04 婚約破棄はポルターガイストと共に
何の躊躇もなく屋敷の中へ足を踏み入れていく彼の後を、私はふわふわと浮かんでついていく。すると、執事らしき人物が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「クライヴ様! いったいどちらへ行かれていたのですか! まさか、傘も持たずに……」
「急ぎだったものでね。で、私に何か用でも?」
「ありますとも! ……シンシア様がお越しです」
「ほう。それは手間が省けて良かった。ちょうど用があったんだ」
「お、お待ちください! せめてお着替えを――」
「我が妻に屋敷を案内せねばならんのだ。無粋な客人には、用が済んだらなるべく早くお引き取り願いたいのだよ」
「我が妻……? ど、どういうことでしょう、クライヴ様!? シンシア様とのご婚約は……!」
執事の引き止める声にも耳を貸さず、クライヴはタオルを受け取ると、濡れた髪と肩を乱雑に拭いそのまま背後に放り投げた。慌てて執事がキャッチしている。
「不貞など許されませんぞ、クライヴ様!」
「不貞? いやいや、私は彼女と正式に婚約した覚えはない。親が勝手に決めた非公式な取り決めだったろう」
「し、しかしですな……。ではその『妻』とは? まさか、もう届の提出まで……?」
「残念ながら、こちらも非公式だ。まったく、法整備が時代に追いついていないとは思わないか?」
……それは、まさか私に向けた問いかしら?
法整備も何も、幽霊との婚姻なんて想定されているはずもないでしょうに。整備のしようがあるとも思えない。
答えに窮していると、彼はとある部屋の前で足を止め、虚空に向かって再び語りかけた。
「不愉快な場面を見せることになるかもしれない。だが、私の心はすでに君にある。どうか信じて、見守っていてほしい」
「クライヴ様……? 誰にお話しされているのですか? まさか、お相手は屋敷の使用人ではありますまいな……?」
執事の言葉を無視して、彼は部屋の扉を押し開ける。私も後を追うと――。
そこには、薔薇の香りを纏った華やかな女性が、豪奢なソファに腰掛けていた。
「……まあ、クライヴ様! そんな乱れた御姿で……もしかして、シンシアが来ていると聞いて駆けつけてくださったのかしら?」
カールがかった金の髪、大きく潤んだ瞳。
私がずっと欲しかった、シミひとつない白い肌。
何よりも――親に愛され、慈しまれて育ったと一目で分かるその姿を見て。胸のあたりで何かが、どろりと音を立てて落ちていった。
「やあ、シンシア嬢。今日は来訪の知らせはなかったと思うが、何の用だったかな?」
「婚約者ではありませんか。お顔を見たくて参りましたの。……ご迷惑でしたか?」
「ああ、迷惑だな。何度も言っているはずだが、君の耳は飾りのようだ」
「まあ……クライヴ様ったら。淑女にそんなことを仰るなんて、わたくしでなければ泣き出してしまいますことよ?」
鈴を転がすような声で笑うシンシア嬢はとても愛らしい。対するクライヴは、心底うんざりしたように眉をひそめている。
その反応に慣れているのか、それとも気づかぬふりをしているのか――。
シンシア嬢は笑顔を崩さず、さらに話を続けた。
「もちろん、それだけではございませんの。わたくしもようやく婚姻可能な年齢になりましたから。式の日取りや住まいについてご相談したく……」
「それは申し訳ないことをした。実は今日、すでに妻を迎え入れてしまってね。君とは結婚できないのだよ」
誰ひとり想像していなかった発言に、その場の空気が凍りつく。
シンシア嬢だけでなく、侍女も執事も、お茶を運んでいたメイドまでが一斉に動きを止めた。――当然、私もだ。
だって、あれは正式な婚姻でもなんでもない。ただの、気まぐれのようなもののはず。明日には忘れていてもおかしくないくらいの話じゃない。
それに、こんなに愛らしい婚約者がいるのに亡者と婚姻を交わしてしまうなんて。この人、本当に何を考えているのかしら?
