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オメガの武器

 生まれて初めて失恋した週の週末の夜はひどく落ち込んだけれど、週が開ければ仕事が始まる。日々の忙しさに気が紛れて、意外に失恋の事実を受け入れられるようになった。

 少し吹っ切れたかもしれない。そう思ったタイミングで、僕は花梨に連絡を取った。恋愛初心者で友達の少ない僕は、燐太郎さんと付き合う前から彼女に相談をしていたのだ。別れも報告するのが筋というものだろう、と勝手に決めてメッセージで簡単に《燐太郎さんと別れちゃった》と送る。短く事情の説明も文面に入れた。

 そのうち慰めのメッセージが返ってくるだろうと思っていたが、花梨の反応は違った。予想よりかなり速く――メッセージを送って三十分もしないうちに電話が掛かってきたのだ。

『――別れたって、どういうことなの?』

 挨拶さえなく、花梨は開口一番にそう尋ねた。

「どうって、文字通りだよ。あんまり連絡が取れなくなって、会いに行ったら『君への興味を失った』って」

『なにそれ……さいっっ、てい……!』

「怒ってくれてありがと。でも、僕も悪かったのかも。恋愛初心者で、慣れなくて……まだキスくらいが精一杯だったから、恋愛経験のある人には物足りなかったんだと思う」

『そうじゃないでしょ。仮にそれが問題だとしても、それなら鋭利君に相談して二人で改善を試みるべきでしょ? いきなり興味がなくなったーなんて、誠実じゃない!』

「よく分かんないけど、こういうのが大人の恋愛なんじゃない? それに、気持ちが醒めてしまったなら、離れていくのを止めるのは無理なんだと思うよ、たぶん。僕には分かんないけど」

『なんでそんなこと言うのよ~。鋭利君は私の友達なのよ。鋭利君を捨てるなんて、信じられない~~!』

 ぐすっと電話口で花梨が鼻をすする音が聞こえてくる。僕のために泣いてくれているんだ。そう気づいたら、不思議と気持ちが凪いでいった。

「僕は大丈夫だよ。本当に。花梨がそう言ってくれるだけで、救われた」

 花梨はしばらくすすり泣いていたが、やがて声を改めて燐太郎さんのことで話があると言った。いったいどういうことだろう。不思議に思いながらも僕は花梨と一週間後の日曜日に会うことにする。

 その前日の土曜日は、燐太郎さんの作詞作曲講座の日だった。彼と顔を合わせるのはかなり気まずい。いっそ講座を辞めてしまいたい気もするが、今はちょうど作曲が楽しくなってきたところだった。できれば作詞作曲を続けていきたいが、まだ独学するには不安が残る。それに、振られたからといっていきなり講座を辞めるのも、なんだか僕がすごく失恋を気にしているみたいで癪だ。

 迷いに迷ったものの、僕は作詞作曲講座に出席することにした。虚勢でしかないが、その下らないプライドがどうにも捨てられないのだから仕方ない。僕の悪いところだ。

 ところが、土曜日の朝、音楽教室の事務局から僕のスマホに電話が掛かってきた。こんなことは初めてで、いったい何事かと不審に思いながら電話に出る。

 電話の相手は音楽教室の事務局長は佐々木と名乗った。局長という肩書きから想像する年齢よりずっと若そうな声と話し方に、僕は内心戸惑いを覚える。

「あの……作曲講座の事務局の局長さんが、僕に何のご用でしょうか?」

『ああ、驚きますよね、なんで事務局の局長から電話が掛かってくるんだろうって? 実は水城さんが受講なさっている作詞作曲講座が、講座終了することになりまして』

「えっ? 講座終了?」

『吉井燐太郎先生が、事情により講座への出席が難しくなりまして。すぐには作詞作曲を教えられる講師の方が見つからず、いったん講座終了して受講生の方にすでにいただいている受講料の一部は返金をすることになりました』

「……。吉井先生に何かあったんですか? 病気や事故で動けないとか……」

『いえ、そうではないようです。ただ急に断ることのできない別の仕事が入ったから、と。あの人は元々、けっこう有名な作曲家だったので、今でもあの人に楽曲制作を依頼したい人は多いでしょうし』

 その言葉に、僕は息を呑んだ。

 佐々木さんの情報を合わせると、燐太郎さんはここ数週間の間に親しい人間関係や職場の関係を断ち切ってしまったことになる。そういう人もいるだろうが、燐太郎さんは筋を通すタイプだ。職場を辞めるならば、きちんと説明して、手続きを済ませて退職するだろう。ここひと月ほどの彼の行動はどうにも奇妙だ。聞けば聞くほど燐太郎さんの行動に奇妙な点があり、彼が何かに巻き込まれているのではないかと心配だった。

 ――心配? 本当に? 僕はただあの人に執着する理由がほしいだけじゃないのか?

