第15話 幸せの食卓
魔境の朝は、香ばしいパンの香りと共に明ける。
「アリス様、おはようございます! 今日の牛乳、搾りたてです!」
「おはよう、団長さん。ありがとう」
厨房の勝手口から、元騎士団長のエドワードさんが顔を出した。
彼はもう鎧を着ていない。
動きやすい麻のシャツに、泥で汚れた作業ズボン。
すっかり板についた農夫スタイルだ。
彼の手には、並々と注がれたミルク缶が握られている。
「裏の牧場で飼い始めた『ミルクタウロス』、すごいですよ。濃厚で甘くて、昨日のシチューに入れたら最高でした」
「ふふ、それはよかった。今日も頑張って世話をお願いしますね」
私はミルクを受け取り、大鍋で温め始めた。
窓の外を見渡す。
一ヶ月前、荒れ果てた荒野だった中庭は、今では豊かな農園へと変貌を遂げていた。
元騎士たちが耕した畑には、魔境特有の巨大野菜が実り、ウェアウルフたちが雑草を抜き、ゴブリンたちが肥料を運んでいる。
種族を超えた農業共同体。
かつて剣を向け合っていた者たちが、「美味い飯を食う」という一点のみで団結している姿は、ある意味で平和の象徴かもしれない。
「さて、今日の朝食は『フレンチトースト』にしましょうか」
私は厚切りにしたパン(昨日焼いたブリオッシュ)を、卵と牛乳、砂糖、そしてバニラエッセンスを混ぜたアパレイユ液に浸した。
一晩じっくり漬け込んだので、パンの中心まで液が染み込み、ずっしりと重くなっている。
熱したフライパンにバターを溶かす。
パンを静かに置く。
ジュウウウッ……。
甘い香りが広がる。
バターが焦げる芳醇な匂いと、バニラの甘い香り。
表面にこんがりと焼き色がつくまで、弱火でじっくりと火を通す。
外はカリッ、中はプリンのようにトロトロ。
これが理想のフレンチトーストだ。
「……いい匂いだ」
背後から、低い声と共に温かい腕が私を包み込んだ。
レオナルド様だ。
寝起きで少し低血圧な彼は、私の肩に顎を乗せ、甘えるように抱きついてくるのが最近の日課になっている。
「おはようございます、レオナルド様。もうすぐ焼けますよ」
「ああ……。だが、食べる前に充電が必要だ」
彼は私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
くすぐったい。
ドラゴンの体温は高いので、背中がポカポカする。
この一ヶ月で、私たちの距離は急速に縮まった。
「番」という言葉の意味を、日々実感させられている。
「はい、お皿を持ってください。メープルシロップをたっぷりかけますから」
私は彼を優しく引き剥がし、焼きたてのフレンチトーストを皿に乗せた。
琥珀色のシロップをかけ、粉砂糖を雪のように振る。
最後に、森で採れた赤い木苺を添えて完成。
「いただきます」
私たちは向かい合って朝食をとった。
レオナルド様はナイフを入れる。
パンが抵抗なく切れる。
口に運ぶと、彼は幸せそうに目を細めた。
「溶けるな。パンなのに飲み物みたいだ」
「パン・ペルデュ(失われたパン)とも言いますからね。硬くなったパンを蘇らせる魔法のレシピです」
「蘇らせる、か。……俺の城も、お前のおかげですっかり蘇ったな」
彼は窓の外の活気ある農園を眺めた。
「以前は死んだように静かな場所だった。俺はここで、ただ時間を浪費するだけの存在だった。だが今は、毎日が新しい発見と味覚に満ちている」
「賑やかになりすぎちゃいましたか?」
「いや。悪くない」
彼はコーヒーを一口飲み、私を真っ直ぐに見つめた。
「お前がいるなら、どんな喧騒も心地よい音楽だ」
朝から甘い。
シロップよりも甘い言葉に、私は顔が熱くなるのを誤魔化すようにパンを頬張った。
美味しい。
バターの塩気が甘さを引き立てている。
この幸せが、ずっと続けばいいのに。
そう素直に思える自分がいた。
◇
その日の午後。
私は厨房で、今夜のディナーの仕込みに追われていた。
今日は特別な日だ。
私たちが魔境で出会って、ちょうど一ヶ月。
それを祝うためのフルコースを作る。
前菜は『森の宝石サラダ』。
色とりどりの野菜と、スモークサーモンのカルパッチョ。
スープは『黄金コンソメ』。
魔鶏を丸ごと一羽使い、数種類の香味野菜と共に長時間煮出して澄ませた、琥珀色のスープだ。
