08 答えられない問いかけ
彼との生活は本当におかしくて――クスクスと笑いをこぼす私のことを、冥府の主は呆れたように眺めていた。
「私は生者の営みにはあまり詳しくないが……君の夫は随分とまあ、破天荒な男だったようだ」
「やっぱりそう思いますよね? 一緒にいると段々と感覚が麻痺してしまって……」
冥府の主をもってしてそこまで言わしめるのだから、やっぱり相当奇天烈な人だったのよね、クライヴは。私だって慣れたとはいえ散々振り回されたもの。
本当に驚くようなことばかりで……日の当たらないところにいた私にとっては、あの人は光そのものだったのよ。
――けれども、ずっと続くものなんて、この世にもあの世にも存在しないのよね。
「……そういえば、私はどうして現世で好き勝手できたんでしょうか? たしかにあまり恵まれた人生とは言えなかったです。でも、もっと悲惨な運命を辿った方は多いはずですし……未練もその、一般的にはそこまで大したものではないでしょう?」
常々抱いていた疑問を口にすると、冥府の主はゆっくりと頷いた。
「そうだな。君は特別だと言えよう。最も、それも明確な理由があったわけではない。ただ単に選ばれた。それだけのことだ」
「選ばれた? ……いったい誰に?」
「……神やそれに準ずる存在は、得てして気まぐれというものだ。すべての事象に理由をつけることは無粋だと思わないか? オリヴィア」
これまでどこか優しい語り口だった主様が、唐突に底冷えするような声を出す。驚いてしまって二の句を繋げずにいると、彼はまた楽しそうにくつくつと笑った。
「いや、すまない。脅すつもりはなかったんだ。私としてももっと君のことを知りたいと思っているのだよ。君自身も、思ったよりも苛烈な性格だったようだからね。それで……そうだな。彼との別れを、教えてはくれないか」
「あ……はい……」
そう、別れは必ず来る。
亡者である私にとってそれは必然であり、彼の傍で最後に感じた切なさと温もりは――今でも、決して忘れられないものだった。
--*--+--*----*--+--*--
本当に、彼との生活は幸せだったのよ。
ひょっとしたらこのまま成仏できるんじゃないかしら、なんて思ってしまうくらいに。
だってこんなふうに誰かに必要とされることなんて、これまでに一度もなかったんですもの。浮かれてしまっても仕方ないでしょう?
彼は亡者である私のことをこれっぽっちも嫌がっていない。むしろ喜んで、当然のように受け入れてくれている。
だったら、この人が死ぬその時まで――一緒にいてもいいんじゃないかしら。
……なんて、ね。そんな厚かましいことを考えてしまうなんて。現金なものよね、オリヴィア。
冷や水を浴びせてくれたのは、そう。彼女だったわ。
「単刀直入に申しあげます。クライヴ様を解放してくださいませ」
木製のスツールにハンカチを敷いて腰かける少女は、アシュウィンのお屋敷で顔を合わせたシンシア嬢だった。
この隠れ家のことは、アシュウィン家にも筒抜けだったみたいね。
クライヴのことがどうしても諦めきれないシンシア嬢は、わざわざ説得に来たらしい。けれども迎え入れたクライヴの態度は頑なで……とうとう私に直接訴える作戦に出たようだ。
彼女は目の前にちょこんと座る人形に、真摯な瞳で語りかけている。今の私はその中にはいないのだけれど……やっぱり目に見えるものに、つい話しかけたくなるものなのね。
人形の背後で腕を組んで立っているのは、もちろんクライヴ。
「彼女と二人きりで話したい」というシンシア嬢の申し出は「無理だな」の一言で一蹴され、結局、彼の監視下での三者面談となった。
……まあ、私がラップ音を鳴らせばシンシア嬢を驚かせてしまうから、結局は文字盤を使って『はい』『いいえ』で答えるくらいしかできないのだけれど。
「クライヴ様があなたと婚姻したことで、アシュウィン家の名に傷がついております。それにこんなところで隠遁生活だなんて信じられません……! クライヴ様は歴史に名を残す当主となられるはずでしたのに!」
「それは買い被りすぎだよ、シンシア。オリヴィアもそう思うだろう?」
つつつ……と指輪を『はい』に動かすと、彼は気を悪くするでもなく、むしろ愉快そうに笑った。「ほらね?」と軽く肩をすくめるその姿に、シンシア嬢は苦虫を噛み潰したような顔で指輪を睨みつけている。
