第7話 自称愛され聖女の受難
「寒いですぅ……もう、どうなっているんですの?」
王宮の一室。あたくし、ミランダは鏡の前で唇を尖らせた。
厚手のドレスの下にウールの肌着を重ね、さらに毛皮のショールを羽織っているのに、体の芯から震えが止まらない。
白い吐息が、部屋の中に漂っている。
鏡に映るあたくしの顔は、心なしかくすんで見えた。
自慢のピンクブロンドの髪も、乾燥してパサついている。
お風呂のお湯がぬるくて、十分に温まれないせいだわ。
美容の大敵よ。
「侍女! 暖炉の薪を足してちょうだい!」
「も、申し訳ございませんミランダ様。すでに薪は満杯までくべておりますが、どうしても火力が上がらず……」
侍女が泣きそうな顔で謝る。
暖炉の中では、大量の薪が組まれているが、赤い炎は弱々しく揺らめくのみ。
まるで、燃えることを拒否しているみたい。
煙ばかりが出て、部屋中が煤臭い。
「もう! 役立たずばかりね! アリス様がいなくなってから、使用人たちの気が緩んでいるんじゃないの?」
あたくしはヒステリックに声を上げた。
あのアリス・バーネット。
いつも澄ました顔で、公爵令嬢としての義務だのなんだのと説教くさい女。
あいつがいなくなって清々したと思ったのに、これじゃあ快適な王宮生活が台無しじゃない。
コンコン。
ドアがノックされた。
「ミランダ、準備はできたかい?」
入ってきたのは、愛しのクロード様だ。
今日も金髪が決まっていて素敵……と言いたいところだけど、彼の顔色も悪い。
目の下にクマがあり、唇が少し青ざめている。
「クロード様ぁ! 寒くてお化粧が乗らないんですぅ」
「可哀想に、僕の天使。こんな寒い部屋にはいられないな。さあ、出かけよう。今日は王都で一番のレストラン『金の獅子亭』を予約してあるんだ」
クロード様があたくしの腰に手を回す。
その手も氷のように冷たい。
でも、レストランに行けば温かい料理が食べられるはず。
『金の獅子亭』といえば、予約三年待ちと言われる超高級店。
特製のローストビーフと、熱々のオニオングラタンスープが名物だ。
王宮の料理人が無能なせいで、ここ数日は冷たいパンばかり食べていたから、想像するだけでお腹が鳴りそう。
「嬉しいですわ! あたくし、お腹ペコペコなんです」
「ああ、僕もだ。王宮のシェフどもには後で厳罰を与えるとして、まずは一流の味で英気を養おう」
私たちは馬車に乗り込み、夜の王都へと繰り出した。
◇
王都の街並みは、いつもより暗かった。
街路灯の魔導ランプの光が弱く、頼りないオレンジ色が揺れているだけ。
道行く人々も、皆厚着をして背中を丸め、足早に歩いている。
なんだか、街全体が死に絶えつつあるような不気味さを感じて、あたくしはクロード様の腕にしがみついた。
「金の獅子亭」に到着すると、支配人が慇懃に出迎えてくれた。
さすがは王室御用達。
店内はシャンデリアが輝き……いや、ここも少し薄暗いかしら?
「一番奥の個室をご用意しております、殿下」
案内されたのは、ビロードのカーテンで仕切られたVIPルーム。
期待していた暖かさは……ここにもなかった。
暖炉はあるけれど、やはり火が弱い。
「おい支配人、もう少し暖かくできないのか?」
「も、申し訳ございません殿下。ここ数日、魔石の出力が安定せず……ブランケットをお持ちしましょうか?」
「チッ、一流店が聞いて呆れるな。まあいい、料理で温まらせてもらおう」
クロード様がイライラしながらメニューを開く。
「名物のオニオングラタンスープと、メインは仔牛のステーキだ。焼き加減はウェルダンで頼むぞ。中までしっかり火を通してくれ」
「かしこまりました。あたくしも同じものを。あと、ホットワインをお願いしますわ」
注文を終え、私たちは料理を待った。
しかし、待てど暮らせど料理が来ない。
ホットワインだけは来たけれど、これも「ホット」とは名ばかりの、人肌程度の生温かさ。
アルコールが飛んでいなくて、酸味がきついわ。
「遅いな……三十分も待たせるとは何事だ」
クロード様が貧乏ゆすりを始めた。
あたくしも限界だ。
空腹で胃が痛い。
ようやく、銀のドームカバーを持ったウェイターが入ってきた。
「お待たせいたしました。オニオングラタンスープでございます」
カバーが開けられる。
ふわっと湯気が……立たない。
チーズが表面に浮いているけれど、焦げ目がほとんどついていない。
ただ溶けただけのチーズが、茶色い液体の表面を漂っている。
「……なんだこれは」
クロード様がスプーンですくい、口に運ぶ。
「ぐっ……!」
彼は口元を押さえ、スプーンを皿に叩きつけた。
「冷たいじゃないか! 玉ねぎも生煮えでガリガリするぞ! これが貴様らの言う『名物』か!」
「ひぃっ! 申し訳ございません! オーブンの温度がどうしても上がらず……何度焼き直しても、これ以上熱くならないのです!」
支配人が額を床に擦り付けて謝罪する。
あたくしも恐る恐る口をつけてみたけれど、すぐに吐き出したくなった。
玉ねぎの辛味が舌を刺す。
チーズはゴムのように硬化していて、スープはぬるい水道水のよう。
最悪だわ。
「メインをお持ちしました……!」
挽回しようと、別のウェイターがステーキを運んでくる。
鉄板の上に乗っているはずなのに、ジュウという音がしない。
嫌な予感がする。
ナイフを入れると、肉が妙にブヨブヨとしていて、切りにくい。
断面を見た瞬間、あたくしは悲鳴を上げた。
「きゃあああっ! 血! 血が出ていますわ!」
真っ赤だった。
いや、赤いというより、生の紫肉だ。
表面だけ軽く炙っただけで、中は完全に冷たい生肉。
血の混じった肉汁が、皿の上にどろりと広がっていく。
「ふざけるなあああああっ!!」
クロード様が激昂し、テーブルを蹴り上げた。
ワイングラスが倒れ、赤い液体がテーブルクロスを汚す。
「殿下に生肉を食わせる気か! 毒殺未遂で処刑されたいのか!」
「お許しください! 炭火が……炭火が燃えないのです! 最高級の木炭を使っているのに、火をつけてもすぐに消えてしまうのです!」
支配人は泣きながら訴えた。
「嘘をつくな! 火がつかないなどあり得ん! 貴様らが薪をケチっているだけだろう!」
「本当なのです! 街中の飲食店が同じ状況なのです! まるで……まるで『火の女神』に見放されたかのように……」
火の女神?
