかえられぬ。

そんな心情で、彼の手を取った。


あれから5年。


アレクシスは紳士だった。

偽りでしかない関係なのに、彼はイオリアをとても大切にしてくれたし、ブレイアム伯爵家の立て直しにも協力してくれた。

省みて、イオリアは彼の結婚を阻止する堤防になったに過ぎないのだ。

そして今。アレクシスには好きな女性がいる。

リュージュ・フォンテ・エランジュ侯爵令嬢。とても可愛らしく、楚々とした女性だ。

針仕事を手伝うイオリアのように手に肉刺などないに違いない。

男の隣に立つ姿も、とてもお似合いだと思う。

こうなると、堤防は守るものじゃなく、妨害の役割に変わってしまった。

仮初の婚約なのだから、律儀に婚約など続けなくてもよかろうに。

初めの契約通り、すぐに婚約解消の話が出るものと覚悟をしていたのに、一向にそんな気配がない。

イオリアは不安になる。

5年のうちに簡単に切り捨てられないくらいには、情が移ってしまったのだろうか?

イオリアの中に、仄かな恋心が生まれてしまったように。

灰色の瞳を細め、一人の可憐な令嬢に愛おしそうな眼差しを向ける男に、イオリアは扇子で隠した口元で小さく溜息を吐いた。

(彼女をダンスに誘えばいいのに…。やっぱり、私に遠慮をしている?)

イオリアは痛みに耐えるかのように、唇を噛み締めた。

思い立ったことを実行すべき時が、ついに来たのかもしれない。

イオリアへの遠慮が彼を幸せにできないのならば。

婚約を解消されて当然と思われることをすれば、彼は手が離し易くなるのではないかしら?

これ以上借りを作りたくはない。

もう子供ではないのだ、哀れまれて守られてばかりなんて嫌だ。

惨めすぎるじゃないか。

イオリアは、その瞳に決意を秘めて、扇子を閉じた。

給仕の持つトレイからグラスをひとつ手に取る。

淡い琥珀色の白ワインならば、それほど目立ちはしないだろう。染み抜きもそれほど大変にはならないはずよねと、貴族令嬢とは思えないところにまで考えを及ばせて。

彼女は綺麗な姿勢で、真っ直ぐに男の元へ向かった。

イオリアの歩幅で5歩、離れたその距離になって、男は初めて気がついたかのように彼女を見た。作り物の笑顔が向けられる。

「ああ、愛しの婚約者殿。やっと、こちらに来てくれましたね。迎えに行かねばならないかと思っていました」

囲む女性たちの刺すような目に、堂々にっこりと笑みを返し、イオリアは仮初の婚約者に、笑いかけた。

男のような作り物の笑顔ではない。


彼女の一等素敵な笑顔だ。


ありがとう。

でも、もう、その優しさはいりません。


もう、いっぱいもらったから。

これ以上彼の幸せの邪魔はしたくないから。

「アレクシス様、私」

男の隣で、心配そうな顔をしてイオリアを見つめる、可憐な令嬢が、アレクシスの本命の女性。

彼女の手をとって幸せになればいい。

私への遠慮などいらないのだ。

イオリアは。

グラスを傾けると、その中身を勢いよく男に向かってぶちまけた。

ざわりと、誤魔化しようのないくらい会場の空気が揺れる。

王家主催の夜会で恥をかかせたとなれば、婚約解消も当然のことだ。

これで、貴方に非難が行くことなく、お別れができる。

「貴方に興味がなくなりましたの。さようなら?」

わかりにくいけれど、いい人だったから、幸せになって欲しい。

こぼれた笑みに、男は瞠目した。それを無視して、踵を返す。周囲の視線が痛いくらい突き刺さる。

そこの非常識な女性は誰?

ブレイアム伯爵令嬢ですよ。

そんなささやきが聞こえてくる。

(…ごめんなさい、お父様。でも、許してくださるわよね?)

父は、イオリアの心を知っているから。流石にこんな暴挙に出るとは考えもしないと思うけれど。

やりきった、という安堵の感情と、一抹の寂しさに。

彼女は、その背で男がひっそりと笑ったのを知らなかった。

音もなく近づいたのも。

先程までの優しい瞳に、ぎらりと凶暴な光が宿るのも。

「イオリア」

思いの外、近い位置に男の声が聞こえて、驚いて振り返る。

ワインの雫を滴らせ、いつの間にか背後にいた男の獰猛な気配にイオリアは息を呑んだ。

それは怒りだったのか。名を呼ぶ声は燃え立つような何かを含んで聞こえた。

ここがどこかも、気にした様子もなく、男は。

イオリアを引き寄せると、身を屈め、噛み付くように唇を奪った。

慌てて身をひこうとしても、その身体はびくともしない。女性のか弱い抵抗など、男にとってはねじ伏せることは造作もなかった。

甘いと。

唇を離すことなく、男は小さく囁く。

イオリアは目を見開いた。


何故?


何故。


男の矜持を傷つけたから?


女性が男性に、それも婚約者に恥をかかせるなど言語道断かもしれない。

怒っているのならば、…これは確かに辛い罰だ。

イオリアの片目からひと雫、涙が頬を伝った。

ただ、貴方に幸せになって欲しかっただけなのに。

いつも、上手く出来ない自分が歯痒くて、胸が痛い。

むせ返るアルコールの匂いと、深い口づけに息を奪われて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

チカチカとする視界に、複雑な色が混じり合い、溶け合い、交わる色は…黒に染まる。

目の前が、真っ暗になって。

知らないうちに、イオリアの意識はぷつりと途切れた。








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