ごめんなさいね。クライヴが真面目に当主をしている姿なんて――どうしても想像できなかったのよ。
この人は自分の好きなことに真っ直ぐに打ち込んでいる姿こそが、いちばん魅力的だと思うから。
「それと。何度も説明したと思うが、私はもうアシュウィン家とは何の関係もないのだよ。アシュウィンに嫁ぎたいのなら、弟にでもアプローチした方がよほど建設的ではないかな?」
「そんなお尻の軽い真似はできません! ……いったいどうされたのですか、クライヴ様。たしかに以前から少し変わったところはございましたが、もっと理性的でいらしたはずなのに……。やっぱり――悪霊に取り憑かれてから、おかしくなってしまったのですね」
悪霊。……そうよね。はたから見れば、私は悪霊そのものだ。
生者に取り憑いて、彼の人生を台無しにしている――そう思われても仕方がない。
冷静に考えなくても、彼女の言うことには一理ある。
やっぱり生者は生者と結ばれるべきなのだもの。
返答に迷っていると、クライヴが大きくため息をついた。
「まったく……随分な言われようだと思わないか、オリヴィア。凡夫の理想を押し付けないでもらいたいものだ」
「オリヴィアさん、あなたはどうお考えですの? 亡者となった貴女がクライヴ様の傍にいることで、クライヴ様の御身体に差しさわりが無いと――そう言い切れるのですか?」
それを言われると……何も言えなかった。
だって、本当に分からないのだもの。毎日が楽しすぎて、そんなこと考えたこともなかったから。
でも、亡者がこの世に留まるのは、本来なら良くないこと。
ましてや生者と婚姻を結ぶなんて――。
彼にどんな影響を与えてしまうのか、本当なら真剣に考えなければならないことだったのに。
『はい』とも『いいえ』とも答えられず、指輪は中央でカタカタと小刻みに震えている。
その様子を見たシンシア嬢は、どこか勝ち誇ったような表情を浮かべながら、さらに畳みかけてきた。
「それに、いくらクライヴ様が気にされていないと仰っても……貴女が相手では、お子様をなすこともできません。それはとても不幸なことだと思いませんか? たとえアシュウィンから除籍されたとはいえ、家を継がぬ自由と、子を持たぬ選択とはまた別の――」
「……シンシア」
これまでに聞いたことのない、低く抑えた声が、シンシア嬢の言葉を静かに遮った。
「自分の幸福の尺度を、人に押し付けないでもらいたい。……非常に不愉快だ」
「……っ、……オリヴィアさんだって、本当は現世から解き放たれたいのではありませんか? 貴女のエゴが、彼女をいつまでも縛りつけているのではなくて?」
「ここまで話が通じないとなると、これ以上は時間の無駄だろう。さあ、今すぐお引き取り願おうか。できることなら、二度と来てほしくはないものだ」
クライヴは玄関の扉を開け、冷えた目でシンシア嬢に外に出るよう促した。小さな唇をぎゅっと噛みしめた彼女が、人形を睨みつける。
「……貴女さえいなければすべてが丸く収まるのです。亡者は亡者らしく、さっさと成仏なさいませ!」
「シンシア!」
「今日はこれで失礼いたしますが――わたくし、絶対に諦めませんから! その悪霊との悪縁、必ず断ち切って差し上げますわ!」
そう捨て台詞を吐き、鼻を鳴らしてシンシア嬢は家から出て行った。クライヴは遠ざかるその背に向かって灰のようなものを撒いている。
「……まったく。私とオリヴィアを引き離そうなどと笑止千万であるな。オリヴィア、あの娘の言ったことは何も気にする必要はない。見ての通り私の身体は元気そのものだし――君のおかげで、私はこれ以上ないほど充実した日々を送っているのだから」
彼はそう優しく言ってくれるけれど……それでも、やっぱり気になってしまう。
そもそも、こんなの歪なのよ。
私はどうあがいても亡者であって、奇跡が起きたところで生き返るわけじゃない。
彼と共に歳を重ねることも、彼に子どもを抱かせてあげることだって……決してできやしないのだ。
――ああ、オリヴィア。わかっていたのに、ずっと目を逸らしてきたのよね。
だって、幸せだったから。生きていた頃には知ることのなかった「幸福」を、この身で感じてしまっていたから――。
文字盤の上で、指輪を滑らせる。けれど、思うように言葉を繋げることができず、またしても紙を大きく破いてしまった。
ころころと、指輪だけが虚しくテーブルの中央を転がっていった。