第13話 黄金のスパイス香るハンバーグカレー
「カレーこそ、人類が生み出した最強の魔法だと思うの」
厨房に並べられたスパイスの瓶を前に、私は厳かに宣言した。
クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン、クローブ、そしてカイエンペッパー。
色とりどりの粉末が、瓶の中で異国の香りを放っている。
「……アリス、それは魔法陣の儀式か何かか?」
テーブルで頬杖をついているレオナルド様が、怪訝そうな顔をした。
彼は肉を焼くのは好きだが、こういう細かい調合は専門外らしい。
「ある意味では儀式ですね。食欲を召喚する儀式です」
「ふん。まあいい。とにかく、あの刺激的な香りを早く嗅がせてくれ」
今日は「カレーの日」だ。
それも、ただのカレーではない。
肉汁溢れるハンバーグを乗せ、とろけるチーズをかけた「ハンバーグチーズカレー」。
カロリーと幸福の塊を作ろうとしているのだ。
「では、始めますよ!」
まずは基本中の基本、玉ねぎ炒めだ。
魔境で採れた巨大な『オーガ・オニオン』を五個、すべてみじん切りにする。
涙が出ないように換気魔法をフル稼働させ、ミスリルの大鍋にバターを溶かす。
ジュワァァァ……。
大量の玉ねぎを投入。
最初は強火で水分を飛ばし、途中から弱火にしてじっくりと炒める。
ここが一番の根気勝負だ。
焦がさないように、木べらで絶え間なく混ぜ続ける。
白かった玉ねぎが透き通り、やがて黄色くなり、そして深い飴色に変わっていく。
メイラード反応の極致。
この飴色玉ねぎこそが、カレーに奥深いコクと甘みを与えるベースとなる。
「一時間経過……よし、完璧な飴色ね」
鍋の中身は、最初の五分の一ほどの量に凝縮されていた。
ここに、すりおろしたニンニクと生姜を加え、香りが立つまで炒める。
そして、いよいよスパイスの投入だ。
私が調合した『アリス特製ガラムマサラ』を、惜しげもなく振りかける。
バッ!
その瞬間、厨房の空気が変わった。
鼻孔をくすぐるクミンの野性味。
コリアンダーの爽やかさ。
クローブの甘い刺激。
それらが熱せられた油と混ざり合い、爆発的な芳香を放つ。
「……ッ! なんだこの匂いは!」
レオナルド様が目をカッと見開いた。
鼻をヒクつかせ、深呼吸をしている。
「脳が……揺さぶられるぞ。食欲中枢を直接殴られているようだ」
「ふふ、スパイスの魔力ですよ。ここにお肉とスープを入れます」
今回の肉は、ビッグボアの角切り肉だ。
表面を焼き固めた肉を鍋に入れ、赤ワインとフォンドボー(仔牛の出汁)、そして隠し味のインスタントコーヒーとチョコレートを一片加える。
これでコクが段違いになる。
「あとは煮込むだけです。その間に、主役のハンバーグを焼きますね」
私は別のボウルを取り出した。
中には、ビッグボアの赤身肉と、ハイオークの脂身を黄金比率(七対三)で混ぜた合挽き肉が入っている。
つなぎは炒めた玉ねぎ、パン粉、牛乳、卵。
そしてナツメグを少々。
「美味しくな〜れ」
手のひらの熱が伝わらないよう、手早く、しかし粘りが出るまでしっかりと練る。
空気を抜くように両手でキャッチボールをし、小判型に整える。
中央を少し窪ませるのがポイントだ。
熱した鉄のフライパンに、牛脂を引く。
ジュウウウッ……!
ハンバーグを置く。
ジジジジジ……という低い音が響く。
今回は厚みがあるため、最初は強火で表面を焼き固め、裏返してから弱火にして蓋をし、蒸し焼きにする。
数分後。
蓋を開けると、ふっくらと膨らんだハンバーグが姿を現した。
中心に竹串を刺してみる。
プシュッ。
透明な肉汁が、噴水のように溢れ出した。
「火通りよし!」
同時進行で煮込んでいたカレー鍋も、とろみが出て完成の域に達している。
私は大皿にご飯を盛り付けた。
米は、魔境の湿地帯で栽培されていた『クリスタル・ライス』。
一粒一粒が輝き、モチモチとした食感が特徴だ。
ご飯の上に、焼きたてのハンバーグをドーンと乗せる。
その上から、スパイシーなカレーソースをたっぷりとかける。
ハンバーグが見えなくなるほどのルーの海。
仕上げだ。
バーナーを取り出し、ハンバーグの上にたっぷり乗せたミックスチーズを炙る。
ゴオオオッ!
