夢の続きでもう一度
「夢の続きでもう一度」
原案・SHIN
著・まきこ
夕暮れ時、意識をふわふわさせながら自宅の玄関を開ける。2人の部屋を柔らかな日差しと伸びる影が占領している。飲み慣れないお酒を出されるがまま飲んだせいか、おぼつかない足取りでベッドに倒れこんだ。
ベッドの隅の写真立てが反動で布団に沈んだ。それを感覚の曖昧な指先で摘んで立て掛ける。写真立ての中で、景色の一部として切り取られた君がにこやかに微笑んでいる。今日も変わらない笑顔で、満面の笑みを浮かべて、こちらを向いている。
ふと、懐かしい君の匂いがしたような気がした。あれは君の胸に顔を埋めた時の、取り込んだばかりの洗濯物と君の身体の匂い。それと同時に、記憶の中の君の声が聞こえる。実際に耳には届こえやしないが、確かに、鼓膜の震える感覚と共に言葉が浮かんでは消えていく。
『君は、笑顔が1番似合うから』
「でもたまには泣きたい時だってあるわよ」
『その時は僕が涙を拾ってあげるから』
「じゃあ、その時まで待ってるわ」
目を開けると、そこにはきらきらと金色に輝く川があった。酔っ払ってふらふらと徘徊してしまうほど、私はお酒に弱い女ではなかったように思っていたが。これは近所を流れるあの川だっただろうか。よくベランダからこの川を眺めながら、君はファインダーで川辺を捕らえながら、二人で他愛もない話をしていたように思う。
ちらりと横を向くと、君がちょこなんと座っていた。手には、首からぶら下げられている愛用の小さなトイカメラを大事そうに持っていた。
『ねえ、僕が死んじゃったらどうするの?』
「もちろん追いかけるよ、一人で居るのは嫌だし」
『一人でいるのも意外といいかもしれないよ?』
「でも嫌だよ、一緒がいい……」
『何かあっても、三途の川で待っててあげる』
私は無言で頷いたまま、たまにちらちらと君の様子を伺う。涼しげなそよ風と河のせせらぎが心地良く、たまに後ろを通り過ぎる子供達のきゃっきゃとはしゃぐ声が聞こえてくる。
『ねえ、向こう側まで行ってみない?』
「向こう側って?」
『この川の向こう岸だよ、意外と浅いんだ、ここ。』
「だめだよ、濡れちゃうし」
『どうせ家は近所だし、いいでしょ?』
そう言うと彼は滑るように土手を降りていった。慌てて私も彼の背中を追いかける。
「大丈夫だよ、一緒に手繋いで行こ?」
目の前できらきら輝きながら緩やかに流れていく金色の川の川岸で、ふわりと手を差し伸べられた彼の手を、私はそっと取った。
―例えこれが夢であっても、あなたが私の傍に居てくれるなら、それで。
彼の言う通り、この川は私の足首より少し上くらいまでしか水位のないほどとても浅いものだった。私は彼に手を引かれるがまま、自分の意思で彼に手を引かれながら、向こう岸へ向かって進んでいる。ぱしゃぱしゃと静かに川を横切る二人は傍から見たらさぞ滑稽な姿だろう。
けれど何かおかしい、どこかおかしい。いつまで歩いても向こう岸まで着かないのだ。もう大分歩いたはずなのに、まだ私達は川の真ん中あたりを歩いている。
「まだかな?」
『もう少しだよ』
その時。私の体が水の中に落ちた。あんなに浅かったから、ずっと先まで、向こう岸まで浅いものだと勝手に決め付けていたのだ。驚きのあまり、ごぼごぼと口から酸素を吐き出しながら上に向かって手を伸ばす。水面には、やけに赤い空と金色の光と彼の覗き込んでいる影。
―どうして引き上げてくれないの?
私の体はゆらゆらと、暗い水底へ向かって沈んでいく。手を伸ばそうとしても、水面の金色の光はほど遠く、もうこのまま彼に抱きしめてもらうことはないのだろうか、名前を呼んでもらうこともないのだろうか、と思うと、水中にも関わらず、瞳が潤む感覚を覚えた。
―涙、拾ってもらえないなあ、これじゃあ。
私の意識は、まるで舞台が暗転するかのように真っ暗になった。
不意に身体が浮上するような感覚と共に目が覚めた。白い天井と消毒液の匂いと彼の覗き込んでいる影。あれからどれくらい経ったのだろう、彼の目には隈がうっすら出来ており、疲れが伺えた。
『よかった、よかった、起きてくれて……』
後に聞いたところによると、近所の川へ写真を撮りに出かけた彼に着いて行った時、私が川辺でふざけていたら水流に足を取られて川の方へ倒れるように転んでしまったのだという。特に深刻な怪我はなかったものの、頭の打ち所が悪く、これまで昏睡状態だったのだそうだ。「ああいう川だと油断して足を取られ怪我をするケースが多いんだよねえ」と医者は何度も繰り返していた。
『このまま起きなかったらどうしようかと思ったよ』
「普通に起きちゃったけどね」
『昏睡状態から引き上げられればよかったんだけど、そういう超能力なんてないしさ』
それから精密検査が終わるまで、彼は毎日私の様子を見に来てくれた。私が昏睡状態だった間も、欠かさずに見舞いに来てくれていたのだという。
「あのね、意識のない間、長い夢を見ていたの」
『へえ、どんな?』
「君がいない夢、かなあ、いない君を思う夢」
『それはヒドイなあ、毎日会いに来てたのにさ』
退院後、家に帰るとあの日と変わらぬ部屋がそこにあった。2人の部屋を柔らかな日差しと伸びる影が占領している。私の散らかしておいた化粧品も、彼の撮った写真のフィルムも、そのまま部屋に取り残されていたようだった。
「ねえ、写真撮ってなかったの?」
『見せる相手がいないと思ったら、撮る気にならなくて』
「私がずっといなかったみたいじゃないっ、それって!」
『ごめんごめん』
ベランダからのオレンジ色の光は、部屋に2つの伸びる影を作った。
『じゃあ、折角帰ってきてくれたんだし、写真でも一枚撮ろうかな』
そう言って彼はトイカメラを手に取り、ファインダーで私の姿を捕らえる。
「可愛く撮ってよねっ」
私は満面の笑みで微笑むけれども、どこからか懐かしさが溢れ頬を伝った。ほろほろと零れ落ちる涙は、逆光のため、ファインダーからは見えやしない。見えるわけがない、そう思っていると、彼が私の頬をそっと指でなぞった。
『泣いてちゃあ、可愛く撮れないよ?』
私は手で涙を拭うと、もう一度彼に向かって笑って見せた。彼はいつものように、私の微笑みを逃さなかった。
彼でよかった、例えこれが夢であっても、あなたが私の傍に居てくれるなら、それで幸せだといつまでも思い続けられるだろう。これが夢ならば、永遠に覚めなければいい。あなたが私の隣に居てくれる日々は、私の癒しであり、安らぎであり、大切な宝物なのだ。
(完)