04 合流
塔の天井を突き破って生まれ出た漆黒の巨人たる『破戒物』は、怨嗟の念に満ちた咆哮を黄昏刻の天空に響かせた。
体長十メートルはあろうかという、とてつもない巨体である。腕が長くて足が短いゴリラのようなシルエットで、全身が影のようにぼんやりと霞んでいる。ただその真紅の双眸だけは、豪炎のように爛々と燃えさかっていた。
「……なんかこの『破戒物』、あいつに似てない?」
魔法のホウキに乗って巨人の頭上を飛び交いながら、ステラは肩のジェジェに語りかける。
ジェジェは「……そうだね」と神妙な声をあげた。
「もしもこれが次元に干渉できる『破戒物』だとしたら、ずいぶん厄介なことになりそうだね」
「うん。まずは人気のない場所に誘導しないと――あー、待って待って!」
ステラが呪文を詠唱するより早く、『破戒物』は塔の天辺から飛び降りた。
下界でグールの掃討に取り組んでいた魔女や衛兵たちは、悲鳴をあげて逃げ惑う。リューリが呆然と立ちすくんでいると、グリフォンがその襟首をくわえて救助した。
「あ……あれは、『破戒物』です! 間違いありません!」
「そんなことより、逃げるのが先だよ!」
グリフォンの背中に乗ったラダが、やけくそのようにわめき散らす。
その間に、『破戒物』は地響きをたてて着地した。
その巨大な足に踏み潰されたグール・ロードの一体は、肉片と化して爆散する。
すると、最後の一体となったグール・ロードが『破戒物』のむこうずねに風の魔法を叩きつけた。
影のように霞む『破戒物』の足が、わずかながらに削れて黒い塵と化す。
『破戒物』は憤激の咆哮をあげて、グール・ロードの頭上に手の平をかざした。
その手の平から生まれ出た漆黒の球体が、グール・ロードの巨体をすっぽりと包み込む。
そうして漆黒の球体が黒い火花を散らしながら、一気に収縮すると――グール・ロードの巨体は消え失せて、足もとの石畳も綺麗な半球状にえぐられていた。
「うん。やっぱりあれは、次元に干渉できる『破戒物』みたいだね」
「落ち着いてる場合じゃないよ! もー、よりにもよって、厄介なのを引き当てちゃったなー!」
ステラたちがそのように言い合っている間に、『破戒物』は石畳にめりこんだ足を引き抜きながら歩き始めた。
逃げ惑う人々には目もくれず、ずしんずしんと前進していく。目指す先は、ひときわ立派な造形をした宮殿――白翼宮である。
ほんの数歩でそこまで到達した『破戒物』は、タマネギのような形状をしたアラビア風の屋根に両方の手の平を添えた。
次の瞬間には黒い火花が弾け散り、屋根がまるまる消失する。
『破戒物』が空いた屋根から内側を覗き込むと、子供のような悲鳴が大合唱された。
「……あの『破戒物』、なんかヘンじゃない?」
『破戒物』のもとを目指して魔法のホウキを走らせながら、ステラは小首を傾げる。
その肩に乗ったジェジェも、同じ方向に首を傾げた。
「うん。まるであの『破戒物』は、自分の意思で動いているかのように見受けられるね。それはちょっと、ありえない話だよ」
「でもでも、そうだとしたら、それは妹さんの意思ってことでしょ? だったら、エリシュカさんを助けようとしてるんじゃない?」
「そうだとしても、『破戒物』に可能であるのはこの世界を滅ぼすことだけだけどね」
ジェジェの言葉に、ステラはにっこり微笑んだ。
「うん、わかってるよ。でも、立派な妹さんだね」
「それじゃあ、彼女の思いを尊重するのかな?」
「まっさかー! わたしの使命は、『破戒物』をやっつけることだからね! ……テュール・コン・フオーコ!」
躍動感にあふれかえったオーケストラの演奏とともに、『破戒物』の頭上に赤い亀裂が走り抜ける。
そこから噴出した真紅の音符が炎の隻腕と化して、『破戒物』の頭部をわしづかみにしようとしたが――『破戒物』はそちらに目を向けようともせず、ただ巨大な手の平を頭上にかざした。
真紅の手の平と漆黒の手の平が、虚空で激突する。
次の瞬間には、真紅の手の平だけが跡形もなく消滅した。
「やっぱダメかー! でも、こんなところでアレをぶっぱなしたら、みんなが巻き添えになっちゃうしなー!」
ステラは『破戒物』の頭上を飛び交いながら、宮殿の内側を覗き込んだ。
