04 破戒
石造りの家屋を吹き飛ばした漆黒の狼――リューリの怨念が生み出した『破戒物』は瓦礫の上に四肢を踏まえて、雷鳴のごとき咆哮を轟かせた。
『破戒物』は精神生命体であるため、その輪郭は炎のようにゆらめいている。体長五メートルはあろうかという巨体で、その真紅の双眸にはこの世を滅ぼさんとする禍々しい怨念だけが燃えさかっていた。
そして――その巨体の中心にぼんやりと透けて見えるのは、胎児のように身を丸めたリューリの姿である。
リューリは人形のような無表情でまぶたを閉ざし、漆黒の涙を流し続けていた。
「ば、化け物……やっぱり魔女は、化け物だったんだ……」
ステラの手で表に引きずり出されたリューリの父親は地面にへたりこんだまま、震える声を絞り出す。
ステラはまた路傍の石でも見るような目つきになりながら、「違うよ」と言い捨てた。
「『破戒物』は、この世に絶望した人間が生み出す存在なの。あなたがあんな態度を取らなければ、こんなことにはならなかったはずだよ」
「ステラ、呑気におしゃべりしている場合じゃないみたいだよ」
ジェジェの言う通り、『破戒物』はぐっと身をたわめながら、口を大きく開いていた。
ステラはすかさず「アルスヴィズ・レジェロ!」という呪文を唱えて、ピアノの旋律とともに生まれ出た魔法のホウキの上に横座りになる。そうしてステラが襟首をつかんだ父親ともども天空に舞い上がると、今までステラたちが立っていた場所が漆黒の炎に包まれた。『破戒物』たる狼が、口から炎を吐いたのだ。
そこに、女性の悲鳴が響きわたる。
少し離れた場所に位置する家屋から顔を覗かせた女性が、こちらの異変に気づいたのだ。女性は顔面蒼白となって、そのまま玄関先にへたりこんだ。
すると、憎悪に燃える『破戒物』の目が、女性の姿を睨み据える。
ステラはすぐさまそちらに急降下して、『破戒物』が炎を吐き出すより早く障壁の魔法陣を生みだした。
漆黒の炎がスカイブルーの魔法陣に激突し、ともに消滅する。
『破戒物』は憤怒の雄叫びをあげ、ステラは父親の身を放り捨てた。
「あなたたちは、ここから動かないでね!」
そのように告げるや、ステラは真っ直ぐ『破戒物』のもとに突撃した。
そうして通りすぎざまに、『破戒物』の頭部を魔法のステッキで殴打する。『破戒物』はいよいよ猛り狂い、逃げるステラへと漆黒の炎を浴びせかけた。
ステラは再び障壁の魔法陣を張ったが、このたびは炎の威力に負けて粉砕されてしまう。
きりもみ回転をして炎の追撃を回避したステラは、「エーギル・エスプレッシーヴォ!」の呪文とともに魔法のステッキを振り下ろした。
絢爛なるオーケストラの旋律とともに、青い音符があふれかえる。
その質量は、かつてリューリをびしょ濡れにしたときの比ではない。世界が青一色に染めあげられて、やがてそれがダムの排水めいた勢いで奔流を生みだした。
『破戒物』の禍々しい姿は、その奔流のうねりに呑み込まれる。
だが――その青き奔流を突き破って、『破戒物』は空中のステラに襲いかかった。
ステラは「うひゃー!」とわめきながら、魔法のホウキを旋回させる。
『破戒物』の巨大な牙はフリルのスカートの裾をかすめて、がつんと噛み合わされた。
建物の屋根に着地した『破戒物』は、再び漆黒の炎を噴きあげる。
ステラは「あぶ、あぶ!」とわめきながら、その炎からも逃げ惑った。
「火属性の『破戒物』なのにエーギル・エスプレッシーヴォが効かないなんて、特級レベルじゃん! リューリは、すごいんだねー!」
「これはあくまで仮説だけど、彼女の持つ魔法の力が上乗せされているのかもね。何にせよ、これ以上の交戦は危険だと思うよ」
「でも、リューリを放っておけないよー! このままじゃ、世界を壊しちゃうしね!」
「でも、それこそが彼女の望みなんじゃないのかな?」
ジェジェのクールな返答に、ステラはにこりと微笑んだ。
「それでもわたしたちは、たくさんの『破戒物』をやっつけてきたじゃん。今さら、どうしたの?」
「だってそれは、世界を守るための任務だったからね。この世界は管轄外なんだから、一個人の情念で世界が滅んでも悪いことはないんじゃないかな」
「ううん。それじゃあ、リューリは救われないよ。世界を壊し尽くしたら、リューリがひとりぼっちになっちゃうもん」
ステラたちが語らっている間に、『破戒物』は本物の狼さながらの遠吠えを響かせる。