魚料理は『白身魚のパイ包み焼き』。
サクサクのパイ生地の中に、ふわふわの白身魚と、濃厚なホワイトソースを閉じ込める。
そして、メインディッシュ。
これだけは、レオナルド様のリクエストに応えることにした。
「やっぱり、原点回帰よね」
私が取り出したのは、巨大な肉塊。
あの日、最初に出会った時に焼いた『ビッグボア』ではない。
さらに上位の魔獣、『キング・ベヒモス』のロース肉だ。
魔境の主の一角とされるこの魔獣の肉は、赤身の中に網の目のように細かなサシが入っており、その脂は「神の雫」と呼ばれるほど甘美だという。
「厚さは……奮発して五センチ!」
分厚いステーキ肉を二枚切り出す。
塩と胡椒のみでシンプルに味付けをする。
素材が最高なのだ。
余計な小細工はいらない。
焼き方は、もちろん炭火だ。
アイアンウッドの炭を使い、強火で一気に表面を焼き固める。
肉汁を一滴たりとも逃さないように。
「アリス様、テーブルの準備が整いました!」
エドワードさんが、ウェイターのような正装(洗濯した白いシャツ)で報告に来た。
城の大広間は、騎士たちによってピカピカに磨き上げられ、キャンドルの灯りで幻想的に演出されているらしい。
「ありがとう。では、運びましょう」
私はワゴンに料理を乗せ、大広間へと向かった。
◇
「……見事だ」
席についたレオナルド様は、次々と運ばれてくる料理に感嘆の声を上げた。
彼の前には、磨き上げられた銀の食器と、深紅のバラ(魔界ローズ)が飾られている。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
私たちはグラスを合わせた。
中身は、魔境の葡萄で作ったヴィンテージ・ワイン。
「出会いに乾杯」
「……俺の胃袋を掴んだ詐欺師に乾杯」
「人聞きの悪い!」
笑い合いながら、食事を楽しむ。
コンソメスープは、口に含んだ瞬間に香りが鼻に抜け、体中に染み渡る滋味深さ。
パイ包み焼きは、サクッという音と共にソースが溢れ出し、魚の甘みと絡み合う。
そして、メインのステーキ。
レオナルド様はナイフを入れ、断面の美しいバラ色を確認すると、大きめに切って口に運んだ。
「……」
彼は目を閉じ、ゆっくりと咀嚼する。
長い沈黙。
そして、目を開けた時、その金色の瞳は潤んでいた。
「……最初に出会った時の肉も衝撃だったが、これはそれを超えている」
「お肉のランクが違いますからね」
「いや、違う。肉の質だけじゃない」
彼は真剣な眼差しで私を見た。
「あの時は、ただ『美味い』という感動だけだった。だが今は……この味の中に、お前の想いを感じる。俺のために手間をかけ、火加減を調整し、一番美味い状態で食べさせたいという、お前の愛情が」
「ッ……」
不意打ちだった。
料理の感想として、これ以上の賛辞はない。
私は胸がいっぱいになり、言葉に詰まった。
「美味しいですか?」
「ああ。世界一だ」
彼は残りの肉を愛おしそうに平らげた。
私も自分の分を食べた。
美味しい。
本当に美味しいけれど、それ以上に、目の前の人がこんなに幸せそうに食べてくれることが、何よりのスパイスだった。
デザートは、『特製・焼きプリンアラモード』。
固めに焼いたクラシックなプリンの周りに、色とりどりのフルーツと、バニラアイスを添えて。
ほろ苦いカラメルソースが、甘い宴を締めくくる。
食後、私たちはテラスへ出た。
夜風が心地よい。
空には満天の星。
魔境の星空は、空気が澄んでいるせいか、宝石箱をひっくり返したように煌びやかだ。
眼下には、騎士たちの住む宿舎の明かりや、森の魔物たちの焚き火が見える。
「アリス」
レオナルド様が、私の隣に立った。
手すりにもたれかかり、夜空を見上げている。
「俺は長い間、自分が何のために生きているのか分からなかった。強すぎる力と、尽きることのない寿命。退屈と虚無だけが友だった」
「……」
「だが、お前が来て世界が変わった。色がついた。匂いがついた。そして、熱が宿った」
彼は私の方を向き、私の手を取った。
その手は大きく、熱く、震えることもなく力強い。
「フレイム王国は滅びたも同然だ。お前を捨てた報いだ。だが、俺は感謝している。あいつらが愚かだったおかげで、俺はお前を拾えた」
