誘い
燐太郎さんに連れられて、僕は彼の部屋に向かった。初めてお邪魔するお宅は、中に入るとリビングに電子ピアノが置いてある。それを見て僕は目を丸くした。
「ピアノだ……」
「作詞作曲講座は副業で、俺の本業はピアノの先生だから」
「じゃあ、普段から弾いてるんですね。すごい」
僕はピアノに近づいた。電源を入れなければ、蓋を開けてもいいよと言われる。お言葉に甘えて僕は白と黒で構成された鍵盤をまじまじと見つめた。
ピアノの鍵盤を間近に目にするのは、高校以来だろうか。花梨がときどき放課後の音楽室でピアノを弾いていた。器用だったのだ。流行歌や僕の好きな曲、彼女の好みの歌……気の赴くままに彼女はさまざまな曲を奏でたものだ。
「鋭利君」
ふと呼ばれて、僕は振り返った。と、燐太郎さんがコップに入った水を手渡してくる。酔い醒ましということらしい。僕はお礼とともに水を受け取り、グラスをあおった。
「ピアノ、弾いたことあるの?」
「いいえ。……学生のとき、友達が弾くのをよく見てたから、懐かしくなって」
「お、意外に音楽が好きになってきた? うちのビアノ教室の生徒さんで六十代から始めた人がいるけど、上達したよ? 鋭利君が習いたいなら、ぜひうちの教室へどうぞ」
冗談めかした営業の言葉の後に、燐太郎さんはシャワーを浴びるよう勧めてくれた。有り難くお礼を言って、僕は浴室へ向かう。順にシャワーを浴びて、その日は燐太郎さんの室内着と新品の下着を借りた。
燐太郎さんが出てくるのを待ちながら、僕はソファでスマホを触る。このときには酔いはけっこう醒めていたので、電子書籍アプリを開いた。僕はその日の気分に合わせて複数の本を同時進行するタイプだ。今日はもうすぐ眠ることになるだろうからと、古典のホラー短編集を開く。
その日、たまたま読んだものがオメガ男性がアルファ男性から捨てられる話だった。胎内には子がいる状態で番契約を解除されたため、オメガ男性は世を儚んで自殺をしたが――という内容だ。番契約というのは、アルファがオメガのうなじを噛むことで成立するパートナー契約のことだ。番には法的婚姻に準じる効力があり、後で書類を出せばそのまま法律婚が成立する。また、番が成立するとオメガのフェロモンは番相手のアルファだけを誘因するように変化する、ということだった。
現代はともかく、昭和くらいまでは皆婚社会だったので、シングルマザー以上に子がいる状態で捨てられたオメガは大変だったという。肉体的に男性でありながらも子を産んだということで、奇異の目にさらされることが多くなるからだ。そんなのは番がいるオメガも同じじゃないかと思うけれど、そうじゃない。アルファの生まれる家というのは、昭和の頃までは地元の名士や有力者である場合が多かったからだ。アルファの『夫』がいれば、オメガ男性は社会的な庇護が得られていたらようだ。
もっとも、現代はそうではない。良くも悪くも地域の共同体的な社会は解体されてきているというのだろうか。今ではアルファとして生まれたからといって、実家が裕福だったり名士だったりするわけではない。ただ、アルファは能力が高い――というか、能力が高く在ることを求められるから、名士的な存在になりやすいのは理解できる。
実際、僕の家族はアルファである父と兄の有利が医師で、妹の藍梨は海外の大学院へ留学中だ。母はベータなので父の家が結婚に反対したそうだが、それに負けないくらい勝ち気でバイタリティのある性格をしている。吉井家の中では、ぱっとしない僕だけが異端だ。僕がオメガになりたいと願うのは、そんな家庭環境のせいでもあるのかもしれない。アルファであるということは、期待を背負わされつづけるということだから。
――やっぱり酔いが残っているみたいだ。集中できない……。
どうしても散漫になる集中力に、僕は諦めて電子書籍アプリを閉じた。そのとき、ちょうど燐太郎さんが浴室から戻ってくる。普段と違って髪をセットしていないからか、なんだか彼が幼く見えた。それにほんのり花みたいないい匂いが香る。シャンプーもボディソープも同じものを借りたはずなのに、自分からはそんな匂いはしない。ということは、燐太郎さんのシャンプー類が燐太郎さん自身の匂いと反応してそんな風になるんだろうか。
不思議だなと感心していると、彼はソファの僕の隣に腰を下ろした。
「彼女とかに連絡してたの?」
僕のスマホを指さして悪戯っぽく尋ねる。
「彼女はいません。ていうか、恋人いたことないって前にも燐太郎さんに言ったでしょ?」
「ああ、そういえば。そのときもオメガになりたいって言ってたっけ。――オメガだっていろいろ大変だと思うけどな。発情期とか面倒だし、発情期のせいでエロい奴みたいに見られてセクハラされるらしいよ? 男でもオメガ特有のホルモン変化で苦しむ人もいるようだし」
