教室
――三日後。
土曜日のその日、僕は作詞作曲講座の教室にいた。問い合わせたところ、講座の見学ができるというので申し込みをしたのだ。
教室は自宅から二駅ほど離れた駅の前のビルにある。近くはないが、さほど遠くもないという微妙な距離だ。教室が始まるのは夕方十七時から。講座の事務員の方から席に座っていていいと言われていたので、いちばん後ろの隅の席で講座の開始を待つ。
と、見覚えのある人物が入ってきた。公園の桜の前で僕を講座に勧誘した彼だ。
「こんにちは。見学に来てくれたんですね」
「はい。今日はよろしくお願いします。……吉井先生」
作詞作曲講座の講師は『吉井燐太郎』という名だと事務局から紹介されていた。その名を口にすると、彼はわずかに目を見開いてからすぐに微笑む。
「緊張しなくても、ここの教室は気楽な教室だから、大丈夫ですよ。みんな優しいし。ゆっくり見て行ってください。音楽は、これまであんまりしてこなかったんですよね?」
「えぇ、学生の頃、音楽の成績はめちゃくちゃ悪かったです。合唱のときも歌いながら居眠りしてたし……」
そう答えてから、はたと思い至る。音楽好きの人なら僕みたいに音楽に不真面目だった人間がこの場にいるのを、不快に思うかもしれない。
自分の発言を言い訳しようと顔を上げると、相手は肩を震わせてクツクツと笑っていた。
「合唱で居眠りって……それ、音程とかめちゃくちゃになるでしょ……」
「あ、はい。先生にバレて、それで音楽の成績を下げられてました」
「あー……そりゃあそうなるよね。ふふふ……面白い人だ。えーと――」
相手の様子から名前を尋ねようとしているのかと察して、僕は名乗った。
「あ、僕は水城鋭利といいます」
そのときだ。教室に入ってきた高校生くらいの女の子が吉井さんに声を掛けた。
「せんせー、授業が始まる時間ですよー」
「あ、もうそんな時間か。じゃあ、始めましょうか」
彼はゆったりとした足取りで教室の前まで行き、こちらへ向き直る。教室には生徒が十人ほど集まっていた。小学生くらいの男の子や高校生らしき女の子、壮年の男性に白髪の老婦人――生徒の年代はさまざまだ。作詞作曲講座だから生徒は音楽にハマっている若者が多いんじゃないかと想像していた僕の予想とは、意外に年齢構成が異なっている。
「じゃあ、授業を始めます。前回はDTMソフトを使ってメロディの打ち込みをしました。今回はそこに――」
吉井さんの淡々とした穏やかな声が教室に響きわたる。ああ、この人の声、なんだか好きだなと授業を聞きながら僕は思った。それから、すぐに我に返る。
――いやいや、僕は作詞の方法を学ぼうと思っているのでだ。他人の声に聞き惚れてぼんやりしている場合ではない。
僕は姿勢を正して授業に集中しようとした。
授業が終わると、生徒さんたちは挨拶をして帰り支度を始めた。この後の予定があるのか、急ぎ足でドアを出て行く人。友人同士なのか後でカフェに行こうと話し合う人。小学生の男の子は、ロビーで待つという母の元へ元気に駆けていく。高校生の女の子は、少し年上の大学生らしい女性とマンガの貸し借りを始めていた。
授業終わりの教室のざわめきの中、僕は教室の前方へ歩いていった。
「今日は見学させていただいて、ありがとうございました。とても興味深かったです」
「それならよかった」
吉井さんはそう言ってにっこり微笑んだ。温かな笑みと心地よい声。なんだかこのままこの場を去るのが名残惜しくなってしまう。教室に入れば、月に二度、隔週で吉井さんに会えると分かっている。けれど、それでも離れがたい――。
そんなことを考えていると、吉井さんが声を掛けてきた。
「水城さんはこの後、帰るだけですか?」
「え? あ、はい。家族が待ってるわけでもないんですけど、用事もないのでコンビニでお惣菜でも買って帰ろうかなって」
「それじゃ、俺と飯食っていきません? この教室に同年代の男性が来るのって珍しくて、もう少し話せたらなと思って」
思いがけないその言葉に僕は目を丸くする。まさか僕みたいな陰キャが他人の興味を惹くとは。意外に思いながらも嬉しくて、「ぜひ」と頷いた。
