新しい友達
僕が作詞作曲講座に入ってから半年ほどが過ぎた。
他の生徒さんとも親しく話すようになって、なかなか楽しい。僕の仕事は内勤なため、どうしても接することのできる相手は職場の男女が中心だった。でも、作詞作曲講座には高齢のご婦人や定年後の男性、子どもなどさまざまな年齢層の人がいるからだ。同じ教室で生徒として一緒に授業を受けているだけでも、彼らの立ち居振る舞いやちょっとした世間話から、見えてくるそれぞれの生活が興味深かった。
若い男性というのは、これまでの作詞作曲講座にはいない種類の人間だったけれど、皆、温かく受け入れてくれた。そればかりか、僕はどうやら講師である吉井さんのお気に入りとして認識されてしまったらしい。教室の後に他の生徒さんと雑談していると、横を通りかかった女子高校生――日菜ちゃんに「エーリくん、せんせー待ってるよ」と言われるようになった。彼女は講義の後、毎回、飲みに行く僕らのパターンを理解しているのだ。
「ありがと、日菜ちゃん」
「どういたしまして。年の近い男の生徒さんが来て、せんせー嬉しそうだもん」
それって、公私混同にならないのかな。まぁ、中学校や高校と違って内申書を付けるわけでもないから、べつに不平等にはならないだろう。勝手に自分で結論を出して、いつもどおり教室の前方――ホワイトボードの前で待つ吉井さんの元に向かう。
「先生、お疲れさまです」
僕の挨拶に吉井さんはふわっと微笑んだ。別に女性的な顔立ちでもないのだけれど、まるで花が綻ぶような笑い方だと思う。見ていて好ましい、というのだろうか。
「じゃあ、行きましょうか、水城さん。今回はどの店にします? 俺、久しぶりに焼き肉がいいなぁ」
「お、いいですね。僕も焼き肉の気分です」
他愛ない話をしながら、僕らは教室を出てロビーへと向かう。吉井さんは受付に寄り、事務の人に授業の終わりの報告と出席簿の提出を済ませた。講師は授業終わりに色々と事務作業があるのかと思いきや、意外とそうではないらしい。むしろ、事務作業や手続きの類は授業の前にあるようのだと教えてもらったのは、講座の受講を始めてわりとすぐの頃だ。
吉井さんが受付から戻ってくると、僕らは連れだって建物を出た。講座は駅前のビルで開かれており、周囲は繁華街なので近くに夕飯を食べられる店はたくさんある。
僕らは予定どおり、近くの焼き肉屋に入った。せっかくの焼き肉ということで、とりあえずビールを頼んでささやかに乾杯する。
「お疲れさまです、先生」
そう言うと、彼はちょっと唇を尖らせてみせる。
「教室の外では敬語を止めるって、前、約束した。先生っていうのも」
「しました――したけど……あなたは年上だから」
「年上って言っても二歳上なだけだよ?」
「燐太郎さんは年上の感覚が麻痺してるんですよ。教室の年齢層が広いから」
「そうそう。年下は高校生や小学生だしね」
「生徒さんがそれだけ幅広い年齢層でも、皆、燐太郎さんの授業を楽しんでるんだから、いい先生だと思うし……いい作曲家だといますよ」
吉井さん――燐太郎さんの作詞作曲講座の授業は作曲用ソフトの使い方やメロディの作り方、作詞の仕方などを扱っている。ときには生徒さんが自ら作詞作曲した音楽を、添削したりすることもあった。
「鋭利君はどう? 講座は楽しい? 音楽、好きになってきた?」燐太郎さんが尋ねる。
「楽しいですよ」僕は答える。それは真実だった。「ゲームや読書もアニメを観るのも楽しいけれど、自分が何か作ってないのは、これでいいのかなぁっていう不安があって。だから、下手にせよ、曲を作っているのは何というか……落ち着きます」
「そっか。でも、まだ、音楽を愛してるってところまでは惚れてない気がするなぁ。もっと好きになってもらわないと」
燐太郎さんは楽しそうに笑って、なぜか僕の頭を撫でた。その行動に、なぜか少しだけ鼓動が速くなる。それからすぐに自分の反応が予想外で、僕は何だか居たたまれなくなった。
出会ったときから、燐太郎さんのことは好ましいと思っていた。友達になれたらいいな、と。幸いにして第一印象に好感を抱いたのは僕だけではなかったようで、燐太郎さんも――おそらく教室で唯一の同年代として――親しく接してくれている。お互いにとって、お互いはごく親しい友人になりつつあるのではないかと思う。
そんな中で、ふとした瞬間に燐太郎さんにドキドキしてしまうことがあるのは、おそらく僕が根暗で人付き合いが不得手だからだろう。今まで上手に他人と距離を縮めることができなかった。だから、たまたまそれがスムーズにいくと、あたかも恋をしているかのように感情が誤作動してしまうのかもしれない。そうだとしたら、パズルみたいでなんだかちょっと面白いかも。
「ねぇ、なんか楽しそうな顔してる。さっきの会話で面白いことでもあった?」
「え? 気のせいでは?」
「そーかなぁ。目が笑ってるけど」
燐太郎さんが僕の頬をやんわりと摘んで、うにっと軽く引っ張る。なんだか彼はいつもより距離が近くて、酔っているみたいだった。もちろん、箸が転げても面白くなってきた僕も、酔っぱらいなのだろうけど。
そうして珍しく二人して飲み過ぎたようで、店を出る頃には僕ら二人してすっかり出来上がってしまっていた。会計を済ませて外へ出ると、僕はふらふらと駅に向かおうとする。燐太郎さんがそれに気づいて、「危ないよ」と言った。
「そんな状態で二駅、電車に乗れるの? どっかで事故に遭いそう……」
「大丈夫ですよ。こんなに酔ったことないけど」
「足下、ふらついてるって。よかったらうちで休んでいく?」
「申し訳ないから」
「だけど、ふらつくまで飲んだことないんだろ? 帰る途中で事故に遭ったらどうするの」
俺が心配だから、休んでいって。そう説得されて呼び止めたタクシーに乗せられる。燐太郎さんが運転手に行き先を告げるのを聞きながら、この人の声は地名さえ歌みたいに耳に心地いいんだな、なんて思った。
――そういえば、タクシーに乗るなら家に帰ればいいじゃないか。燐太郎さんが降りた後で、うちに行ってもらうように頼めばいいのでは?
夢うつつにそう思いついたとき、燐太郎さんに肩を叩かれた。
「鋭利君、降りるよ」
「……え? もう? 精算は?」
あたふたと戸惑う僕の手を、燐太郎さんがやんわりと僕の手を引く。「精算は終わってる」そう答えてから、彼は運転手に向けてお礼を言った。僕もつられて「ありがとうございました」と会釈をしてからタクシーを降りる。そのままドアが閉まって、タクシーは滑らかに走り出した。
これで僕は燐太郎さんの家にお邪魔するしかない。
「あの……本当に家に行っていいんですか……?」
ダメ押しのようにためらいがちに尋ねると、彼は肩を震わせて笑った。
「そんなに緊張しなくても。取って食いやしないよ」
そういうことではない。僕はどちらかと言えば迷惑にならないかと心配しているのだ。けれど、これ以上の押し問答は彼を困らせるだけだろう、と考えて口を閉じた。