彼はポケットから、何かを取り出した。
月明かりに照らされて輝く、真紅の宝石。
『竜の瞳』だ。
世界に一つしかないと言われる、ドラゴンの魔力が結晶化した宝石。
それが、シンプルなプラチナの指輪にはめ込まれていた。
「アリス・バーネット。……いや、アリス」
レオナルド様は片膝をついた。
騎士が姫に忠誠を誓うように。
あるいは、竜が番に愛を乞うように。
「俺の妻になってくれ。料理人としてではなく、番として。俺の長い寿命が尽きるその日まで、俺の隣で笑っていてくれ」
プロポーズ。
予感はしていた。
けれど、実際に言葉にされると、心臓が爆発しそうだった。
嬉しい。
追放された時は、人生が終わったと思った。
でも、その先にこんな未来が待っているなんて。
私は涙を拭い、彼の手を両手で包み込んだ。
「……食費、かかりますよ?」
「国の一つや二つ、くれてやる」
「毎日の献立、文句言わないでくださいね?」
「お前の作るものなら、毒でも喜んで食う」
「掃除も洗濯も、手伝ってくださいね?」
「善処する」
ふふ、と笑みがこぼれた。
完璧な王子様ではない。
食いしん坊で、俺様で、少し不器用なドラゴン。
でも、私にとっては世界で一番のパートナーだ。
「はい。喜んで」
私が答えると、レオナルド様は立ち上がり、私を強く抱きしめた。
指輪が私の薬指にはめられる。
少し緩いけれど、魔法の力で自動的にサイズが調整され、ぴったりと収まった。
「愛している、アリス」
「私も愛しています、レオナルド様」
私たちは口づけを交わした。
甘い、プリンの味がした。
遠くで、騎士たちや魔物たちが「ヒューヒュー!」と囃し立てる声が聞こえた。
やっぱり覗かれていたか。
でも、今は恥ずかしくない。
この温かさが、私の居場所なのだから。
◇
翌朝。
私たちは城の正門前に立っていた。
リュックには、大量のサンドイッチと保存食。
そして、新しい旅装束に身を包んでいる。
「本当に……行ってしまわれるのですか?」
元騎士団長のエドワードさんが、寂しそうに尋ねた。
後ろには、涙目のウェアウルフやゴブリンたちも並んでいる。
「ええ。城の畑も軌道に乗ったし、みんながいればここは安泰でしょう? 私たち、少し遠出しようと思って」
「ハネムーン、というやつだな」
レオナルド様がニヤリと笑った。
そう、私たちは旅に出ることにしたのだ。
魔境の生活も楽しいけれど、世界にはまだ見ぬ食材がたくさんある。
海の幸。
異国のスパイス。
未知のスイーツ。
それらを探しに行かずして、美食家夫婦は名乗れない。
「留守は任せたぞ。俺たちが戻るまでに、畑を倍に広げておけ」
「はっ! 了解いたしました! お土産をお待ちしております!」
「アリス、準備はいいか?」
「はい! いつでも!」
レオナルド様が光に包まれ、黒竜の姿になる。
私はその背中に飛び乗った。
いつもの指定席。
ここからの眺めは、何度見ても飽きない。
『行くぞ!』
バサッ!
巨大な翼が風を掴む。
私たちは空高く舞い上がった。
眼下には、緑豊かな魔境の農園と、手を振る仲間たち。
そして遠くには、雪に閉ざされたかつての故郷、フレイム王国が見えた。
あの国がどうなるかは分からない。
けれど、難民たちは魔境の入り口で受け入れられ、新しい生活を始めていると聞く。
いつか、あの国にも春が戻るかもしれない。
アリスという名の太陽がいなくても、自分たちで火を熾すことを学べば。
「さあ、次はどっちへ行きますか?」
『東だ。海があるらしい。「グロマグロ」という巨大魚がいると聞いた』
「いいですね! お刺身にしましょうか、それともカブト焼き?」
私の『神の劫火』と、レオナルド様の最強の武力。
そして何より、尽きることのない食欲。
これさえあれば、どこへ行っても生きていける。
どんな困難も、美味しく調理して平らげてやる。
「冒険の始まりですね、あなた!」
『ああ。世界中の美味いものを食い尽くすぞ、我が妻よ!』
黒竜は咆哮し、雲を切り裂いて加速した。
青い空の向こうには、まだ見ぬご馳走が私たちを待っている。
私の幸せな人生は、まだまだ終わらない。
むしろ、ここからが本番だ。
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