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05 家門を捨てて

 それが、彼と初めて出会った日の出来事。

 私が彼のことを語るたびに、冥府の主はティーカップを傾けながら愉快そうに目を細めていた。


「……そうか。生前は、ずいぶんと不遇な生活を送っていたようだね。死後とはいえ、その男と結ばれたのは君にとっても大きな転機だったのだろう?」

「転機も何も、本来なら人生終わっていたはずなんですけれどね。でも……そうですね。本来の自分というものを取り戻せたのは、あの人のおかげだったと思います」


 そう。本当だったら私は、あの崖から落ちた時点で短い人生に幕を下ろしていたのだ。

 ただ運命の悪戯で、現世に留まってしまっただけ――。


 冥府の主は、やっぱり暇を持て余していたのかしら。うんうんと頷きながら、穏やかに私の話に耳を傾けてくれている。

 その姿はおどろおどろしいものにも見えるけれど……穏やかな口調があの人に似ているからかしら。不思議と恐怖は感じない。

 本来なら、こんなふうに気軽に会話できるようなお方ではないはずなのに――とても聞き上手だから、私もつい、調子に乗ってしまう。


 だって、あの人との交流はほとんど一方通行だったんですもの。

 彼が一方的に喋り続けて、私はただその言葉を理解するだけで精一杯。

 知らない知見を得るのは確かに楽しかったけれど、それでもやっぱり――少しだけ、歯痒かった。


 各地に伝わる因習や民話、御伽噺。

 どれもこれも創作意欲をかき立てられるものばかりだったのに。

 もっと深く知りたくて、質問だって山ほどあったのに。

 ああ、本当にもったいないことをしたと思ってしまう。


 もっと早く出会えていれば――なんて何度も考えたけれど、きっと生きていた頃の私たちでは交わることさえなかったはず。

 そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。


「それで、彼との生活はどんな日々だったんだい?」

「驚くことばかりでした。引きこもりだった私が言うのもなんですけれど……その。彼って本当に、社会性というものが皆無だったんです」


 目を丸くした冥府の主は、くつくつと笑いを堪えている。


「そうかそうか。それはぜひとも、詳細をお聞かせ願いたいものだね」

「もちろん構いませんが……。私なんかに、そんなに時間を割いていただいても大丈夫なんでしょうか?」

「私が君と話をしたいのだから、そんなことは気にしなくていいんだよ、オリヴィア。それに、ここは現世とは時の流れが違う。時間なら、いくらでもあるからね」


 それなら――遠慮なく、彼の話をさせていただこうかしら。


 だって、あんなに心惹かれた人は、後にも先にもいなかったのだから。

 誰かに彼のことを話したくて仕方がなかったの。



 --*--+--*----*--+--*--

 


