第12話 魔王の独占欲
城が騒がしい。
俺はテラスの椅子に深く腰掛け、眼下の光景を眺めながらそう思った。
かつて、このドラグニル城は静寂に包まれていた。
俺という災厄の竜が住まう場所。
近づく者は死を覚悟した勇者か、命知らずの冒険者のみ。
それらも俺の咆哮ひとつで塵となり、再び静寂が戻る。
それが数百年続いた日常だった。
だが、今はどうだ。
「おい、そこの窓ガラス! まだ拭き跡が残っているぞ!」
「イエッサー! すぐに磨き直します!」
「庭の草むしり班、配置につきました! アリス様のために花壇を作ります!」
「おう、気合い入れろよ! 昼飯はアリス様の特製サンドイッチらしいからな!」
中庭では、薄汚れた鎧を脱ぎ捨て、作業着(ボロボロの衣服を縫い合わせたもの)を着た男たちが走り回っている。
数日前まで「フレイム王国精鋭騎士団」などと名乗っていた連中だ。
今では完全に、アリスの信者兼、城の清掃員と化している。
本来なら、俺の縄張りに人間ごときが住み着くなど許し難いことだ。
ブレスで焼き払って肥料にするのが竜としての作法だろう。
だが、俺はそれを黙認している。
理由は単純だ。
「レオナルド様〜! 窯の温度、いい感じに上がりましたよ!」
中庭の隅から、明るい声が響いた。
アリスだ。
煤で頬を少し汚し、白いエプロンをつけた彼女が、俺に向かって大きく手を振っている。
その笑顔を見た瞬間、俺の中にある破壊衝動や苛立ちといった負の感情が、春の雪解けのように消え去っていくのを感じた。
アリスが喜んでいるなら、まあいいか。
それに、雑用係がいれば、アリスが掃除や洗濯に時間を割く必要がなくなり、その分、俺のために料理をする時間が増える。
合理的だ。
俺はテラスから飛び降り、ふわりと着地した。
アリスの元へ歩み寄る。
「ご機嫌だな、アリス」
「ええ、ついに念願の『石窯』が完成しましたから!」
彼女が指差した先には、耐火レンガと魔境の赤土で作られた、ドーム型の竈があった。
騎士たちが必死に石を運び、アリスが魔法で土を焼き固めて作った即席の石窯だ。
窯の口からは、メラメラと赤い炎が見える。
中で薪が爆ぜる音が心地よい。
「これで何を作るんだ?」
「ピザです! ナポリ風の、本格的な石窯ピザを焼きますよ!」
ピザ。
聞いたことのない料理名だ。
だが、アリスが作るのだ。
間違いなく美味い。
俺の口内に、条件反射で唾液が溢れてくる。
竜としての尊厳が揺らぐほど、俺はこの小さな娘に餌付けされていた。
「生地はもう発酵させてあります。見てください、このモチモチ感」
彼女は作業台の上にある白い塊を指で押した。
ぷにゅ、と柔らかく弾き返される。
小麦粉を練ったものらしいが、パンとは違うのか?
アリスは粉を振った台の上に生地を置くと、手際よく伸ばし始めた。
麺棒は使わない。
指先と掌を使い、空中で回転させながら、遠心力で薄く円形に広げていく。
まるで曲芸だ。
あっという間に、直径三十センチほどの綺麗な円盤が出来上がった。
「まずは王道、『マルゲリータ』からいきます」
彼女は生地の上に、真っ赤なソースを塗り広げた。
トマトソースだ。
完熟したトマトを煮詰め、オリーブオイルと塩、そしてニンニクで味を整えたシンプルなソース。
その上に、白いチーズをちぎって乗せていく。
『モッツァレラチーズ』。
水牛の乳から作った、淡白だがミルキーなチーズらしい。
最後に、緑色の葉を数枚散らす。
バジルだ。
赤、白、緑。
鮮やかな色彩が食欲をそそる。
「焼きます!」
アリスは木製のヘラ(パーラーというらしい)にピザを乗せ、勢いよく窯の中へ滑り込ませた。
石窯の内部は、四〇〇度を超える高温になっているらしい。
アリスの『神の劫火』で着火された薪は、理想的な熱対流を生み出している。
俺は窯の口から中を覗き込んだ。
ジュウウウウッ……!