その言葉に、あたくしはふとアリスの顔を思い出した。
まさか。
まさかね。
あんな地味な女に、そんな力があるわけない。
ただのマッチ代わりよ。
でも、彼女がいなくなってから、本当に何もかもがおかしい。
「ええい、もういい! 不愉快だ! 帰るぞミランダ!」
「は、はい……」
私たちは料理に手を付けず、逃げるように店を出た。
お腹はペコペコだ。
帰り道、屋台でパンを買おうとしたけれど、どこの店も「今日はパンが焼けなかった」とシャッターを下ろしている。
結局、王宮に戻り、貯蔵庫にあった干し肉と、冷たい水で空腹を紛らわせることになった。
硬い干し肉を噛み締めながら、あたくしは涙が出てきた。
「どうして……どうしてこんな目に遭うのよぉ……」
王妃教育から逃げて、王子様とキラキラした生活を送るはずだったのに。
これじゃあ、貧民街の生活と変わらないじゃない。
クロード様の横顔を見る。
彼は歯ぎしりをしながら、何かブツブツと呟いている。
「アリス……アリスめ……あいつが呪いをかけたに違いない……」
呪い?
そうよ、きっとそうに違いないわ。
あの女、性格が悪かったもの。
去り際に何か黒魔術でも仕掛けていったのよ。
「許さない……許しませんわよアリス! あたくしにこんな惨めな思いをさせるなんて!」
あたくしは干し肉をアリスに見立てて、力いっぱい噛みちぎった。
歯が折れそうなくらい硬かったけれど、怒りで痛みも感じない。
◇
その夜遅く。
寒さで眠れないあたくしは、廊下で話し込む侍女たちの声を耳にした。
「ねえ、聞いた? 北の魔境の方角から、すっごくいい匂いがするって」
「ああ、国境の兵士たちの話でしょ? 毎晩、風に乗って焼肉の匂いが漂ってくるらしいわよ」
「いいわねぇ……こっちはお湯も沸かないのに」
「もしかして、アリス様が向こうで何かしてるんじゃない?」
「まさかぁ。アリス様はもう……」
焼肉の匂い?
魔境から?
あたくしは壁に耳を当てて聞き耳を立てた。
「でも、アリス様がいなくなってからこの寒さでしょ? 実はアリス様が『太陽の化身』だったっていう噂、本当かもね」
「しっ! 滅多なこと言うんじゃないよ。クロード殿下に聞かれたら首が飛ぶよ」
「でもぉ、このままじゃ私たち凍え死んじゃう……」
侍女たちの足音が遠ざかっていく。
あたくしは廊下で立ち尽くした。
太陽の化身?
馬鹿げている。
あんな女が。
でも、もし本当だとしたら?
もし、あたくしたちが追い出したせいで、この国から「熱」が消えたのだとしたら?
ぞわり、と背筋が凍った。
それは寒さのせいだけではなかった。
取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという、漠然とした恐怖。
「い、いやよ。そんなわけない。クロード様がなんとかしてくれるはずだわ」
あたくしは首を振り、部屋に戻って布団に潜り込んだ。
お腹が鳴る。
温かいスープが飲みたい。
焼きたてのパンが食べたい。
とろけるようなステーキが食べたい。
「お腹すいたぁ……」
その夜、あたくしは夢を見た。
アリスが炎の中で笑いながら、美味しそうな巨大な肉を頬張っている夢を。
そしてあたくしは、その足元で泥水をすする惨めな姿だった。
飛び起きたとき、あたくしの枕は涙で濡れていた。
これが、崩壊の序章に過ぎないことを、あたくしたちはまだ理解していなかった。
明日、さらに絶望的な事態が起きることを。