 シンシア嬢は、やっぱりそれなりに有力な家門のご令嬢だったらしい。

 長男であるクライヴと彼女が結ばれれば、家門同士の結びつきはより強固なものになるはずだったのに。

 それがあんな一方的な破談になってしまったものだから――アシュウィン家の現当主様の怒りようと言ったら、想像するまでもなかった。


 当主様の帰還の知らせが届いたのは、クライヴの部屋で彼のお喋りに耳を傾けながら過ごしていたときのこと。

 あの気の毒な執事さんが、顔を青くしたまま声を掛けに来てくれた。

 ……気のせいかしら。どこか怯えたように、そわそわと周囲を窺っている気がする。


「……当主様がお戻りになりました」

「そうか。父上は何か仰っていたかな?」

「顛末は、私の方から説明させていただきました。……今すぐ書斎に来いと。たいそうお怒りのご様子です……」


 クライヴは「やれやれ」と肩をすくめてみせる。まるで「理解がない人はこれだから困るんだよ」とでも言いたげな態度で。

 ……巻き込んでしまった私が言うのもなんだけれど、それだけのことをしたんだから、どんなに寛容な方でも怒って当然だと思うわ。


 それにアシュウィン家といえば、王家からも信頼されるような有力な家柄。ブレントン家なんて、相手にされなくて当然よ。

 しかも肝心の嫁は、元引きこもりの亡者ときたら……こんな婚姻、許されるはずがないもの。


 背後からついてくる執事さんの監視のもと、クライヴはお義父様の書斎へと向かう。

 私もこっそりその後を追っていくと、扉の前で立ち止まった彼が、「心配することはないよ、我が妻よ」と明後日の方向にウインクを飛ばしていた。


「来たか。……説明を」


 部屋に入って早々に低く放たれた声。この方こそ、アシュウィン家のご当主様なのだろう。

 刈り上げたロマンスグレーがよくお似合いで、クライヴとも面差しがよく似ている。

 違うのは、眉間に深く刻まれた皺。――きっと、これまで積み上げてきた数々の苦労の証ね。……主に、私の旦那様となった方が原因の。


「ブレントン家の令嬢を、我が妻として迎えました。さあ、オリヴィアも父上に挨拶をしてくれまいか?」


 ……ごめんなさいね、クライヴ。さすがの私も、ここは空気を読む場面だと理解しているわ。

 沈黙が室内を満たすと、彼は笑顔を貼り付けたまま「我が妻は恥ずかしがり屋なもので」と嘯いた。

 私は何もしていないのに――ピキリ、と、空気が張り詰める音が聞こえた気がする。


「……かつては神童とまで呼ばれたお前には、期待をしていたのだがな。民俗学などという下らぬ、学問とも呼べぬものに現を抜かすばかりか、よもや亡者と婚姻を結ぶとは。いったい、どういうつもりだ」

「そうでしょうか? 私としては人生で一番の選択をしたと自負しておりますが……。父上にご理解いただこうなどとは一度も思ったことはございませんので、どうかご安心を」

「エルモレイン家との繋がりが、お前の愚行のせいで消えたのだ。それについて何も思うところはないのか」

「まったくもって。私は常々、当主の座は弟に譲るべきだと進言してきたでしょう。かの家との繋がりが欲しいのであれば、弟との縁談を進めればよろしい。私は、家門というものに縛られるつもりはありませんので」


 お義父様の眉間の皺が、さらに深くなる。

 一応は次期当主の立場であるはずなのに、まるでその自覚がなさそうなクライヴは変わらぬ笑顔のまま。お義父様の怒りなど眼中にない様子に、見ているこちらの胃が痛くなる。


「……グレイにはすでに別の家との話が進んでいることも忘れたか。それに、お前は腐っても長男であろう。家門を背負う覚悟と責務を、一度も考えたことがないとは言わせぬぞ」

「ははは。これがまた、一度も考えたことがないのですよ。……父上も、往生際が悪いですね。片手間の交易ではありましたが、私なりにこの家には尽くしてきたつもりです。それで十分でしょう? 私の人生は、私のものです。家のために捧げる気など、さらさらありません」

「この面汚しが……! ……いいだろう。どこへなりとも消えるがいい。その代わり、これまでにお前が関わってきた事業はすべてグレイに譲渡させる。当然、その身一つで家を出る覚悟はあるのだな?」

「それはもちろん。そもそも親の脛をかじっていた覚えもありませんから。……では、これより私はただのクライヴを名乗らせていただきます」

「勝手にしろ!」


 お義父様が投げつけたグラスをひょいと躱した彼は、軽やかに背を向けて部屋を後にした。

 閉ざされた扉の向こうから何やら怒鳴り声が響いてくるけれど、やはり彼の耳には届いていないらしい。


 そして、長い廊下を曲がったところで、彼はいきなり声を上げた。


「――さあ、これで余計なしがらみはすべて無くなった! ああ、君は本当に私にとって幸運を招く女神であるな。鬱陶しい娘とも縁が切れ、この家からも解放されたのだから!」


 今にも踊り出しそうな勢いで、大袈裟に両手を広げる姿。

 あちこちに控えていた兵士や使用人たちがギョッとした顔をしているが、慣れているのか、誰も止めようとしない。……それどころか華麗にスルーしている。私も苦笑するしかなかった。


 ――なるほどね。本当に、うまいこと私を使ってくれたものだわ。

 予想もしなかった展開に、「彼の人生を滅茶苦茶にしてしまうのでは」と気に病んでいた私がなんだか馬鹿みたいじゃない。


 

 そうして彼は本当に一片の未練もなさそうに、引き留める執事の声も、追いすがる弟さんのこともまったく気にせぬまま、颯爽と屋敷を後にした。

 あまりの思い切りの良さに、私は唖然とするしかなかった。


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