生地の縁が、熱に反応して瞬時に膨らみ始める。
焦げ目がポツポツと現れ、香ばしい小麦の香りが漂ってくる。
チーズが溶け出し、グツグツと沸騰して泡立つ。
トマトソースの水分が飛び、凝縮された旨味の香りが立ち昇る。
「まだだ……まだ早い……」
アリスが真剣な目で窯の中を見つめる。
その横顔は、戦場に立つ戦士のように凛々しい。
ピザ焼きはスピード勝負だと言っていた。
わずか一分半。
その短い時間に、全てを懸ける。
彼女はパーラーを巧みに操り、ピザを回転させ、均一に焼き色をつけていく。
「今!」
サッ、と引き出す。
現れたのは、黄金色の芸術品だった。
コルニチョーンと呼ばれる縁の部分は、こんがりとした狐色に焼け、所々に薪の灰を被ったような黒い焦げ目がついている。
中央では、紅白の海が混ざり合い、トロトロに溶けたチーズがマグマのように輝いている。
バジルの爽やかな香りが、熱気と共に鼻腔を直撃した。
「完成! 焼きたてをどうぞ!」
アリスはピザを木のボードに乗せ、ローラーカッターでザクザクと六等分に切り分けた。
チーズが糸を引き、湯気が立ち昇る。
俺は一切れを手に取った。
熱い。
だが、竜の皮膚を持つ俺には心地よい温度だ。
先端が重みで垂れ下がり、そこからトマトとチーズの雫が落ちそうになる。
それを逃さぬよう、俺は大きく口を開けてかぶりついた。
サクッ、モチッ。
「……ッ!!」
衝撃が走った。
生地の表面は驚くほどクリスピーで香ばしいのに、中は水分を含んでモチモチとしている。
噛み締めた瞬間、小麦の甘みが口いっぱいに広がる。
そして、具材の奔流。
熱々のトマトソースの酸味と甘み。
モッツァレラチーズの濃厚なミルク感とコク。
それらが口の中で混ざり合い、バジルの香りが爽やかな風を吹き込んでいく。
シンプルだ。
肉も魚も入っていない。
なのに、なぜこれほどまでに美味いのか。
「生地が……生きている」
俺は呻いた。
高温で一気に焼くことで、素材の水分と旨味を瞬時に閉じ込めているのだ。
噛むたびに、チーズがキュッキュッと音を立て、トマトジュースが溢れ出す。
飲み込んだ後も、薪の香ばしい余韻が残る。
「どうですか、レオナルド様?」
「……罪だ。これは罪の味だ、アリス」
俺は二切れ目を掴みながら答えた。
「これを一度知ってしまえば、もう普通のパンなど泥と同じだ。お前は俺の舌をどこまで贅沢にすれば気が済むんだ」
「ふふ、最高の褒め言葉ですね。次、『クアトロ・フォルマッジ』いきますよ! 四種のチーズとハチミツのピザです!」
次々と焼かれるピザ。
ゴルゴンゾーラの刺激的な香りと、ハチミツの甘みが絶妙にマッチしたクアトロ・フォルマッジ。
アンチョビとオリーブの塩気が酒を呼ぶシチリアーナ。
そして、半熟卵を乗せて焼き、最後に崩して食べるビスマルク。
俺は無心で食らいついた。
周囲の騎士たちも、アリスから「失敗作(形が歪んだもの)」を恵んでもらい、涙を流して食べている。
平和だ。
ここは魔境の最奥地、死と絶望の地だったはずだが、今は世界で一番幸福な場所かもしれない。
ふと、俺はフォークを止めた。
森の方角から、微弱だが不快な気配を感じたからだ。
『……寒い……腹減った……』
風に乗って、虫の鳴き声のような思考が届く。
クロードだ。
数日前に城から追い出した元王子。
