急転
燐太郎さんと恋人同士になって、幸せな日々を過ごしていたそんなある日のことだ。僕は何げなく動画配信サイトを見ていた。作曲をするためには、自分の好みの曲だけではなくて色んな音楽を聴いて勉強する必要がある。動画配信サイトはさまざまなジャンルの音楽に触れるのに最適で、重宝するようになっていた。
ふらふら動画を観て時間を浪費してしまって、そろそろ切り上げようかというときだった。何のアルゴリズムの気まぐれか、たまたま浮上してきたおすすめ動画が目に留まる。それはライブの映像のようだった。
ステージ上に立つ二人の人物。一人は細身のおしゃれなスーツをまとった若い男だ。整った顔立ちで、細面ながらも意思の強そうな目元をしている。もう一人はロングスカートをはいているから、女性だろうか。優しそうな柔和な顔立ちに、華やかな赤やピンクを基調としたメイク。長い綺麗な黒髪が背中に流れている。
二人は背中合わせになって歌いはじめた。その歌を聴いた途端、僕は「あれ?」と首を傾げる。映像は男女が歌っているように見えるのに、流れてくる歌声は明らかに男性二人なのだ。
それも、映像に映る二人の口の動きからして、高音を歌っているのはスーツの男性のようなのだ。そうして、ロングスカートの人物が低音のパートで声を出している。その声音に、なぜかひどく惹かれた。ロングスカートの男性の低音にじっと耳を傾けてしまう。
気づけば動画が終わっていて、そんな自分に驚いてしまう。けれど、あの女装の彼の歌声が忘れられない。動画を確認すると、投稿日は五年前の日付になっていた。投稿文にはその動画が当時から三ヶ月前のライブのものであるという説明が付けられている。
クレジットには、リョウスケと『クロシェット』と紹介されていた。陽向というのはスーツ姿の男性の方で、投稿者自身のことらしい。だとすると、クロシェットというのが女装した彼のハンドルネームなのだろう。投稿文のリンクからクロシェットのアカウントに飛ぶと、そちらには歌の動画は存在しなかった。どちらかというと、彼オリジナルのボーカロイド曲やピアノ曲が多い。おまけに最新の動画の投稿日は約四年前になっている。現在は活動していないのかもしれなかった。
「『クロシェット』か……。綺麗な声。もっと聴いてみたいな……」
自分がなぜこれほど、彼の歌に惹かれるのか自分でもよく分からない。ただ、何かよく分からない引力のようなものがあった。僕はこの人物を知りたい、と――。
そうして動画投稿サイト上の動画を検索するうちに、いくつかクロシェットの歌う動画を発見することができた。彼は遠藤陽向と親しかったようで、何度か陽向とともにライブに出ていたようなのだ。そのときの動画を、陽向自身がいくつかアップしていた。さらにファンらしき人物が非公式にライブの場で撮影した断片的な映像も発見した。
クロシェットは映像上に映し出されるとき、いつも女装している。けれど、声を高くしたり言葉遣いを女性的に変えたりはしていないため、女装は素顔を隠す手段なのかもしれなかった。彼自身はさっぱりとした落ち着いた性格みたいだけれど、ときどき言動に愛嬌が感じられる。そんな雰囲気に僕は覚えがあった。
――そうか、クロシェットはどことなく燐太郎さんに似ているんだ。
そう気づけば、声や面差しにも燐太郎さんが見え隠れしはじめる。最初は他人の空似だろうと考えていた僕だけれど、見ればみるほどクロシェットは燐太郎さんに似ているのだった。
気になった僕は、翌々週の日曜日――ちょうどデートの約束をしていたその日に燐太郎さんに尋ねてみることにした。もしかすると彼には『別人だよ。鋭利君にはこの人が俺のように見えるの?』なんて言われてしまうかもしれない。もし燐太郎さんが拗ねたら、『あなたが一番ですよ』と言ってご機嫌を取らないと。
そんな風に思っていたけれど。
デートの日の夜、二人で入った居酒屋で雑談のついでに見せた動画に、燐太郎さんは顔を強ばらせて動きを止めた。
「鋭利君……。どうしてこの動画を見つけたの? 誰かに何か言われた?」
「え? 偶然、おすすめに出てきただけですけど……。誰かに何かって、どういうことですか?」
「――ううん。何でもない」
燐太郎さんは、明らかに何か抱えているような表情で無理に微笑んでみせた。しかも『何でもない』という割には動画に登場したクロシェットが彼だとも、彼でないとも教えてくれない。僕は何か彼の嫌がることでもしてしまったのだろうか。二人は互いに困惑して、ギクシャクした状態のまま居酒屋の前で別れた。
――ギクシャクしたままじゃダメだ。
僕はそう思って、次会うときに燐太郎さんと話し合おうと心に決めた。けれど。
その直後、燐太郎さんと連絡が取れなくなってしまった。
最初はかすかな違和感だった。何気ない雑談のメッセージを送ったところ、何の反応もなかったのだ。それだけなら、忙しいのだろうと気にすることもない。けれど、以前からのデートの約束の数日前に、いざ待ち合わせの時間と場所を決めようと連絡しても返信が来なかった。
――もしかして、燐太郎さんに嫌われた?
