第5話 一方その頃、王国では
「……寒い」
俺様は、分厚い羽毛布団の中で身を縮こまらせて目を覚ました。
王宮の寝室は常に快適な室温に保たれているはずだ。
建国以来、我がフレイム王国の城壁に埋め込まれた『聖火の魔道具』が、城内全体を温めているからだ。
だというのに、今朝の空気はまるで真冬のように冷たい。
今は春だぞ?
「おい! 誰かいないのか! 暖炉を焚け!」
俺様はベルを乱暴に鳴らした。
すぐに侍従長が血相を変えて飛び込んでくる。
「おはようございます、クロード殿下!」
「おはようではない! なんだこの寒さは。暖炉の火が消えているではないか」
俺様は部屋の隅にある大理石の暖炉を指差した。
薪は積まれているが、赤い炎が見えない。
白い煙がわずかにくすぶっているだけだ。
「申し訳ございません! 先ほどから何度も火をつけているのですが、どうしても薪が湿気っているようで……すぐに代わりの者を行かせます!」
「ええい、役立たず共め! 薪の管理ひとつまともにできんのか!」
俺様は不快感を露わにしながらベッドを出た。
床の絨毯もどこか冷たく感じる。
アリスというあの陰気な女を追い出して、ようやく清々しい朝を迎えられると思ったのに、これでは台無しだ。
「着替えだ。今日はミランダと朝食をとる約束をしている。厚手のガウンを用意しろ」
「は、はい!」
侍従たちが慌ただしく動き回るのを尻目に、俺様は鏡の前で髪を整えた。
美しい金髪。
知的な碧眼。
どこからどう見ても、次期国王にふさわしい完璧な容姿だ。
あの地味なアリスには、俺様の隣は似合わなかった。
やはりミランダのような華やかな女性こそが、俺様のパートナーに相応しい。
「待っていろよ、ミランダ。今日も俺様がたっぷり愛してやるからな」
鏡の中の自分にウィンクをして、俺様は食堂へと向かった。
◇
王族専用の食堂に入ると、すでにミランダが待っていた。
彼女はピンク色のフリルがついたドレスを着ていたが、その上に分厚いショールを羽織り、小刻みに震えている。
「クロード様ぁ……寒いですぅ」
「おお、可哀想に。僕のミランダ」
俺様はすぐに彼女の隣に座り、肩を抱き寄せた。
彼女の体は氷のように冷たかった。
「この城の管理はどうなっているんだ。すぐに改善させる。さあ、温かいスープでも飲んで温まろう」
テーブルには、豪勢な朝食が並んでいた。
ポタージュスープ、焼きたてのパン、ソーセージ、そしてサラダ。
俺様は銀のスプーンを手に取り、スープを一口啜った。
「……っ!?」
冷たい。
いや、完全に冷めているわけではないが、生温い。
舌触りもザラザラしていて、粉っぽさが残っている。
「なんだこれは! 料理長を呼べ!」
俺様はスプーンを投げ捨てた。
ガシャン、と派手な音が響き、給仕たちがビクリと肩を跳ねさせる。
すぐに、白いコック帽を被った太った料理長が、額に脂汗を浮かべながら走ってきた。
「お、お呼びでしょうか、殿下……」
「貴様、これを客に出すつもりか? 温いぞ! しかも煮込みが足りん!」
「も、申し訳ございません! 実は今朝から、厨房のかまどの火力が上がらず……魔導コンロの出力も低下しておりまして……」
料理長は必死に言い訳をする。
「言い訳など聞きたくない! 火力が弱いなら、薪をくべるなり、火魔法使いを増やすなりすればいいだろう!」
「それが、宮廷魔導師様にお願いして火を放ってもらっているのですが、なぜかすぐに消えてしまうのです……まるで、火の精霊がヘソを曲げているような……」
「馬鹿馬鹿しい! 精霊などというお伽話を信じているのか? これは単純に貴様らの怠慢だ!」
俺様はテーブルを拳で叩いた。
そうだ、すべてはたるんでいるのだ。
アリスがいた頃は、こんなことは一度もなかった。
あの女は料理が趣味だとか言って、よく厨房に出入りしていたらしいが、せいぜい邪魔をしていただろう。
あいつがいなくなって、現場の気が緩んだに違いない。
「作り直せ! 今度は熱々のものを持ってこい!」
「は、はいぃぃ!」
料理長が逃げるように去っていく。
ミランダが涙目で俺様の袖を引いた。
「クロード様、怒らないでくださいぃ。あたくし、クロード様が怖い顔をすると胸が痛みますぅ」
「すまない、ミランダ。君のために完璧な食事を用意したかったんだ」
俺様は表情を緩め、彼女の頭を撫でた。
そうだ、アリスとは違う。
ミランダはこうして俺様を立ててくれる。
アリスはいつも無表情で、「殿下、公務の書類が溜まっております」だの「予算の使いすぎです」だのと小言ばかりだった。
本当に可愛げのない女だった。
「パンだけでも食べようか。これなら冷めていても……」
俺様はパンを手に取り、千切って口に入れた。
「……硬っ!」
石か?