チーズが溶け、フツフツと泡立ち、焦げ目がつく。
トロトロのチーズがハンバーグを覆い尽くし、カレーソースと混ざり合う。
最後にドライパセリを振って完成。
「お待たせしました! 『絶品・とろけるチーズのハンバーグカレー』です!」
私はレオナルド様の前に皿を置いた。
湯気と共に立ち昇るスパイスと焦がしチーズの香り。
これはもう、兵器だ。
空腹という名の敵を殲滅する最終兵器。
「……いただきます」
レオナルド様は、神に祈るような真剣な表情でスプーンを握った。
まずは、カレーとご飯、そして溶けたチーズが絡んだ部分を一口。
「……!」
言葉が出ないらしい。
続いて、スプーンの縁でハンバーグを割る。
肉汁がカレーソースに滲み出し、さらに濃厚な色へと変わる。
肉とカレーを一緒に口へ運ぶ。
「んんっ……!」
レオナルド様が天を仰いだ。
「辛い……いや、甘い? 玉ねぎの甘みが来た直後に、スパイスの刺激が駆け抜ける。そして肉の旨味が全てを包み込む……」
「チーズとの相性はどうですか?」
「反則だ。スパイシーな嵐の中で、チーズのまろやかさが避難所になっている。この緩急……止まらん」
彼は猛烈な勢いで食べ始めた。
額にうっすらと汗を浮かべている。
スパイスの発汗作用だ。
「うおおお! アリス様! 俺たちにも! 俺たちにも恵みを!」
厨房の勝手口から、元騎士団長たちが雪崩れ込んできた。
彼らは城の掃除を終え、この香りに釣られてゾンビのように集まってきていたのだ。
「はいはい、みんなの分もありますよ。寸胴鍋いっぱいに作りましたから」
「ありがとうございますぅぅぅ!」
元騎士たちが列をなし、カレーを受け取っていく。
彼らは床に座り込み、涙と鼻水を流しながらカレーを貪った。
「辛ぇ! でも美味ぇ!」
「母ちゃん、俺、騎士辞めてよかったよ……こんな美味いもんが食えるなら、一生雑用係でいい……」
厨房はカレーの香りと、男たちの咀嚼音で満たされた。
幸せな空間だ。
私も自分の分をよそい、一口食べた。
うん、最高。
数種類のスパイスが複雑に絡み合い、家庭の味を超えたプロの味になっている。
これならお店が出せるわね。
その時だった。
厨房の入り口にある扉が、ギイィ……と重苦しい音を立てて開いた。
「……か……れ……」
低い、しわがれた声。
冷たい風と共に、異臭が流れ込んでくる。
泥と、カビと、排泄物の混じったような強烈な悪臭。
カレーの芳香が一瞬で濁る。
「なんだ?」
元騎士団長がスプーンを止めた。
入り口に立っていたのは、人間のような形をした泥人形だった。
髪はボサボサで泥にまみれ、服はボロ布のように垂れ下がり、肌は土気色に変色している。
目は落ち窪み、焦点が合っていない。
「……いい……匂い……」
泥人形が、ガタガタと震えながら一歩踏み出した。
その顔をよく見ると、見覚えのある整った目鼻立ちの名残があった。
「ク、クロード殿下……?」
元騎士の一人が悲鳴のような声を上げた。
そう、それはかつての主君、クロード王子だった。
あの日、森へ逃げ込んだ後、彼は魔境の過酷な自然の中を這いずり回っていたのだろう。
靴はなく、足は血だらけだ。
「あ……アリス……」
クロードが私を見つけた。
その目に、狂気じみた光が宿る。
「アリス……飯……飯をくれ……」
「……随分と変わり果てましたね」
私はスプーンを置いた。
同情心は湧かなかった。
ただ、生理的な嫌悪感と、せっかくのカレータイムを邪魔された不快感だけがあった。
「命令だ……その、茶色い美味そうなものを……よこせ……」
彼は這いつくばって近づいてくる。
その手は泥だらけで、爪の間には土が詰まっている。
元騎士たちが、汚いものを見る目で道を空けた。
かつて忠誠を誓った相手への敬意は、もう欠片も残っていない。
「王子としての命令ですか?」
「そうだ……僕は王子だ……貴様らは下僕だ……早く食わせろ……!」
彼はまだ理解していないらしい。
自分の立場を。
ここが誰の城で、私が誰の番であるかを。
「おい」
底冷えするような声が響いた。
レオナルド様だ。
彼はスプーンを置き、ナプキンで口元を拭っていた。
その瞳は、ゴミを見るよりも冷たく、絶対零度の殺気を放っていた。
「俺の神聖な食事の場に、汚物を持ち込むな」
「ヒッ……」
クロードが動きを止めた。
本能的な恐怖が、空腹を上回ったのだ。
「レ、レオナルド……公爵……慈悲を……一口でいい……」
「慈悲? 俺にそんなものがあると思ったか?」
レオナルド様は椅子に座ったまま、指先を軽く動かした。
フワッ。
魔法の力で、私の手元にあったカレー鍋が空中に浮いた。
クロードの目の前まで移動する。
「あ……!」
クロードが希望に顔を輝かせた。
鍋の中には、まだたっぷりとカレーが残っている。
温かい湯気。
溶けたチーズ。
スパイシーな香り。
「食いたいか?」
「く、食いたい! 食わせてくれ!」
「そうか」
レオナルド様はニヤリと笑った。
そして、鍋をゆっくりと傾けた。
「あっ……!」
ドロリ。
カレーがこぼれ落ちる。
しかし、それはクロードの皿の上ではない。
彼の目の前の、汚れた床の上だ。
ボトボトボトッ!