「そうですね。オメガになりたいなんて、オメガの人に対して失礼だって分かっています」
それでも考えてしまうのだ。僕が今の僕じゃなければ。違う人生を生きていたら。
「『生まれ直すには痛みが要る』」
「え?」
「外国のことわざだよ。隣の家の芝生は青く見えるけど、実際に生きてみたら大変だっていう」
燐太郎さんは歌うように言って僕の目をのぞき込んだ。そこでふと、互いの顔がかなり近い距離にあることに気づく。あとほんの少し近づけば、キスができてしまいそうだった。燐太郎さんのいい匂いが強く香って、まるで酩酊したような心地になってくる。
なぜか頬がとても熱い。
「あの……近すぎませんか……?」
「そうかな」
いや、そうかなも何も近すぎるだろう。だって、燐太郎さんの吐息を顔に感じるくらいなのだ。僕が身を引こうとすると、彼は腕を掴んで引き留めた。振り払えるくらいの弱い力。だけど、僕は振り払いたくなくて困り果てる。
「えぇと……そろそろ僕ら、眠った方がいいのでは……」
「ねぇ、キスしてもいい?」
僕の発言を無視して、燐太郎さんが尋ねる。この人、見た目によらず他人の話を聞いてないな。
「僕とキスするんですか? 他の人と間違えてません? それか酔いすぎですよ」
「人違いじゃありません。酔ってはいるけど、自分の言ってる意味は理解してるし」
「キスって、恋愛的に好きな相手とするのが望ましいらしいですよ?」
「そうらしいね。――で、君はどう? 俺とキスするのは嫌?」
「嫌じゃないですが」思わずそう答えてから僕は目を丸くした。「……って嫌じゃないのか、僕。えっ? あれ? そう……なのかも……?」
一人で戸惑っている間に燐太郎さんが「はいはい。いいから顔上げて、目閉じて」と指示を出す。混乱しながら言われたとおりにすると、唇に柔らかな感触が触れた。
やがてその感触が離れていく。目を開けると、間近で燐太郎さんが微笑んでみせた。かわいい。思わずその笑みに見惚れてしまう。
「どうだった? 嫌じゃないでしょ?」
「なんで分かるんですか?」
「俺のことが好きって顔に書いてあるから」
「いやいやいや、僕、二十八ですよ? いくら何でもそんな言葉で誤魔化されませんよ。まぁ、燐太郎さんのこと、好きかもとは思いますけど……」
「顔に書いてあるは言い過ぎでも、目を見れば嫌がってないのは分かるよ」
そう言いながら燐太郎さんは再び顔を近づけてきた。あまりの近さに目を瞑ったら、もう一度、唇が重なる。今度は押しつけるだけじゃなくて、下唇を柔らかく食まれて背筋がゾクゾクした。ゼロ距離の彼からはいっそう甘い匂いが香って、頭もぼんやりしてくる。
そうしているうちに、僕はソファに押し倒されてしまった。あれ、これって危ないのでは。ぼんやりした頭の片隅でそう気づくけれど、すぐに思考が拡散してしまうので抵抗ができない。
「鋭利君、君のことを抱いてもいい? オメガになりたいって言うくらいだから、いいよね?」
正直、よくない。燐太郎さんが嫌とかではなく、恋人になる手順を何も踏んでないのが問題だ。そう言いたいのに頭にもやが掛かって、上手く言葉が紡げない。それでも僕は首を横に振った。
「だめ、です」
「うーん……。じゃあ、今日は俺が抱かれる側でもいいよ。いずれは抱かせてほしいけど、それは別の機会でもいい」
「……なんで、そこまでして僕としたいんですか? 童貞だし、恋愛経験ないし……つまらない奴ですよ、僕なんて。いちおう、これでもバース性はアルファですけど、アルファらしいところもない」
僕は燐太郎さんの背中に腕を回す。ルームウェアごしの身体は熱くて、彼の興奮が伝わってくる。だからだろうか、逆に僕は冷静になることができた。燐太郎さんの背中をあやすようにとんとんと軽く叩く。
「今日は寝ましょ。酔ってるんですよ、僕たち二人とも。一回、寝て冷静になってからちゃんと話しましょ」
そうしていると、燐太郎さんの身体から力が抜けた。僕に全体重が掛かる形になって苦しいけれど、まぁ、そこは持ちつ持たれつということで堪えて抱きしめる。
と、燐太郎さんがうめくような声を発した。
「……ごめん、鋭利君……。急にめまいと吐き気と頭痛が来た。気持ち悪い……ぐるぐるする……」
「えっ? 大丈夫ですか?」
燐太郎さんは僕より素面に見えたけれど、酔いが悪い回り方をしたのだろう。シャワーを浴びたタイミングで、全身にアルコールが回ってしまったとか。僕は苦労しながら彼の下から抜け出した。どうやら立ち上がってベッドへ行く元気はなさそうだ。
僕はソファで動けなくなった彼を寝かせてから、寝室らしき部屋のドアを開けた。掛け布団を拝借して、燐太郎さんに掛ける。ベッドの足下に予備らしき毛布があったので、僕はそれを借りてソファの側に座り込んだ。あまり眠れなさそうだけれど、しばらく燐太郎さんの様子を看る必要があるからちょうどいい。




