13 輪廻の門をくぐるまで
私の手が彼の背中に触れて、クライヴは緩やかに振り返る。その姿は最期に見たときとなにも変わらない、あの時のままだった。
「クライヴ、これは……どういうことなの? あなたも死んでしまったの?」
「――ああ。君と再びこうして言葉を交わせる日を、どれだけ待ち望んだことか。そうだよ、オリヴィア。私は天寿とやらを全うし、君と同じ亡者となったんだ。だが再会を喜ぶのは少し後にしよう。まずはこのお子様に、引導を渡してやらねばならないからな」
クライヴが目を細めて見下ろす先には、さっきまでの威厳がすっかり剥がれ落ちた主の姿があった。
「なにが引導だ! この国は僕のものだ! 亡者は僕に属するべき存在だ! だからオリヴィアも、僕のものであって当然じゃないか!」
「それが子どもの理屈だというのだよ。……私は正式な手続きを踏んで、こうして再びここに来た。かつて生者だった私が門前払いを食ったとき、君は随分と面白がってくれたものだな? さらにはオリヴィアの気を引こうと私の振る舞いを真似て見せるとは。これを滑稽と呼ばずして何と呼ぶ?」
どうしよう。まるで状況が呑み込めない……!
当事者であるはずの私を放ったまま、ふたりはまるで子どもじみた応酬を続けている。
さっきまで鷹揚としていた冥府の主はどこへやら。言葉尻を荒げてはクライヴに噛みつき、クライヴはその度に悠然とかわしては鼻で笑い、揚げ足取りに勤しんでいた。
何度も「あの」とか「ちょっと」と声をかけてみるけれど、まるで聞く耳を持ってもらえない。
……こうなったら、もう実力行使よ。
テーブルに置かれていたティーカップを、ふわりと宙に浮かせてみせる。
それに気付いたクライヴが、ぴたりと口を閉じた。
「……落ち着きたまえ、オリヴィア。あいにく今日はハンカチを持ちあわせていないのでね」
「落ち着くのはあなたよ、クライヴ。……最初から説明してちょうだい。貴方もよ、冥府の主様」
「最初からと言われてもな……語れることなど大してないのだよ。あの日、君が忽然と姿を消した。だから私は君の行方を探し続けていただけのことだ。すべての文献を洗い、冥府への道を探し……ここまで辿り着いたに過ぎない」
「まったく……本当にいかれてるとしか思えないよ。生者の分際で、冥府の門をこじ開けようとするなんて。門番たちが報告に来たときには、僕だって耳を疑ったくらいだ!」
――まさか、本当にこの人……自力で、この冥府に?
言葉も出ないほど驚いた私に、クライヴは平然と、むしろ得意げな顔で片目を瞑って見せた。
「時間、場所、儀式の内容――それさえ分かれば、到達は造作もないことだったよ。……もっとも、十年もかかってしまったがね」
「じゅ、十年……? そんなに時間が経っていたの?」
「言っただろう、ここは時間の流れが異なると。君がここに辿り着くまでのわずかな間に、この男はのこのこと現れたんだよ。もちろん丁重にお引き取り願ったけれどね。生者は生者と番えばよかったのに」
「私の妻は、オリヴィアただひとりだと言っているだろう。それは……オリヴィアとて同じことだ。君の夫は、私ひとり。……違うかい?」
スマートな動作で私に手を差し伸べるクライヴ。その仕草に、止まったはずの心臓が跳ねる。
どうして。どうして、そんなにも私を――。
戸惑いに手を伸ばせずにいると、彼はにこりと笑って……そのまま、私の手を強引に掴んだ。
「私が嫌だというのならこの手を離してくれて構わない。……だが、君は私を嫌ってはないだろう?」
「嫌いなわけないじゃない! でも私は顔もこんなんだし、人を妬んでばかりで性格だって良くないの。……あなたに相応しいとは思えない」
「まったく……少なくない時間を共に過ごしたというのに、私の本質を見誤っているな、オリヴィア。私は顔や内面などというものには全く興味がないのだよ。私の知的好奇心を満たし、話にもよく付き合ってくれて、そして自分の世界を持っている者――私は、そういう者に強く惹かれる質なのだ」
「……それ、自慢気に言うことかよ」
「お子様は黙っていたまえ」
冥府の主の口出しをばっさりと切り捨てると、クライヴは私の手の甲にそっと口づけを落とした。
「君はどうなのかな。……まさか、私の顔に惹かれたわけじゃないだろう? 結局弟と結ばれたあの娘のように、家門に縛られたとも言わせないぞ」
そんなこと、言わなくても分かってくれていると思っていた。けれど……。
言葉を交わしたことがなかった私たちは、ちゃんと想いを伝え合うことができなかった。
それならば、今がその時なのね。
少し気恥ずかしさを覚えながらも、私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。
