06 埃まみれの新居
――私と婚姻を結んだ翌日に彼は自ら屋敷を出て、何日か馬車に揺られた末。
とっぷりと夜も更けた頃、ようやくたどり着いたのは郊外にある小さな家だった。
隠れ家というか、秘密基地とでも呼ぶべきかしら。
棚の上には木彫りの人形や怪しげな道具がずらりと並び、本棚には収まりきらない本が縦にも横にも積まれている――なんとも、彼らしい家だ。
「ゴホッ、ゴホッ……。さすがに久しぶりだから掃除から始める必要があるか。……オリヴィア、そこにいるな?」
返事の代わりにラップ音を鳴らすと、彼は満足げに目を細める。
「夫婦になった早々に私の厄介ごとに巻き込んでしまって、本当にすまなかった。だが、これで何の障害もなく君を迎え入れられるというものだ」
床に薄く積もった埃を気にする様子もなくずかずかと室内に足を踏み入れる。
そして木製のスツールに腰かけ、大きく伸びをしながら「清々した」とでも言いたげな顔をみせた。
「ここは君が住んでいた屋敷よりも小さいだろう? いずれ大きな家に越してもいいが……人を入れるのは好まないんだ。君が不自由でないのなら、しばらくはここでも構わないだろうか?」
不自由だなんて。私は食べる必要も、眠る必要も、お風呂に入る必要もないのよ?
無駄に広くされたらきっと物置が増えるだけになる。これくらいで、ちょうどいいわ。
そう答えようとしたとき、彼は「ああ」と呟いて棚の一番上から一枚の紙を取り出した。
手のひらで埃をさっと払い落とすと、小さなテーブルの上に紙を広げ、鞄から羽ペンとインクを取り出して、『はい』『いいえ』と紙の両端に書きつける。さらにその下に、細かな文字をつらつらと書き足していった。
私が覗き込んでいると今度は胸元から小さな箱を取り出した。
中に納まっていたのは、上品な輝きを放つシンプルな銀色の指輪。思わず、その光に目を奪われる。
彼はそれを丁寧に持ち上げ、紙の中央に、ことり、と置いた。
「君に捧げる結婚指輪だ。……本来であれば、きちんとサイズを測るべきなのだろうが……まあ、身に着けるわけではないから、とりあえずは良いだろう」
はたするとデリカシーのない発言かもしれない。けれど、事実その通りだから何も言い返せない。
それに――。
『どうせ外に出ないのだから、飾り立てる必要はないだろう?』
『嫁ぐこともできない以上、あなたの分まで妹に頑張ってもらうしかないの。あの子にお金をかけるのは当然よ』
……そう。実家では、そう言い聞かされてきた。
だから、もともと持っていたものであっても、急ごしらえのものであっても、私なんかのためにわざわざ指輪を用意してくれたこと。
その気持ちだけで、もう、十分に嬉しかった。
「さて。これを動かすことができればもっと密なコミュニケーションが取れると思うのだが……どうだろうか?」
そう言って、彼は指輪を使って文字をなぞってくれないか、と私に問いかけてきた。
君の語る言葉が、私にも分かるようになるはずだから、と。
こんな繊細な動き、試したことはなかったけれど……。
私は恐る恐る人差し指をその指輪に乗せ、霊気を指先に込めてみた。――が、力を入れすぎたのだろう。勢い余って、ビリッと音を立てて紙が破けてしまう。
頬杖をついてその動きを見守っていたクライヴが、目をすぅと細めた。
本当に、私という女は何をしても要領が悪いのね。
亡者になった後くらい自由自在に何かを成せてもいいはずなのに――そう思うと、悔しさが込み上げてきてしまう。
「……我が妻よ、焦らなくていいんだ。少しずつ練習していこう」
怒られるのではないかと身構えていたのに、その声色はあまりにも優しくて。強張っていた身体がふわりと解きほぐされていくようだった。
……我ながら安い女ね、オリヴィア。こんな一言で絆されてしまうんだから。
「それに今後の楽しみも増えるというものだ。さて……まずは片付けでもするとしようか。君は自由に過ごしてくれて構わない」