奴はまだ生きていたのか。
俺の感覚が、森の中を這いずり回る小さな熱源を捉える。
奴は森の浅い部分で迷い、寒さと飢えで衰弱しきっている。
魔物に襲われていないのは奇跡に近いが、おそらくあまりに汚らしく、魔物さえもエサとして認識していないのだろう。
「……」
俺はピザの耳を齧りながら、思考を巡らせた。
今すぐブレス一発で消し飛ばすこともできる。
あるいは、アリスに伝えて、トドメを刺しに行くか。
俺は隣で生地を伸ばしているアリスを見た。
彼女は鼻歌を歌いながら、楽しそうに次のピザ(テリヤキチキンらしい)を作っている。
その横顔には、クロードへの未練はおろか、憎しみさえも残っていないように見えた。
彼女にとって、あの男はもう「どうでもいい過去の遺物」なのだ。
ならば、俺がわざわざ話題に出して、この楽しいピザパーティーの空気を濁す必要はない。
「レオナルド様? どうしました?」
アリスが俺の視線に気づき、首を傾げた。
「いや。……ただ、このテリヤキチキンの匂いが、あまりに芳醇だったものでな」
「でしょう? 醤油と砂糖を煮詰めたタレが、マヨネーズと合わさって最強なんですよ」
俺はニヤリと笑い、彼女の頬についた小麦粉を指で拭った。
「そうだな。だが、俺にとって一番の御馳走は、ピザではなく、それを焼いているお前自身かもしれんぞ」
「……またそういうことを! ほら、焼けますから離れてください!」
アリスが顔を真っ赤にして、俺を押し返した。
照れている。
可愛い奴だ。
この反応が見られるなら、森の害虫など放置しておいても構わない。
どうせ、この寒さだ。
放っておけば、遠からず土に還るだろう。
それが、あの男に相応しい末路だ。
「さあ、焼けましたよ! 日本人の心、『テリヤキチキンピザ』です!」
アリスが窯から取り出したピザは、茶色いタレが焦げて輝き、マヨネーズが網目状にかかっている。
刻み海苔が散らされ、和風の香りが漂う。
俺はそれを受け取り、大きく口を開けた。
甘辛いタレ。
ジューシーな鶏肉。
そしてマヨネーズのコク。
これらが口の中で暴れ回る。
美味い。
やはりアリスは天才だ。
その時、森の奥で「ギャアアアッ!」という短い悲鳴が聞こえた気がした。
おそらく、クロードが雪穴にでも落ちたか、あるいは野良犬にでも噛まれたか。
俺は咀嚼する音でその悲鳴をかき消し、冷たいエールで流し込んだ。
知らぬ。
俺の耳には、アリスの楽しげな声と、ピザが焼ける音しか届かない。
「アリス」
「はい?」
「次はデザートピザだ。チョコレートとバナナ、そしてマシュマロを乗せろ」
「うわぁ、カロリー爆弾ですね。……了解です、最高に甘いやつを作ります!」
アリスが笑う。
俺も笑う。
騎士たちが「アリス様バンザイ!」と合唱する。
魔境の午後は、甘く、香ばしく、そして温かい。
俺はアリスの腰を引き寄せ、自分の膝の上に乗せた。
彼女は「重いです!」と抗議したが、俺は離さない。
「俺のピザだ。俺が一番美味い状態で食う」
「それ、ピザのことですか? 私のことですか?」
「両方だ」
俺は彼女の耳元で囁き、そして甘いチョコレートピザを口移しで食べさせた。
アリスの顔が茹で蛸のように赤くなるのを見て、俺は満悦した。
世界がどうなろうと知ったことか。
俺の世界は今、この中庭で完結しているのだから。