 頭の片隅で皮肉めいた自分の声が聞こえてくる。僕は頭を振ってその声を追い払った。佐々木さんに会って、少し燐太郎さんの話をしたら、それで終わりだ。その後は、彼への気持ちは思い出にしてしまえばいい、と自分に言い聞かせた。

 その翌日、僕は駅から少し離れたカフェで、花梨と会った。童話モチーフの内装でパフェがおいしいと評判のその店は、僕が選んだ場所だった。花梨は店を見て、自分たちにはかわいらしすぎるのではと苦笑したけれど、構わずに店に入った。高校生で家を出た花梨が苦労したのは知っているから、会うときは何となくおいしいものや彼女の喜びそうなものを食べさせたいなと考えてしまうのだった。

 入るのをためらったものの、二人して豪華なパフェを注文してから、花梨が口を開いた。

「私、思い出したのよ。吉井燐太郎って名前……作曲家でネットシンガーの『クロシェット』さんの本名じゃないかって。知ってる?」

「あ、動画サイトでたまたま見たことあるよ。燐太郎さんに似ていたから、尋ねてみたけれど、彼は『違う』と答えたけど……」

「恋人の鋭利君には知られたくなかったのかも。あのね、かつて、クロシェットさんは、同じネットシンガーのリョウスケと『運命の番』だと公言していたんだ。二人してね」

 運命の番、という言葉に僕は目を見開いた。燐太郎さんはオメガだから、おそらくリョウスケという人はアルファの副性を持つのだろう。運命の番という概念は昔からあるけれど、科学的には証明されていない。アルファの僕もフィクションで描かれるほど、誰かに強く惹かれたことはないから、運命で結ばれた番なんてものが本当にあるのかは分からない。

 けれど、皆、運命というものに憧れを持っている。二人が運命の番なのだと言えば、彼らのリスナーは喜んでそれを受け入れただろう。

「二人が運命の番だとしたら、燐太郎さんは僕のことをもてあそんでいたってこと?」

「分からない。二人が本当に運命の番なのかも分からないし……。アイドル時代に聞いた噂だと、クロシェットさんはスランプで曲を書けなくなって、活動を辞めるときにリョウスケとも別れたらしいの。私、他人の噂に興味はない方だけど、それだけはよく覚えてる」

「どうして? 何か印象的なことがあったとか?」

「スランプの理由を聞いてね、ああ……って思ったの。リョウスケと運命の番だと――つまり自分がオメガだと公表したことで作曲やシンガーとしての実力をオメガ性由来の才能とか、オメガの武器とか言われたのがきっかけだったらしくて。私もきっと自分の努力をそんな風に言われたら病むなって思ったから」

 アルファが統率力や頭の良さ、見目のよさなどを期待されるように、オメガも歌などアートの才能に恵まれたり、人を惹きつけたりする力を持つと言われている。もちろん、それが旧式の固定観念に過ぎないのは、アルファとしてのリーダーシップやスマートさのない僕が証明している。おおむね、多くのアルファやオメガはベータと同じように普通に生きているのだ。

 燐太郎さんの作曲や作詞の能力や歌が、彼自身の努力によるものだということは承知している。自分の奮闘をなかったことにされ、努力せず生まれながらに手に入れたものだと言われたのだから、彼はひどく傷ついただろう。

「……どうして、そんな話を僕に? 僕はもう燐太郎さんからフられたのに」

「あのね、作曲家としてのクロシェットが、先日、活動を再開したようなの。リョウスケと共同での活動もね。でも、あまりにも急すぎるし、別れるにしても鋭利君に言わなかったのが妙だなって。もしかしたら、彼、あなたを自分の恋人としてネットの世界にさらしたくなかったのかも。人気商売は恋愛や結婚の話題って難しいし、下手したら相手も傷つけることになるから」

 その言葉に僕は苦しくなった。そうだったら、嬉しいかもしれない。だけど、そんなのは僕の幻想だ。燐太郎さんが僕のために身を引いてくれたなんて考えるのは、自分の欠点に目を瞑って別れを切り出された理由から逃げようとする卑怯な行為でしかない。

「花梨、嬉しいけど、もういいよ。終わったことだから」

 そう言った僕を花梨は悲し気な目で見ていた。

 花梨と別れて家に帰ったその日の夜。僕はスマホで動画サイトで久しぶりに『クロシェット』のアカウントを閲覧した。話に聞いたとおり、新着動画がアップロードされている。投稿の日付は一週間前。二年ぶりの新着動画は十分間ほどの短いものだった。ご報告と題されたそれを再生してみれば、長髪のウィッグにロングスカートのクロシェットが、いつか共演していたリョウスケとともに映し出されていた。動画の中では、クロシェットが淡々と話をしている。

 動画のタイトルである『ご報告』というのは、作曲家として、シンガーとしての活動を再開するというものだった。それでもファンらしき視聴者からのコメントが流れていく。

 コメントの中には『待ってました』『復帰おめでとう』という温かなものもあれば、『引退したんじゃないの?』『またオメガの武器で人気になろうったって、同じ手は使えないよ』『表舞台から逃げた癖に』といった手厳しいものもあった。

 さまざまなコメントが流れる画面を見続ける勇気はなくて、僕はそっと動画サイトを閉じた。

 この動画はライブ配信をアーカイブ化したものだ。ということは、配信のときクロシェット――燐太郎さんはコメントを見ていたのだろうか。それでも表情を変えずに話し続けている? いや、たとえリアルタイムでコメントを確認していないとしても、いいコメントばかりでないことは想定していただろう。ネットシンガーも配信者もしたことはない僕だけれど、SNSや動画サイトを見ていたらネットでの活動が賞賛と批判や非難と隣り合わせなのは理解している。おそらく、実際に活動の経験がある人なら僕以上にその辺は承知しているはずだ。

 それでも復帰しようとしたのだから、燐太郎さんは相当の覚悟をしている。僕を突き放したのも、佐々木さんの言うとおり巻き込まないためなのかもしれない。

 ――やっぱり燐太郎さんは格好いいな。

 燐太郎さんは穏やかな生活を捨てて、作曲家としての活動に復帰すると決めたのだ。自分を切り捨てて。恨む気持ちも未練も少しあるけれど、もはや憧れに似た遠い感情で彼のことを想った。




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