すると、あちこちから悲鳴がわきおこった。ついに町の人々も、この尋常ならざる事態に気づいたのだ。
遠目に『破戒物』の異形を目撃した者は、道行く人々を突き飛ばして逃げ惑っていく。
屋根の上からそのさまを見下ろした『破戒物』は、舌なめずりをしながら跳躍の姿勢を取った。
「そうはさせないよ!」と、ステラは『破戒物』のもとに突進する。
すると『破戒物』は真正面から、漆黒の炎で迎え撃った。
魔法のホウキに乗ったステラの姿は、炎の濁流に呑み込まれる。
それを突き破って宙に舞い上がったステラは、あらためて魔法のステッキを振りかざした。
「わたしが、リューリを助けるよ! フォールクヴァング・マエストーソ!」
荘重なるオーケストラの旋律とともに、世界が震撼した。
そうして色とりどりの音符が渦を巻き、ステラと『破戒物』を大きく包み込んでいく。
やがて音符の奔流は、七色に光り輝く巨大な球体と化した。
そしてその内側は、壮麗なる宮殿の大広間である。
突如として宮殿の懐に抱かれた『破戒物』は、うろんげに周囲を見回す。そこは舞踏会でも開かれそうな大広間で、頭上には巨大なシャンデアリアが燦然と輝いていた。
「これは、結界の魔法だよ。これでもう、どんなに暴れても世界を傷つけることはないからね」
優しい笑みをたたえながら、ステラは『破戒物』のもとに突撃する。
そして、魔法のステッキを指揮棒のように振り下ろした。
「ヨトゥンヘイム・スモルツァンド!」
ティンパニを主体とした壮大なる演奏が響きわたり、今度は水晶のようにきらめく透明の音符が渦を巻いた。
『破戒物』はくわっと巨大な口を開き、これまでで最大の炎を噴出させる。
水晶のごとき音符の奔流と漆黒の炎の濁流が、空中で激突した。
すると、音符が炎を覆い尽くし――燃えあがる炎を物体のように氷結させた。
そして、他なる音符は宮殿の壁や天井に反射して、四方から『破戒物』の身に降り注ぐ。
『破戒物』の巨体も水晶のごとき輝きにくるまれて、断末魔の絶叫が響きわたった。
その断末魔とともに、オーケストラの旋律はゆっくりと静まっていく。
そして、すべての音が消え去ったとき、『破戒物』の巨体も凍結していた。
しばしの静寂ののち、豪奢な宮殿と凍りついた『破戒物』の身が、ガラスのように砕け散る。
屋根の上には、ぐったりと横たわるリューリの身だけが残されていた。
「リューリ、大丈夫?」
リューリのもとに舞い降りたステラは、そっとその身を抱えあげた。
半身を起こされたリューリは、力なくまぶたを開く。そこから現れた瞳は、澄みわたった鳶色に輝いていた。
「ステラさん……わたしは、いったい……?」
「リューリがこの世を憎む気持ちが、『破戒物』を生みだしたんだよ。その『破戒物』をやっつけるのが、わたしの一番の使命なの」
そう言って、ステラはにっこり微笑んだ。
「リューリの心も浄化されたから、すっきりしたでしょ? よかったね、リューリ」
「はい……わたしは父さんの気持ちも考えず、この世を呪ってしまいました……」
リューリの目から、漆黒ではなく透明の涙がこぼれ落ちた。
「たったひとりの家族が魔女になったら、父さんだって苦しかったはずです……魔女を出した家は、たいてい迫害されますから……わたしを恨むのが、当然です……」
「いーや! 最後の部分だけは間違ってるよ! リューリは好きで魔女になったんじゃないんだから、恨まれる筋合いはないの!」
ステラは朗らかな笑顔のまま、リューリの鼻をつんとつついた。
「お父さんはそんな掟を作った帝国か、いっそこの世を恨むべきだったね! それで『破戒物』が生まれたら、わたしがやっつけてあげたのにさ!」
「そんなあちこちで『破戒物』が生まれたら、この世界はすぐに混沌に呑み込まれてしまうよ。よほど純粋な怨念でないと、『破戒物』は生まれないんだからね」
「わかってるってば! とにかくこれで、いっけんらくちゃーく!」
ステラが元気いっぱいに笑うと、リューリも涙を流しながら微笑んだ。
そしてその目が、ふっと下界に向けられる。
数十メールほど離れた場所では、リューリの父親が地面にへたりこんでいるのだ。
リューリの父親はこちらを見上げながら、まだ恐怖の表情で凍りついていた。
「さようなら、おとうさん……どうか、げんきでね……」
そんなつぶやきをこぼすと同時に、リューリは安らかにまぶたを閉ざした。