「私も……あなたが追い求めた世界と、それを無邪気に語るあなたの横顔に惹かれたのよ、クライヴ」
「……それは僥倖。やはり私たちは似た者同士だったというわけだ。さて――分かったかね、冥府の主よ。君の出る幕など初めから無かったということだ。第一、オリヴィアは今でも私の妻のままだ。……亡者の国でも、重婚は許されていないのではないか?」
口惜しそうに歯噛みした主は、クライヴを睨みつけたあと、彼の腕の中にいる私へ視線を移した。子どものように唇を尖らせながら、渋々といった様子で首を振る。
「魂の繋がりがある者を、奪うことはできない。――あああっ! もうっ! だから言ったんだ。オリヴィアのことは忘れろって。ここには立ち寄らずに、さっさと輪廻の門をくぐれって!」
「奪われると分かっていて置いていくはずがないだろう? ……だから君は、お子様であるのだよ。冥府の主を名乗るのであれば、人の業と執念というものをもう少し理解したまえ」
クライヴは肩を竦めると、おもむろに胸ポケットに手を差し入れ、何かを取り出した。
それは、私が彼との意思疎通に使っていた――銀色の指輪。現世では何十年も経ったみたいなのに、その控えめな輝きは少しも褪せていなかった。
「我が妻よ。未来永劫、君と共にあることを誓おう」
掴んだままの私の左手の薬指に、クライヴはそっと銀の指輪を嵌めてくれた。……不思議ね。サイズは、まるで最初から決まっていたかのように、ぴたりと収まった。
「ありがとう、クライヴ。私を見つけてくれて」
「こちらこそ。……そこの君にも、感謝だけはしてあげようか。オリヴィアと私が出会えたのも、君の干渉があってのことだったからね」
手をつないだまま、私はそっと冥府の主様へと一礼する。彼は本来の姿であろう、やや小柄な異形に戻ったその姿で、どこか複雑な表情を浮かべながら私を見上げていた。
「……君のことを、諦めたわけじゃない。今回はそいつに譲ってやるだけだ。僕はずっとここにいる。君は廻る。時が来れば、また会えるんだから」
「往生際の悪い奴であるな……。その時は私も廻るに決まっているだろうに。まあ、好きに吠えているがいいさ」
クライヴはいつもの調子で肩をすくめながら、私の手をぐっと引く。「さあ、行こうか」と楽しげに促されて、私は小さく頷いた。
そうね。あなたが迎えに来てくれたのなら、もう、ここに留まる理由なんてない。
ふたりで輪廻の門をくぐって、また巡り合えたなら――今度こそ、生きている間にあなたと評論を交わしたいわ。ひとつの本を二人で読み合って、野を歩き、伝承を辿り、星を眺めながら語らうの。――きっと、とても素敵だわ、クライヴ。
でも、彼が歩き出したのは目的の場所とは……真逆の方向だった。
「お、おい! そっちは輪廻の門じゃないぞ! お前たちが行くべきなのは、あっちだろう!」
焦った様子で主様が背後から声を飛ばしてきたけれど、クライヴは振り返りもせず、さらりと応えた。
「何を言っているのだね、君は。ようやく冥府の国にまで来られたのだ。さっさと次の世へ渡るなんて、そんな勿体ない話があるものか。私たちはしばらくこの地を探索させてもらうよ。隅から隅まで調べ尽くさねばならんし、冥府の成り立ちから――何故、君のようなお子様が冥府の主など名乗っているのか、その謎も解き明かしてみせねばならんからな」
満面の笑顔を見せるクライヴに、主様は目を見開いている。
私はというと――ああ、また始まった、と苦笑をこぼすしかない。
「さあ行こう、オリヴィア! そして疲れたら、飽きるまで語り合おうではないか! 亡者の行く末とは何か。地獄の門は存在するのか――いやあ、楽しみであるな、オリヴィア!」
「ふざけるなああああ!! 今すぐ出ていけぇぇぇぇ!!」
主様の渾身の叫びを背に、クライヴは意にも介さず、ずんずんと歩いていく。
置いていかれないように。ずっと傍にいられるように。私はその背中を追って走り出す。
……こんな人、他の誰にも任せられない。
ずっと、ずっと、あなたについていてあげるからね。
そして、いつか。あなたをモデルにした本でも書いてみようかしら。
その時は冥府の主様にも読んでもらってもいいかもしれないわ。
ふふ。考えただけでも、楽しいわね。クライヴ――。
これにて完結となります。最後までお読みいただきありがとうございました。
本編では書く余地が無かった後日談として…。
クライヴを諦めたシンシアはクライヴの弟と結ばれ、五人の子宝に恵まれました。
ブレントン一家はそのうちに痣も薄れ、大人しく余生を過ごしています。
オリヴィアとクライヴはしばらく冥府に居つきますが、退屈がまぎれた主様もまんざらでもないご様子です。
評価と感想を頂けると次作の励みになりますので、是非よろしくお願いいたします。