中はボソボソで、発酵が不十分だ。
これも火力が足りず、焼きが甘かったのか。
俺様は苛立ちを通り越して呆れた。
王宮の料理人がこのレベルとは、我が国の恥だ。
「もういい! 食欲が失せた!」
俺様は席を立った。
ミランダも慌てて立ち上がる。
「あたくしも、お部屋に戻りますぅ。寒くて風邪を引きそうですもの」
「ああ、暖かくして休んでいてくれ。後で宝石商を呼んで、新しいネックレスを選ばせてやるから」
「まぁ! クロード様大好き!」
ミランダの機嫌が直ったのを見て、俺様は満足した。
女の機嫌をとるなど、俺様にかかれば造作もないことだ。
アリスの時はプレゼントを渡しても、「これ以上浪費を……」と顔をしかめるだけだったが、やはり反応が良い女は可愛い。
◇
執務室に向かうと、机の上に書類の山が築かれていた。
普段ならアリスが事前に仕分けして、要点だけをまとめておいてくれたのだが、今はそれがない。
文官たちが直接持ってくる陳情書が、そのまま積み上がっているのだ。
「チッ、面倒だな……」
俺様は椅子にドカッと座り、一番上の書類を手に取った。
『王都第三区画、パン屋組合からの陳情』とある。
【ここ数日、焼き釜の温度が上がらず、商品が作れない状況が続いております。至急、魔導インフラの点検をお願い申し上げます】
次の書類をめくる。
『公衆浴場組合からの嘆願』。
【お湯が沸きません。水風呂では客が来ません。薪の配給を増やしてください】
さらに次。
『鍛冶ギルドからの報告』。
【炉の火が安定せず、鉄が溶けません。剣の納期が遅れます】
「なんだこれは! どいつもこいつも『火がつかない』ばかりではないか!」
俺様は書類を床に投げつけた。
部屋に控えていた文官が、おずおずと口を開く。
「あの……殿下。実は、市民の間で奇妙な噂が流れておりまして……」
「噂だと?」
「はい。『火の神の愛し子』であったアリス様を追放したせいで、火の加護が失われたのではないか、と……」
俺様は鼻で笑った。
「くだらん! あの女の魔法適性は『着火』だけだぞ? マッチ売りの少女レベルの魔力しかない無能だ。それが国の加護だと? 笑わせるな」
「し、しかし、アリス様がいらっしゃった頃は、冬でも王都は温暖でしたし、かまどの火が消えることなど一度も……」
「それは俺様の日頃の行いが良かったからだ! それに気候変動だろ、たまたま寒い日が続いているだけだ!」
文官は口をつぐんだ。
俺様の正論に言い返せないのだろう。
まったく、民衆というのはすぐに迷信にすがるから困る。
アリスのような地味な女を神聖視するなど、どうかしている。
「おい、魔導師団長を呼べ」
数分後、青いローブを着た初老の男が入ってきた。
宮廷魔導師団長だ。
「お呼びでしょうか、殿下」
「街で火の不具合が多発している。魔導師団を総動員して、各所の魔導コンロに魔力を充填して回れ。それがお前たちの仕事だろう」
「はっ……それが、すでに団員たちは不眠不休で対応しております。しかし、注いでも注いでも、魔力がザルのように抜けていくのです。まるで、この国の大気そのものから『熱』の概念が消失したかのように……」
魔導師団長は疲労困憊の様子だった。
目の下にはクマができている。
「ええい、泣き言を言うな! 貴様らが普段怠けているから、いざという時に役に立たんのだ! 給料分働け!」
「は、はぁ……」
「アリスがいた頃は、あいつ一人で王宮の照明や暖炉の点火をしていたんだぞ? あんな無能にできて、なぜ貴様らエリート魔導師集団にできんのだ!」
俺様が怒鳴ると、魔導師団長はハッとした顔をした。
「そ、そうです! アリス様です! 彼女は毎朝、城の地下にある『聖火の台座』で祈りを捧げておりました。もしかすると、あれは祈りではなく、魔力供給をしていたのでは……?」
「はぁ? あの女が? 馬鹿を言うな」