そう言って彼は少ない荷物を玄関から運び込み始めた。
何か手伝いたいとは思うけれど、細かい作業が苦手な私が荷ほどきをすれば、中身をぶちまけてしまうのが関の山。
どれも見たことのない品ばかりだから、壊してしまったら申し訳ない。
仕方なく、吸い寄せられるように本棚の前に立つ。
……几帳面とは言い難い性格なのね。分類も作者名も出版社もバラバラで、全容を把握するのに一苦労しそう。
とはいえ民俗学を学ぶ彼らしく、そこには古書や呪術書、各国の地図などがずらりと並んでいる。
中には彼の趣味と思しき、大衆小説や歴史書も見受けられる。そして――あれは私家本ではないかしら? 好きな作家の名前を見つけた瞬間、胸の奥がぱっと明るくなった。
セラフィーナ・ド・ルミエールの『冥府に至る扉』。
アルヴィス・メレディアン卿の『境界の呪具』。
コンラッド・フェンデル博士の『死者の声に耳を澄ませ』。
オリヴァー・ブライアンの『銀の森の精霊たち』。
そして――エドウィン・クレスウェルの『冥婚と祝祭の記録』。
……止まっていたはずの心臓が、大きく鳴ったような気がした。
思わず手を伸ばしかけて――でも、そのまま止めた。
貴重な本だもの。うまく力を制御できない今の私では、うっかりバラバラにしてしまいかねない。
「……細かな掃除は、誰か通いでも雇うとするか。食事も私だけなら出来合いのもので十分だろう。――さて、待たせたね」
どうやら掃除は早々に諦めたらしい。荷を運び終えたクライヴが手にしていたのは、見慣れぬ古びた人形だった。
ブラウンの長い髪に、同じ色の瞳。若草色のワンピースを纏ったそれは、子どもの遊び相手にでもなりそうなどこにでもある人形だ。
「少し実験だ。……この中に入り込んだりはできないかな? やはり目に見える方が、君が傍にいると実感できる気がしてね」
よくもまあ、次から次へとこんなことを思いつけるものだわ。内心で感心しながら、人形に向かって意識を集中させてみる。
すると、驚くほどすんなりと私の霊魂はその中に滑り込んだ。
手足を動かしてみれば――ぎこちないながらも、頷いたり、軽く手を振るくらいはできそう。さながら呪いの人形ね。……歩くのは、さすがに無理そうだけれど。
「うむ、悪くないな。誰もいないところで君に話しかければ不審がられるが、これなら問題はあるまい」
うん? その発想はどうかしら? 人形に話しかける男というのもなかなかの怪しさだと思うわよ、クライヴ。
それでも彼は満足げに頷き、まるでこれから新しい日常が始まるかのように声を弾ませる。
「オリヴィア、長い旅で君も疲れただろう? 軽食を済ませたら、今日はもう休むとしよう。……シーツは、そうだな。……明日でいいか」
誰にともなくそう呟いた彼は、薄汚れたシーツの上にロングコートをふわりとかけ、その上に私の入った人形をそっと寝かせた。
隣に横になった彼は、嬉しそうに人形の小さな手にそっと触れている。
……本当に、ここでふたりで暮らしていくつもりなのかしら?
こんなに生活能力のなさそうな人が、いったいどうやって日々を営むつもりなのかしら?
今の私には紅茶を淹れることも、パンを焼くこともできないというのに。
「おやすみ、オリヴィア。ああ、明日からが楽しみであるな。これまで行けなかった地域にも、ようやく行けるのだから」
そんな私の心配などどこ吹く風。呑気なことを言いながら、大きなあくびを一つして彼はすぐに眠ってしまった。
――神経が図太いのね、本当に。亡者を横にして眠れる人なんて、そうはいないはずよ。
眠る必要のない私は、ぼんやりと天井を見上げたり、彼の寝顔を眺めたりしながらこれまでの人生をゆっくりと振り返っていく。
まさか、こんな結末を迎えるなんてね、オリヴィア。
ぱっとしない人生ではあったけれど……死後にこんな生活が待っているなんて、誰が想像したかしら。
「っ……」
ふいに、横から寝言のような声が漏れた。
けれど、どこか楽しそうな寝顔だったから――放っておくことにした。