黄金色のカレーが、冷たい石床にぶちまけられた。
ハンバーグが転がり、チーズが無惨に広がる。
「あぁぁぁぁッ!?」
クロードが絶叫した。
この世の終わりを見たような顔で、床のカレーを見つめる。
「犬なら、床に落ちた飯でも食えるだろう? 食えよ」
レオナルド様は残酷に告げた。
それは、かつてクロードが私にした仕打ちへの、最大級の皮肉だった。
王宮のパーティで、彼は私の料理を床に落とし、「無能が作った料理などゴミだ」と笑ったのだ。
忘れていたかもしれないが、私は忘れていない。
そしてどうやら、レオナルド様もその記憶を(私の心を通じて)共有していたらしい。
「う……うぅ……」
クロードは震える手で、床のカレーを掬おうとした。
プライドも尊厳も捨てて。
ただ、胃袋の悲鳴に従って。
しかし。
「汚い手で触るな」
レオナルド様が指を弾いた。
ジュッ!
床のカレーが一瞬で黒焦げになり、炭の塊へと変わった。
「あ……あぁ……」
クロードの手が、炭になったカレーの上を彷徨う。
匂いも消え、温かさも消え、ただの黒い粉だけが残った。
「働かざる者、食うべからず。貴様はこの数日間、何かを生み出したか? 誰かの役に立ったか? ただ喚き、逃げ、他人から奪おうとしただけだろう」
私は冷ややかに言い放った。
元騎士団長たちは、城の掃除をし、薪を割り、対価としてカレーを得た。
彼らには食べる権利がある。
だが、クロードにはない。
「貴様にやる飯はない。城の外の残飯入れでも漁るんだな。もっとも、魔境のネズミの方が貴様より生存能力は高いだろうが」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
クロードは泣き叫んだ。
絶望。
後悔。
空腹。
全ての感情が混ざり合った、人間とは思えない咆哮。
「つまみ出せ」
レオナルド様が短く命じた。
元騎士団長たちが、無言で立ち上がった。
かつての主君の両脇を掴み、引きずっていく。
「やめろ! 放せ! 僕は王子だぞ! カレーを……カレーをくれぇぇぇ!」
彼の声は廊下の奥へと遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
城の扉が閉まる重い音が響く。
厨房に静寂が戻った。
残ったのは、スパイスの香りと、少し気まずい空気。
「……さて」
レオナルド様が、何事もなかったかのようにスプーンを手に取った。
「冷める前に食うぞ。アリス、おかわりだ」
「あ、はい。チーズ追加しますか?」
「頼む」
私は新しい皿にカレーをよそった。
元騎士たちも、互いに目配せをしてから、再びカレーを食べ始めた。
誰もクロードの話はしなかった。
彼に関わることで、この美味しいカレーの味を落としたくなかったからだ。
外では吹雪が強まっている。
一度は拾った命を、自らの傲慢さで再び捨てた男。
彼がこの後どうなるか。
それは、魔境の闇だけが知っていることだ。
「美味しいですね、レオナルド様」
「ああ。世界で一番だ」
私たちは微笑み合い、熱々のハンバーグを頬張った。
口の中に広がる肉汁とスパイスの味は、勝利の味がした。
これで本当に、過去との決別は終わったのだ。




