第11話 煮込み三日目のビーフシチュー
魔王城の厨房に、芳醇な香りが充満していた。
赤ワインの酸味が飛んだ後の深みのある葡萄の香り。
バターで炒めた香味野菜の甘い匂い。
そして、長時間煮込まれた肉塊が放つ、濃厚な獣の香り。
それらが混ざり合い、呼吸をするだけでお腹が空くような空間を作り出している。
「いい色になってきたわね」
私はミスリル銀の大鍋を覗き込んだ。
鍋の中では、漆黒に近い焦げ茶色のソースが、ポコッ、ポコッ、と重たい音を立てて呼吸をしている。
ビーフシチューだ。
しかも、ただのシチューではない。
王都から帰還したその日から仕込みを始め、丸三日間、魔法で温度管理をしながら煮込み続けた「究極のビーフシチュー」である。
「アリス、まだか」
背後から待ちきれない声がした。
振り返ると、レオナルド様がテーブルで頬杖をついている。
その目は鍋に釘付けだ。
彼はこの三日間、私が鍋の世話をするたびに厨房へやってきては、「味見はまだか」「もう食えるのではないか」と聞いてくる。
まるで餌を待つ大型犬だ。
「もう少しです。最後の仕上げにお肉を戻すところですから」
私はフライパンを火にかけた。
今回のメイン食材は、以前魔物たちが貢ぎ物として持ってきた『ボルケーノ・バイソン』のスネ肉だ。
スネ肉は筋が多くて硬いが、長時間煮込むことでコラーゲンがゼラチン化し、トロトロの食感になる。
この肉を、赤ワインと香草でマリネして一日寝かせ、表面をカリッと焼いてから鍋で二日間煮込んだ。
そして今、一度取り出して休ませておいた肉を、温め直してソースと合流させるのだ。
「見ていてくださいね」
私は煮崩れしないようにタコ糸で縛った拳大の肉塊を、静かに鍋へと沈めた。
ドプン。
波紋が広がり、肉がソースの中に消えていく。
仕上げに、キャラメリゼした小玉ねぎ(ペコロス)と、シャトー剥きにした人参、そしてソテーしたマッシュルームを加える。
野菜は最初から煮込むと溶けてしまうため、別で調理して最後に合わせるのが鉄則だ。
これで、ソースの濃厚さと野菜のフレッシュな食感を両立できる。
「あと十分。味が馴染むまで待ってください」
「……長い。百年待つより長く感じる」
レオナルド様が不満げに呻く。
最強の竜をも焦らすビーフシチュー。
罪深い料理だ。
私は木べらでゆっくりと鍋底を混ぜた。
焦げ付き防止の魔力コーティングがあるとはいえ、油断は禁物だ。
鍋底から湧き上がる香りを確認する。
完璧だ。
デミグラスソースを使わず、赤ワインとフォンドボー(仔牛の出汁)、そして大量の野菜を煮詰めて作った「ブラウンソース」。
その複雑で奥深い味わいは、市販のルーでは絶対に再現できない。
「アリス様!」
不意に、厨房の窓の外から声がした。
見ると、警備を任せているウェアウルフのリーダー『ガル』が、窓枠に前足をかけて顔を出していた。
彼は息を切らし、少し焦った様子だ。
「どうしたの、ガル? つまみ食いなら後でね」
『いえ、違います! 城門の方に、人間たちが!』
「人間?」
私は木べらを止めた。
こんな魔境の奥地に、人間が来るなんて珍しい。
冒険者だろうか。
それとも、迷い込んだ遭難者か。
『数は五十ほど。鎧を着て、武器を持っています。そして、先頭にいる男が……』
ガルが言い淀んだ。
私は嫌な予感がして、レオナルド様を見た。
彼は眉一つ動かさず、テーブルの上のナイフとフォークを整えている。
「レオナルド様、気づいていました?」
「……ああ。蟻が列をなして近づいてくるのは分かっていた」
「なぜ教えてくれなかったんですか」
「シチューの煮込みが終わるまでは、世界の滅亡だろうと俺には関係ない」
清々しいほどの食い意地だ。
しかし、武装した集団となれば話は別だ。
騎士団か。
まさかとは思うが、あの状況から追ってきたというのか。
「誰なのかしら」
「見に行けば分かる。どうせ、死に損ないの雑魚どもだ」
レオナルド様は面倒くさそうに立ち上がった。
その目には、食事を邪魔されたことへの苛立ちがありありと浮かんでいる。
これはまずい。
下手をすると、話を聞く前に全員ブレスで消し炭にされかねない。
「私も行きます。シチューは『保温』魔法をかけておきますから」
「チッ。……早く片付けるぞ」
私たちは厨房を出て、城の正門へと向かった。
◇
魔王城の正門前。
そこには、異様な集団がいた。
かつては煌びやかだったであろう銀の鎧は泥と煤で汚れ、マントはボロボロに引き裂かれている。
馬は痩せ細り、乗っている騎士たちも幽霊のように頬がこけている。
まるで、敗残兵のパレードだ。