僕は燐太郎さんの嫌がるようなことをしてしまったのだろうか。そうだとしても、彼はちゃんとした大人だ。理由も言わず、いきなり連絡を絶つような人ではない。たとえ僕が嫌になったとしても、別れたくなったとしても、きちんと別れを告げて去るだろう。
そう確信できるくらいには、燐太郎さんを信頼している。むしろ、連絡が取れないのは彼の身に何かあった可能性が高いのではないか。倒れて入院したとか、事件や事故に巻き込まれたとか。
ひとまず、燐太郎さんの安否を確認した方がいい。そう考えて、僕は仕事帰りに何度か立ち寄ったことのある燐太郎さんの自宅に立ち寄った。
金曜日の二十一時――。
燐太郎さんは僕が通っていた作曲講座の他にピアノ教室の講師もしている。以前、教えてもらった話では金曜日のピアノ教室は最終レッスンが十九時まで。それ以降は帰宅して、自宅で過ごすことが多いということだった。
マンションの外側から見れば、燐太郎さんの部屋には明かりが灯っている。
――燐太郎さん、いるんだ……。
若干、怯みながらも僕はスマホを取り出してメッセージを送った。『今から会いにいってもいいですか?』あまりに急な訪問は普通なら失礼にあたるだろう。だが、今回に関しては燐太郎さんの安否を確かめるという目的がある。仕方ないことだと割り切って、僕はマンションのロビーに入っていった。
ロビーで燐太郎さんの部屋番号を押して、呼び出しを試みる。けれど、どれだけ待っても誰もインターホンに出ようとはしない。外から見ると部屋に明かりが点いているのに。
――おかしい……。何かおかしい。
いっそ心配になって、僕はインターホンの前でスマホを取り出した。燐太郎さんにメッセージを送る。
《今、あなたの家のインターホンを鳴らしたのですが、誰も出ません。外から見ると部屋に明かりが点いているようなのに。不審な状況なので、警察に相談したいと思っています。心配しすぎならあなたに迷惑を掛けることになりますが……申し訳ありません》
途端にアプリの画面上で送ったばかりのメッセージが既読になる。数秒後、インターホンがつながった。
『――……。……鋭利君……?』
久しぶりの燐太郎さんの声。僕ははっとして顔を上げる。ぐるりと辺りを見回して、天井付近に取り付けられた監視カメラを発見した。おそらく燐太郎さんはカメラ越しにこの場の様子を見ていると思われる。だから、ここにいるのは自分なのだと示したかった。
「燐太郎さん、連絡が取れなくなったから、心配で来たんです。会って話すことはできますか?」
『……ごめん。それは無理なんだ』
「無理というのは、ご多忙だからですか?」
ああ、ダメだ。こんな風に詰め寄ったら嫌われてしまうかもしれない。それに、もし燐太郎さんが僕を好きじゃなくなったから連絡を絶ったというのなら、彼は確信をはっきり告げずに済ませるつもりだったことになる。僕が問いつめれば、曖昧にしようとしたことまで言わねばならなくなるだろう……。
このまま続ければ自分が傷つくかもしれないのに、言葉を止めることができない。僕は自分を殴りたいような心地で、それでも言い募る。
「ご多忙だというなら、いつまで忙しいですか? 別の機会なら顔を見て話せますか?」
『別の機会……それも難しいんだ』
「それっておかしいと思います。ずっと少しも話す時間がないなんて、あり得ない。燐太郎さん、もしかして何か困ったことになっていませんか? 僕が助けられることはありませんか?」
『っ……。違う。そうじゃないよ、鋭利君――いや、水城さん』
燐太郎さんの僕への呼びかけが変化する。明確に距離を置こうとする態度を、はっきりと感じた。ああ、やっぱり燐太郎さんは僕から離れたいのか。予感のようにそう悟って、けれど、核心を告げられるのを刑の執行の瞬間を待つような心地で会話を続ける。
「それでは、燐太郎さんは僕と別れたくて連絡を絶ったということでしょうか?」
『そうだ。……俺は水城さん、あなたへの興味を失ったんだ。だからもう会って話すつもりはない』
「分かりました」
振られたわりに、心は意外にスッキリしていた。後で泣いてしまうかもしれないが、燐太郎さんと連絡が取れなくて戸惑っていた時期よりはずっといい。
僕は監視カメラに向かって、にっこり笑ってみせた。
「あなたが元気なら、それでいいです。病気や事故で困っているのじゃないなら、ひと安心です。――今までありがとうございました」
深々と頭を下げてから、僕は身を翻して燐太郎さんのマンションを去った。