第14話 凍てつく玉座と、愛の切れ端
「……さむい……」
ガタガタと震える歯の音が、馬車の中に響く。
いや、馬車と呼ぶのもおこがましい。
これは家畜運搬用の荷車だ。
国境の砦で倒れていた俺様を拾った兵士たちは、俺様を王子として扱うどころか、まるで汚物のようにこの荷台へ放り込んだのだ。
「おい! 扱いが乱暴だぞ! 俺様は第一王子クロードだ! もっと上等な毛布を持ってこい!」
俺様は藁の中で叫んだ。
だが、御者台の兵士は振り返りもしない。
無視だ。
どいつもこいつも、王族に対する敬意を忘れたのか。
「王都に着いたら見ていろ……全員、極刑にしてやる……」
俺様は自身の体を抱きしめた。
アリスのカレーを食べ損ねてから五日。
国境警備隊の炊き出しで出された、味のしない薄いスープと硬いパンでなんとか命をつないできた。
だが、空腹は満たされない。
脳裏に焼き付いているのは、あの黄金色のカレーだ。
とろけるチーズ。
溢れる肉汁。
スパイスの香り。
「あぁ……カレー……」
幻覚が見える。
藁の汚れが、カレーのシミに見えてくる。
俺様は思わずそれを指で掬いそうになり、ハッとして手を止めた。
いかん。
俺様は高貴な王子だ。
こんなところで正気を失ってはいけない。
「着いたぞ、荷物」
不意に馬車が止まり、兵士が荷台の扉を開けた。
冷たい風が吹き込んでくる。
「降りろ。王都だ」
俺様は転がり落ちるように荷台から降りた。
足が痺れて感覚がない。
雪の上に膝をつき、顔を上げた。
「こ、これは……」
言葉を失った。
そこにあるはずの、美しい王都の姿はなかった。
あるのは、氷と雪に埋もれた廃墟のような街並み。
建物の窓は割れ、屋根は崩落し、通りにはゴミと瓦礫が散乱している。
そして何より、静かだ。
人の気配がない。
まるで死の街だ。
「どうなっているんだ……たった数日で……」
俺様はふらふらと歩き出した。
王宮へ。
父上の元へ行けば、きっとなんとかなる。
城壁の結界さえ生きていれば、城の中だけは安全なはずだ。
通りを歩いていると、物陰から視線を感じた。
ボロ布を纏った市民たちが、虚ろな目で俺様を見ている。
彼らの手には、棍棒や錆びた剣が握られていた。
「おい、あれ……クロード王子じゃねえか?」
「まさか。あんな浮浪者みたいな格好で……」
「でも、あの金髪……見間違いないぞ。あの国賊だ!」
ざわめきが広がる。
殺気だ。
明確な敵意。
俺様は背筋が凍るのを感じた。
「ひっ……!」
俺様は走った。
凍傷で痛む足を引きずり、転びながら、必死で王宮を目指した。
後ろから石が飛んでくる。
罵声が浴びせられる。
「殺せ! 俺たちから火を奪った悪魔だ!」
「アリス様を追放した大罪人め!」
石が背中に当たり、激痛が走る。
なんでだ。
なぜ俺様がこんな目に遭う。
悪いのはアリスだ。
あいつが火をつけないからいけないんだ。
俺様は被害者だぞ!