その先頭に、豪奢な馬車……の残骸のようなものに乗った男がいた。
屋根はなく、車輪も歪んでいる。
男は分厚い毛皮を何枚も重ね着し、ダルマのような格好をしていた。
顔の半分は凍傷で紫色になり、鼻水を垂らしている。
一瞬、誰だか分からなかった。
けれど、その目が私を捉えた瞬間、ギラリと狂気の光を宿したのを見て、理解した。
「ア……アリスぅぅぅ……!」
亡霊のようなしわがれた声。
クロード殿下だ。
「よくご無事で。地獄の底から這い上がってきたようなお姿ですね」
「誰のせいだと……誰のせいでこんな目に遭っていると思っているんだぁぁ!」
彼は馬車の上で叫んだが、声が裏返って咳き込んだ。
あまりに哀れで、怒りよりも同情が湧いてくるレベルだ。
「王都は雪に埋もれた! 父上も母上も、寒さで寝込んでしまった! 民衆は暴徒化し、城の家具を薪にするために略奪している! この世の終わりだ!」
「それは大変ですね。で、何の用ですか?」
私は冷淡に尋ねた。
自業自得だ。
自分たちがライフラインを切ったのだから、寒くなるのは当然の帰結である。
「決まっているだろう! 貴様を連れ戻しに来たのだ! さあ、今すぐこっちへ来い! そして国中の暖炉に火をつけろ!」
「お断りします」
「なっ……!?」
即答すると、彼は信じられないという顔をした。
「断るだと? 貴様、王族の命令が聞けないのか! これは国家反逆罪だぞ!」
「殿下。私はもう、この国の国民ではありません。先日、国外追放されましたので」
「ぐぬっ……!」
痛いところを突かれ、彼は言葉に詰まった。
だがすぐに、歪んだ笑みを浮かべた。
「ならば、力ずくでも連れて行くまでだ! おい、騎士団! やれ!」
彼が号令をかける。
しかし、背後の騎士たちは動かなかった。
彼らは槍を構えることもなく、虚ろな目で私の方を見ていた。
いや、正確には私ではなく、城の中から漂ってくる匂いの方を向いている。
「……いい匂いだ」
「ああ、肉の匂いだ……」
「温かいシチューの匂いがする……」
騎士たちが夢遊病者のように呟き始めた。
三日三晩煮込んだビーフシチューの香りは、城壁を超えて彼らの鼻腔を直撃していたのだ。
極寒と飢餓の中を強行軍してきた彼らにとって、それは麻薬以上の誘惑だった。
「お、おい! 何をしている! 構えろ! 突撃しろ!」
クロード殿下が鞭を振り回すが、騎士たちは反応しない。
団長らしき男が、ふらふらと一歩前に出た。
「アリス様……その匂いは、何を作っておられるのですか……?」
「ビーフシチューです。トロトロに煮込んだお肉と、甘い野菜がたっぷり入っていますよ」
私が答えると、ゴクリと喉を鳴らす音が集団全体から聞こえた。
「……食わせてください」
「え?」
「国のためとか、忠義とか、もうどうでもいいんです……俺たちは、三日間、凍ったパンしか食ってないんです……」
団長がその場に膝をついた。
プライドも何もない。
ただの、空腹な人間としての叫びだった。
後ろの騎士たちも、次々と武器を捨てて座り込んだ。
「お願いだ……一口でいい……」
「温かいものを……」
戦意喪失。
戦う前から勝負は決まっていた。
飯テロの完全勝利である。
「な、情けないぞ貴様ら! 騎士の誇りはないのか!」
クロード殿下が一人で喚いている。
私はため息をつき、レオナルド様を見上げた。
「レオナルド様。彼ら、戦う気はないみたいです」
「ふん。俺のシチューを狙う盗賊であることに変わりはない」
レオナルド様は冷酷だ。
だが、彼の視線は騎士たちではなく、クロード殿下に固定されていた。
「おい、そこのダルマ」
「ダ、ダルマだと!? 僕は王子だ!」
「貴様、まだ懲りていないようだな。アリスを『物』扱いし、俺の城の敷居を汚い足で跨ごうとした罪。万死に値する」
レオナルド様が一歩踏み出す。
ズンッ。
地面が揺れた。
クロード殿下がヒッと息を呑む。
「だが、殺すのは簡単すぎる。貴様には、もっと相応しい罰が必要だ」
「ば、罰だと……?」
「そこで見ていろ。指をくわえてな」
レオナルド様は私に向き直り、ニヤリと笑った。
悪魔的な笑みだ。
「アリス。ここでシチューを振る舞え」
「えっ、ここでですか?」
「ああ。あの愚か者に見せつけてやれ。奴が失った『温かさ』と『幸福』がどんなものかを。そして、奴だけには絶対に食わせるな」
なるほど。
精神攻撃ですね。
物理的に痛めつけるよりも、飢えた人間に目の前で御馳走を見せびらかす方が残酷だ。
さすがは魔王(仮)。
「分かりました。では、鍋を持ってきます!」
私は『収納』を使うふりをして、厨房から鍋を転送した。
ドンッ!