俺様は呆れてため息をついた。
アリスにそんな魔力があるはずがない。
あいつの魔力測定値は最低ランクだった。
だからこそ、公爵家からも見放され、俺様も婚約破棄したのだ。
「あいつはただ、掃除婦の真似事をしていただけだ。地下の掃除係としてな。魔力供給などできるわけがない」
「し、しかし……」
「くどい! さっさと行け! 今日中に王都の火を復旧させろ。できなければ減給だ!」
魔導師団長を追い出し、俺様は椅子に深くもたれかかった。
どいつもこいつも無能ばかりだ。
俺様がこうして的確な指示を出しているのに、現場がこれでは国が回らない。
「ふん、アリスめ。今頃、魔境で魔物に食われて泣き叫んでいるだろうな」
そう思うと、少しだけ胸がすくような気がした。
あの女は俺様を崇めていなかった。
いつも冷静で、俺様の完璧さを理解しようとしなかった。
だから罰が当たったのだ。
俺様の婚約者という最高の地位を失い、惨めに死んでいく。
それがお似合いだ。
だが、なぜだろう。
部屋の温度はどんどん下がっている気がする。
俺様はガウンの前をきつく合わせた。
「寒い……なぜこんなに寒いんだ……」
窓の外を見ると、王都の空はどんよりとした鉛色に覆われていた。
春だというのに、白いものがチラチラと舞っている。
雪だ。
フレイム王国で、この時期に雪が降るなど、歴史上前例がない。
「異常気象か……まあいい、俺様には関係ない」
俺様は自分に言い聞かせた。
これはただの天候不順だ。
アリスとは何の関係もない。
数日もすれば暖かくなるはずだ。
コンコン。
ドアがノックされた。
「入れ」
「失礼します、殿下」
入ってきたのは、俺様の私兵である騎士だった。
「報告します。アリス嬢の追放を見届けた部下から、伝書鳩が届きました」
「ほう、そうか。どうだった? 泣いて命乞いをしたか? それとも、魔物に襲われて悲鳴を上げたか?」
俺様は愉悦に浸りながら尋ねた。
騎士は少し言いにくそうに口ごもる。
「いえ、それが……」
「なんだ、はっきり言え」
「はっ。アリス嬢は砦の門を出た直後、笑顔で手を振り、走り去ったそうです。『自由だー!』と叫んでいたと……」
「は?」
俺様の思考が一瞬停止した。
自由?
笑顔?
死地へ追放されたのち、絶望して泣き崩れたのではないのか?
「見間違いではないのか?」
「いえ、複数の兵士が目撃しております。また、その後すぐに巨大な猪の魔物を一撃で仕留め、その場で……ええと、肉を焼き始めたそうです」
「肉を……焼いた?」
意味が分からない。
魔境だぞ?
一歩間違えれば死ぬ場所だぞ?
そこでピクニックでも始めたというのか?
「その後、空から黒い影……おそらく竜と思われる物体が降下し、彼女の方へ向かったとの報告で途絶えております。おそらく、その竜に捕食されたものかと」
「……ふっ、ははは!」
俺様は笑い出した。
なるほど、そういうことか。
頭がおかしくなったんだな。
絶望のあまり発狂し、死ぬ前に最後の晩餐でもしようとして、竜に見つかって食われたわけだ。
やはり俺様の予想通りだ。
「哀れな女だ。まあ、竜の餌になれて本望だろう」
「は、はぁ……」
「よし、報告ご苦労。下がっていいぞ」
騎士が退出した後、俺様は窓ガラスに映る自分の顔を見て、ニヤリと笑った。
「ざまぁみろ、アリス。俺様に捨てられた女の末路なんて、そんなものさ」
寒さは相変わらず厳しい。
だが、アリスが惨めな最期を迎えたと聞いて、俺様の心は少し温まった気がした。
だが、俺様は知らなかった。
その頃アリスが、俺様ですら食べたことのない極上のベーコンエッグを食べ、伝説の竜と恋人の距離感で、優雅なティータイムを楽しんでいることを。
そして、この寒さが「異常気象」などではなく、国の寿命を削るカウントダウンの始まりであることを。