「……聞き間違いかしら? 妻を迎え入れたと、そう仰いましたか?」
「聞き間違いではないとも。そもそも君との婚姻について私は同意した覚えはないが……この国では重婚は禁じられているからな。潔く諦めてもらえるとありがたい」
――この人。自分の関心がないことには、心底どうでもいいと考える人なのね。
シンシア嬢とだって昨日今日に許嫁になったわけじゃないでしょうに。笑顔のまま切り捨てるその姿には、私が寒気を覚えるくらいだった。
「諦めろだなんて……そんなこと、できるはずがないじゃありませんか! 貴方様を誑かしたのはいったい、どこの家門の娘ですの? マーセリウス家? アンダーソン家? ……まさか、王家ではありませんでしょうね?!」
「どうして家門を気にする必要があるのか理解できないが、ブレントン家だ」
「ブレントン……?」
困惑に眉を寄せたのはシンシア嬢だけではない。使用人たちも「どこの家門だ?」と言いたげに顔を見合わせている。
それも無理もないわ。ブレントン家なんて名家にはほど遠い、有象無象のしょぼくれた家門の一つに過ぎないのだから。
「……そんな名も知らぬ家の娘を、妻に迎え入れたと?」
「その通りだが? そう考えるとこれは――運命の愛、というべきかな」
「運命……ですって? わたくしというものがありながら、いつの間にその方と……!」
「今日だ」
あっけらかんと言い放つクライヴに、シンシア嬢はぽかんと口を開け、返す言葉も見つからないようだ。
「今日、運命的な出会いを果たしたのだよ。略式ではあるが婚姻の儀も済ませている。私は彼女を生涯愛すると誓ったのだ。……だから、君と関係していたつもりはないが正式に清算させていただくよ」
頂いた贈り物は後日返すよ、と悪びれもせず微笑む彼に、正気を取り戻したシンシア嬢は、いやいやと首を振る。
「嫌です! 私は、ずっと貴方様をお慕いしていたのです! 世間知らずで社会に適応できない貴方様を支えられるのは、わたくしだけなのですから!」
「社会不適合であることは認めるが……君に支えられる気など毛頭ないから、安心したまえ」
「ならば……その女に会わせてくださいませ! 名も知らぬ女に奪われたとあっては、我が家門の名に関わりますわ!」
「まったく、そんなに家が大事なものなのかね……。まあ、いい。オリヴィアは、ずっと私の傍にいる。……私も、まだ姿を見せてもらえてはいないがね」
「???」
まるで意味が分からない、といった様子のシンシア嬢。その困惑に満ちた表情を見ていると、私のほうが不憫に感じてしまう。
だって、彼女自身に何の落ち度もないんだもの。家格だって釣り合っていたはずなのに。得体の知れない――それも、人間ですらない女に、横から婚約者をかっさらわれるだなんて。
……どうしよう。なんて面白い展開なのかしら……!
こんな状況だというのに、新たなインスピレーションが次々と湧いてくる。ノートが手元にないのが悔やまれてならない。
「オリヴィア。姿を現すことはできないだろうが、どうか私の自称元婚約者殿に挨拶をしてあげてはくれないか? どうにも納得していただけないようだからね」
その声音には、わずかな申し訳なさと――隠しきれない好奇心が滲んでいる。
……きっと、見たいのね。亡者の力というものを。
その気持ちが手に取るように分かってしまうのは……やっぱり、同類だからかしら。
彼の期待に応えるように私が強く念じると、部屋の明かりが一斉に落ちた。
「きゃあっ!」と誰かの悲鳴が上がり、続けざまにピシリ、パキリと、何かが軋むような音があちこちで鳴り始める。
部屋の隅に飾られていた大きな壺。持ち上げるには少し気力が要ったけれど、仕上げとばかりにそれをふよふよと宙に浮かせ、シンシア嬢の目の前でくるくると舞わせてみせた。
彼女は壺を目で追ったかと思うと――ぐるりと白目を剥いて崩れ落ちそうになり、慌てた侍女がすかさず支えに入った。
「――ああ、オリヴィア。君の愛の証を、しかとこの目に刻んだよ。ふふ……これからの新婚生活が、ますます楽しみだとは思わないか?」
……それは、どうかしらね。
亡者としての私にしか興味がなさそうなこの人と、この先うまくやっていけるかどうかは、正直、かなり疑わしい。
けれど――。
自由に振る舞えるって、こんなにも楽しいことだったのね。
それに、阿鼻叫喚と化した室内で両手を叩いて無邪気に笑う彼の姿が、どうしようもなく眩しく見えてしまったの。
……頭がおかしいのは、お互い様だったのかもしれないわ。
ふふ。不思議なものね、オリヴィア。
胸の奥にずっと渦巻いていた仄暗い感情は――気づけばすっかり、どこかへ消え失せていたんだから。