「開けろ! 開けてくれ! クロードだ!」
王宮の正門にたどり着き、扉をドンドンと叩いた。
普段なら衛兵が敬礼して迎えてくれる場所だ。
しかし、今は誰もいない。
門は固く閉ざされている。
「くそっ、裏口だ!」
俺様は使用人用の通用口へと回った。
そこは鍵が壊され、半開きになっていた。
俺様は雪崩れ込むように城内へと入った。
◇
城の中は、外よりも寒かった。
廊下の絨毯は剥がされ、壁に飾られていた絵画やタペストリーも消えている。
略奪されたのだ。
民衆か、それとも逃げ出した使用人たちか。
「父上! 母上!」
俺様は玉座の間へと向かった。
広い廊下を走る。
自分の足音だけが、虚しく響く。
玉座の間の重い扉を押し開けた。
「……来てくれたか、クロード」
そこにいたのは、父王だった。
彼は玉座に座り、何枚もの毛布にくるまっていた。
その顔は骸骨のように痩せこけ、目は落ち窪んでいる。
周囲には数人の近衛兵がいるだけで、大臣たちの姿はない。
「父上! ご無事でしたか!」
俺様は安堵し、駆け寄ろうとした。
だが、近衛兵が槍を交差させ、俺様の行く手を阻んだ。
「……え?」
「近寄るな、汚らわしい」
父王が冷たく言い放った。
「父上……? 何をおっしゃるのですか。息子のクロードです。生きて戻りました」
「生きて戻っただと? 誰が戻ってこいと言った。貴様など、魔境で野垂れ死んでいればよかったのだ」
父王の声には、憎悪がこもっていた。
「貴様のせいで! 貴様がアリスを追放したせいで! この国は終わった! 民は暴徒化し、余の首を求めて城門を破ろうとしている! 全て貴様の浅はかな行動が招いた結果だ!」
「な……そんな……」
俺様は愕然とした。
確かに追放したのは俺様だが、それを許可したのは父上ではないか。
あの時、「よくやった、これで公爵家の力を削げる」と笑っていたのは誰だ。
「父上だって賛成したじゃありませんか!」
「黙れ! 余は貴様に騙されたのだ! 『アリスは無能だ』という貴様の虚偽の報告を信じただけだ! 余は被害者だ!」
父王は喚き散らし、震える指で俺様を指差した。
「衛兵! こやつを捕らえろ! 全ての罪をこやつに着せ、民衆に突き出すのだ! 『元凶である愚かな王子を処刑する』と宣言すれば、余の命だけは助かるかもしれん!」
「っ!?」
保身。
この期に及んで、自分の命を守るために息子を売るというのか。
「ふざけるな! 俺様は次期国王だぞ!」
「次期国王などいない! あるのは『国を滅ぼした大罪人』だけだ!」
衛兵たちが迫ってくる。
彼らの目にも、俺様への憐れみなど微塵もない。
むしろ、「こいつさえ生贄にすれば助かる」という打算の色が見える。
「くそっ……!」
俺様は踵を返して逃げ出した。
捕まってたまるか。
処刑などされてたまるか。
「逃がすな! 追え!」
怒号が背中を叩く。
俺様は迷路のような城内を走り回った。
子供の頃、かくれんぼで使った隠し通路。
壁の裏にある狭い階段。
それが俺様を救った。
追っ手を撒き、息を殺して移動する。
どこへ行けばいい。
どこへ逃げればいい。
この極寒の城の中で、味方は一人もいないのか。
「……ミランダ」
そうだ、ミランダだ。
彼女なら。
僕の愛しい婚約者なら、きっと僕を待っていてくれるはずだ。
彼女は優しい。
「クロード様、愛しています」といつも言ってくれた。
二人で逃げよう。
城の地下にある隠し金庫から宝石を持ち出し、隣国へ亡命するのだ。
そうすれば、また贅沢な暮らしができる。
希望が見えた。
俺様はミランダの部屋へと向かった。
◇
ミランダの部屋の前まで来ると、中から物音が聞こえた。
ガサゴソと、何かを漁るような音。
「ミランダ!」
俺様はドアを開けた。
そこには、旅行鞄に宝石やドレスを詰め込んでいるミランダの姿があった。
彼女は厚着をして、背中には大きなリュックを背負っている。
「……ッ!?」
俺様の姿を見て、ミランダは悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
そして、あからさまに嫌そうな顔をした。
「なによ……生きてたの?」
「え?」
耳を疑った。
「生きてたの?」だと?
「ご無事でしたか!」ではないのか?