正門前に、巨大なミスリル鍋が鎮座する。
蓋を開ける。
ボワッ……!
白い湯気がキノコ雲のように立ち昇った。
その瞬間、周囲の温度が数度上がったような気がした。
濃厚なデミグラスの香りが爆発的に広がる。
騎士たちの目が、獣のようにギラついた。
「はい、お皿を持って並んでください!」
私が声をかけると、騎士たちは我先にと列を作った。
クロード殿下を置き去りにして。
「お、おい! 貴様ら! 僕を守れ! 僕が先だろ!」
誰も聞いちゃいない。
私は深皿にシチューをたっぷりとよそった。
ゴロッとした大きな肉塊が二つ。
ツヤツヤの人参とマッシュルーム。
そして、ソースの海。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございますぅぅぅ!」
団長が震える手で皿を受け取り、スプーンですくった。
フーフーと息を吹きかけ、口に運ぶ。
パクッ。
彼の動きが止まった。
目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「う、うめぇ……!」
絞り出すような声。
「肉が……噛まなくても溶ける……! 濃厚なソースが、冷えた内臓に染み渡る……!」
彼は皿に顔を突っ込む勢いで貪り始めた。
他の騎士たちも同様だ。
「美味い!」「生き返る!」「母ちゃん!」などと叫びながら、一心不乱に食べている。
その様子を、クロード殿下は馬車の上から呆然と見ていた。
彼の腹が、グゥ〜〜〜と盛大な音を立てた。
限界なのだ。
彼もまた、極限の飢餓状態にある。
「よ、よこせ……僕にもよこせ……」
彼はふらふらと馬車から降りようとして、足がもつれて雪の上に落ちた。
這いつくばってこちらへ来る。
「アリス……頼む……一口……」
私は彼を見下ろし、自分の分のシチューをよそった。
そして、レオナルド様の隣に座り、スプーンですくった肉を彼の口元へ差し出した。
「はい、レオナルド様。あーん」
「……んむ」
レオナルド様が私の手からシチューを食べる。
わざとらしく、ゆっくりと咀嚼し、嚥下する。
「美味い。最高だ。肉の繊維一本一本に味が染みている」
「よかったです。三日間煮込んだ甲斐がありました」
私たちは仲睦まじく、イチャイチャしながらシチューを食べた。
クロード殿下の目の前、わずか数メートルの距離で。
「あ……あ……」
クロード殿下の手が虚空を掴む。
届かない。
物理的な距離ではない。
私と彼の絶望的な立場の差が、そこにはあった。
「どうして……どうして僕は……」
彼は涙を流した。
悔し涙ではない。
ただ、惨めな自分への絶望の涙だ。
かつて捨てた婚約者が、世界一幸せそうに温かい食事をしている。
自分は泥水のような雪を舐めるしかないのに。
「これで分かったか」
レオナルド様が冷たく告げた。
「お前が捨てたのは、ただの女ではない。『未来』そのものだ。二度とここへ来るな。次は魂ごと焼き尽くすぞ」
その言葉と共に、レオナルド様は軽く足を踏み鳴らした。
衝撃波が地面を走り、クロード殿下の体だけを弾き飛ばした。
彼は雪の上を転がり、森の入り口まで吹き飛ばされた。
「ひぃッ……!」
彼は恐怖に顔を引きつらせ、四つん這いで逃げ出した。
騎士たちを置いて。
部下を見捨て、自分だけ助かろうとするその姿に、騎士たちは完全に愛想を尽かしたようだった。
「団長、どうしますか?」
「……知るか、あんな奴。俺たちはここで皿洗いでもして、二杯目を貰うんだ」
騎士団長はシチューの皿を舐めながら即答した。
どうやら、フレイム王国の精鋭騎士団は、今日をもって解散し、魔王城の警備兵(兼雑用係)に転職したようだ。
「アリス、おかわりだ」
「はいはい。お鍋いっぱいありますからね」
私はレオナルド様の皿にシチューを追加した。
雪の降る魔境の入り口で、私たちは温かな鍋を囲んだ。
招かれざる客は去り、代わりに新しい労働力(騎士たち)が手に入った。
今日も魔王城は平和で、ご飯が美味しい。
一方、一人で森へ逃げ込んだクロード殿下が、その後どうなったのか。
野良のゴブリンに追い回されたのか、それとも寒さに凍えて発見されたのか。
それは誰も知らないし、興味もなかった。