広々とした大広間の中央に、エリシュカが立ちすくんでいる。別人のように美しいドレス姿だが、その手には長剣が握られていた。
そして、壁に沿って設えられたバルコニー席に、大勢の貴族たちがひしめいている。
子供のように泣き叫ぶそれらの者たちの中から、ぶよぶよと肥え太った壮年の男――大公が、怒号をほとばしらせた。
「なんだ、この魔物は!? 我の宮殿を、よくも穢してくれたな!」
大公が腕を振りかざすと、紅蓮の炎が渦を巻いて『破戒物』の顔面に襲いかかった。
しかし『破戒物』が手の平をかざすと、そちらの炎も消滅してしまう。この『破戒物』は、あらゆるエネルギーを次元の彼方に消し去ってしまうのだった。
「エリシュカさーん! これは、妹さんが生み出した『破戒物』なのー!」
ステラがぶんぶんと手を振りながら声を張り上げると、エリシュカは愕然と身を震わせた。
「これが、ヨハナの……? そうか。あいつも私と同じように、この世に絶望してしまったのだな」
エリシュカは苦悶の表情でつぶやきながら、その手の長剣を打ち捨てた。
その金色の髪が、ざわざわと逆立っていく。
「宮殿が破壊されたため、禁呪の結界が破られた! 私も、加勢する!」
「ありがとー! でもでも、こいつは次元に干渉できる『破戒物』だから――」
ステラがそのように言いかけたとき、『破戒物』が巨大な手の先を宮殿の内部にのばした。
その指先が向かう先は、大公家の三名である。
大公たちは恐怖の形相で数々の魔法を繰り出したが、それらはすべて漆黒の手の平に触れると同時に消滅した。
「だめー!」と叫びながら、ステラは光の矢のように魔法のホウキを走らせる。
そうして一瞬で大公たちを背後にかばえる位置まで到達したステラは、障壁の魔法陣を何重にも張り巡らせた。
『破戒物』の指先が魔法陣に触れると、青白い閃光が四散する。
『破戒物』は恨みがましい咆哮をあげながら手を引っ込めたが、ステラのほうは――障壁の魔法陣とともに右腕の肘から先が消失して、玉虫色の輝きを鮮血のようにほとばしらせていた。
「ステラ殿!」と、エリシュカは悲痛な叫びをあげる。
しかしステラが「だいじょーぶ!」と右腕を振り上げると、魔法のステッキを握った肘から先が一瞬で再生された。
「これぐらいのダメージは、どーってことないさ!」
「でもまたこれで、年単位の寿命が削られてしまったね」
「そんなことより、この『破戒物』を何とかしないと!」
ステラは、眼下のエリシュカに呼びかけた。
「エリシュカさん! この『破戒物』をやっつけるための魔法を使うと、周りの人も危ないんだよー! なんとか、ここから引っ張り出せないかなー?」
「引っ張り出す? とは、どのように?」
「わかんないけど! でもたぶん、この『破戒物』は恨んでる相手を追いかけると思うんだよねー!」
「……妹が恨む人間など、そやつらしかありえまいな」
エリシュカはふっと寂しげに微笑んだのち、右腕を振りかざした。
「風の精霊よ! その猛き翼にて、罪深き咎人を捕縛せよ!」
エリシュカの指先から生まれた竜巻が大公家の三名を呑み込んで、虚空に舞い上がる。
たちまち『破戒物』が腕をのばそうとしたが、竜巻はその指先をすりぬけてさらなる高みへと舞い上がっていった。
「風の精霊よ! あわれな地上人に、かりそめの栄華を!」
エリシュカの金髪と純白の宴衣装が大きくなびき、その身が天使のように浮遊した。
颶風の翼で羽ばたきながら、エリシュカは『破戒物』の胸もとで停止する。ちょうど人間の心臓に該当する位置に、胎児のように身を丸めた第二公女ヨハナの姿が透けていた。
「ヨハナ。お前までもが、手を汚す必要はない。それは、私の役割だ」
エリシュカは、眠る妹に優しく微笑みかける。
すると、『破戒物』は真紅の双眸をいっそう激しく燃やしながら、怨嗟の咆哮を轟かせた。
「エリシュカさん、危ないよー! 今の妹さんは、憎しみで心がいっぱいなんだから!」
「うむ。きっと私のために、この世を呪っているのだろうな」
エリシュカは愛おしげに目を細めてから凛然たる表情を取り戻し、虚空に舞い上がった竜巻を追いかけた。