「ミランダ……どうしたんだ。僕だぞ、クロードだ。さあ、一緒に逃げよう。君も準備していたんだね」
俺様は笑顔を作って近づいた。
だが、ミランダは後ずさりし、鞄を背中に隠した。
「近寄らないでよ! 臭い! 汚い!」
「なっ……」
「あんたなんて、もう王子でもなんでもないわ! ただの指名手配犯じゃない! 一緒にいたら、あたくしまで殺されるわ!」
彼女の本性が剥き出しになる。
可愛らしい猫被りは消え去り、そこには強欲で利己的な女の顔があった。
「な、何を言っているんだ。僕たちは愛し合っているだろう? アリスを追い出して、二人で幸せになるはずじゃ……」
「愛? 笑わせないでよ。あたくしが愛していたのは『次期王妃』という地位と、あんたの金よ! あんた自身になんて、何の価値もないわ!」
ガーンと頭を殴られたような衝撃。
金目当て。
地位目当て。
薄々は気づいていたかもしれない。
でも、認めたくなかった。
アリスのような冷たい女より、甘えてくるミランダの方が、俺様を愛してくれていると信じたかったのだ。
「あんたのせいで、あたくしの人生めちゃくちゃよ! 寒いし、ひもじいし! もうウンザリ! あたくしはこの宝石を持って、隣国の商人と結婚するの! さようなら、負け犬さん!」
ミランダは窓枠に足をかけた。
彼女の部屋は二階だが、雪が積もっているので飛び降りても平気だと思ったのだろう。
「待て! その宝石は王家のものだ! 泥棒!」
「うるさい! 慰謝料よ!」
彼女は窓から飛び降りた。
ドサッ、という音がする。
俺様は窓から下を覗き込んだ。
ミランダは雪の上に着地し、よろめきながら立ち上がった。
そして、森の方へ走ろうとした。
その時だった。
「ギャウッ!」
白い影が、雪の中から飛び出した。
『スノーウルフ』だ。
本来なら魔境にしかいないはずの魔物が、寒冷化した王都周辺にまで南下してきていたのだ。
「いやぁぁぁっ!」
ミランダの悲鳴。
狼が彼女の鞄に噛み付く。
鞄が裂け、中から大量の宝石や金貨が雪の上にばら撒かれた。
「あたくしの金! 返してよぉ!」
ミランダは逃げることも忘れ、金貨を拾おうとした。
それが命取りだった。
さらに二匹、三匹と狼が現れる。
彼女は囲まれた。
「や、やだ……来ないで……クロード様! 助けて!」
彼女が俺様を見上げて叫んだ。
さっきまで「負け犬」と呼んでいた相手に、命乞いをする。
その顔は恐怖で歪み、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
俺様は窓辺に立ち尽くし、ただ見ていた。
助ける?
どうやって?
武器もない。
魔法も使えない。
それに、俺様は「負け犬」なのだろう?
「自業自得だ」
俺様は呟いた。
アリスを追放した時、彼女は泣かなかった。
恨み言も言わなかった。
ただ凛として去っていった。
それに比べて、この女のなんと醜いことか。
狼たちが一斉に飛びかかった。
ミランダの姿が白い毛皮の波に飲まれる。
断末魔の叫びが響き、やがて静かになった。
雪の上に、赤いシミが広がっていく。
宝石と鮮血のコントラストが、妙に綺麗だった。
「……ははっ」
乾いた笑いが出た。
終わった。
何もかも。
金も、地位も、女も、家族も。
全て失った。
背後でドアが蹴破られる音がした。
衛兵たちが踏み込んでくる。
「いたぞ! 捕らえろ!」
俺様は抵抗しなかった。
されるがままに腕を捻り上げられ、床に押し付けられた。
冷たい床の感触。
ああ、アリスのカレーがこぼれた床も、こんなふうに冷たかったのだろうか。
◇
引きずられるようにして連行された先は、城の地下牢だった。
かつてアリスが「火の管理」のために通っていた場所の、さらに奥。
光の届かない、石造りの独房。
「入れ!」
牢の中に放り込まれ、鉄格子が閉まる。
ガチャン、という音が、俺様の人生の終わりを告げた。
「父上の慈悲だ。処刑は免除してやる。その代わり、この国が滅びるその瞬間まで、ここで罪を償え」
衛兵が唾を吐き捨てて去っていく。
暗闇が訪れた。
「寒い……」
地下牢は、外よりもさらに寒かった。
窓はないが、石壁から冷気が染み出してくる。
暖房などあるはずもない。
アリスがいれば。
あいつがいれば、ここは一番温かい場所だったはずなのに。
俺様は膝を抱えてうずくまった。
お腹が空いた。
五日前、あの魔王城で見た、湯気を立てるビーフシチュー。
チーズがとろけるハンバーグカレー。
それらが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「アリス……」
名前を呼んでみた。
返事はない。
あるのは、自分の呼気が白く凍る音だけ。
「ごめん……なさい……」
初めて、謝罪の言葉が口をついて出た。
だが、もう遅い。
その声は誰にも届かず、闇の中に吸い込まれて消えた。
牢の隅に、ネズミが一匹走った。
それは何か小さなパンの欠片のようなものを咥えていた。
俺様は、そのネズミを目で追った。
ネズミになりたい。
魔境でアリスの料理のおこぼれを貰えるなら、ネズミでもいい。
涙が流れた。
その涙も、頬を伝う途中で凍りついた。
これが、フレイム王国第一王子、クロードの末路。
世界で一番愚かで、世界で一番不幸な男の、長くて寒い夜の始まりだった。
一方その頃。
魔王城では、アリスが新しいオーブンを完成させ、「食後のデザートは焼きプリンよ!」と宣言し、レオナルドと元騎士たちが歓声を上げている頃だろう。
その温かな光景を想像することだけが、俺様に残された唯一の、そして最も残酷な慰めだった。