結局、僕は作詞作曲講座に入ることにした。作詞に興味が湧いたからだ。それに、講義の後に食事に行った吉井さんが面白い人だったということもある。僕たちはずいぶん気が合うようだった。何というか、会話のテンポが合っているようなのだ。一方で、お互いに共通の趣味があるわけではないから、吉井さんの話は別世界の出来事のように興味深く耳を傾けることが多かった。
その翌週、僕は花梨と居酒屋で会っていた。作詞作曲講座に入ったことを伝えると、彼女が久しぶりに飲みたいと言ったのだ。僕もアイドルを辞めた後の花梨の近況が気になっていたため、話がしたかったのだ。
居酒屋に現われた花梨は、アイドル時代の長かった髪をばっさりと切って、ベリーショートになっていた。服装もシンプルな長袖のTシャツに緩めのジーンズを合わせている。化粧もほとんどしていないようで、声を掛けられなければ彼女だと分からなかった。
「あ、花梨……?」
「ふふふ、誰か分からなかったって顔してる。よかった。前を知ってる鋭利が今の私を見ても気づかないのなら、他の人にもなかなか分からないだろうから」
気づかなかった僕に怒るでもなく、花梨は席に座ってウーロン茶を注文した。
「この間もメッセージで聞いたけど、作詞作曲講座に通いはじめたんだって? どう? 楽しい?」
「うん。学生時代は音楽ってあんまり好きじゃなかったけど、やってみたら楽しかったよ。先生が吉井燐太郎さんて人なんだけど、『俺が教えるからには、音楽を好きにさせる』って言って」
「吉井燐太郎?」
燐太郎さんの名を聞いて、花梨は一瞬、目を見張った。
「もしかして、知り合い? 先生、作曲家をしてたこともあったって聞いたけど、曲書いてもらったことがあるとか?」
「名前自体に聞き覚えはないけど……。クリエイターとかアイドルって、ハンドルネームで活動してる人も多いから、もしかしたら知ってる人かなぁ……。分からないけど」
そういうものか、と僕は納得して話題を変えた。
「そういえば、学校はどう? 大学、楽しい?」
「勉強は大変だよ。鋭利君だって、知ってるでしょう? ……まぁ、でも、いずれ幼稚園を作りたいっていうのが私の夢だし、児童教育や保育について学ぶのはやりがいがあるよ」
「あんまりゆっくり話したことなかったけど、高校のときは小説書いてたのに、なんでアイドルになってからいきなり将来、幼稚園を作りたいって思ったの? ……そりゃあ、オメガの人は子ども好きって言うけど」
「鋭利、それ、やめて。オメガは子ども好きっていうの」
不意に真顔になった花梨が硬い声で言う。そうだった。僕も花梨も副性に苦しんできたのだから、副性にまつわる固定観念で話すべきじゃない。
「ごめん」
「ううん、大丈夫」すぐに花梨は表情を和らげる。「私ね、家出してギリギリのところで地下アイドルのオーディションに何とか拾われて、それから人気が出るようにがんばってきた。やりたいことじゃなかったけど、生きるためにそうするしかなかったの」
鋭利君も配信にいっぱい投げ銭とかしてくれたよね、と花梨が呟く。僕は小さく頷いた。そうだ。僕は花梨が人気になるのならと、握手会だって行ったし、CDもたくさん買った。
付き合いたいとか、そういう気持ちはない。むしろ花梨は幼い頃から知る姉か妹みたいなもので、とにかく応援したかったのだ。
「歌ってるときの花梨は楽しそうに見えたよ」
「ええ、歌うのは好き。音楽も。でも、皆に応援してもらおうとして、皆の喜びそうな歌を歌って踊って……楽しいとか、楽しくないとかじゃなくて、自分がずっと背中に羽根が生えていて地に足が付いてない感じがしてた。だから実体のあるものに関わりたかった。ふたたび地上に生まれ直すためなら、羽根を切ったっていいって思ったの」
実体のあるもの――花梨の中では、それが子どもであり、幼稚園だったのだろう。その感覚は理解できる気がした。ファンとしてアイドルたちの世界を見てきて、人気がすべてのあの場所にいたらきっと自分を見失うし、心を壊すだろうと思った。自分が今、地に足が付いていると感じるのは、好きというわけではないにしろ日々、出社して仕事をしているからなのだ、とも。
今、目の前にいる彼女は、痛みを伴いながらも羽根を切り落としてここに降りてきたのだ。