12 冥府の婚約者
彼とは、最後の別れの挨拶すら碌に交わせなかった。
朝焼けが差し込む中。私の最後の作品を読み終えたクライヴが、「どうしてこれを書籍化しなかったのだね、オリヴィア?」なんて言いながら振り返って――。
目が合った気がした、その瞬間に。
ふっと、意識が途絶えてしまったから。
気がつけば私は、濃緑の世界にぽつんとひとり。
どこまでも静かで、どこまでも深く――そしてどこか、懐かしい匂いのする場所だった。
目の前には、青白い炎が一つ、ふわりと浮かび上がっている。
その導きに逆らうこともなく、気がつけば私は、冥府の主を名乗る存在の前に座らされていた。
そして、クライヴと過ごした日々を――まるで語り納めのようにひとつ残らず話し終えた私は、静かに息を吐いた。
あの人も……私が消えたことには気づいたはずよね。
残された彼がこの先どうしていくのか、私にはもう分からないけれど……。
きっと、彼は本来の道へと戻るのでしょう。
そう。私というお荷物さえいなければ、彼はアシュウィン家にも復籍できるはず。
片手間に交易品を売りさばいて、弟さんにあれこれ押しつけつつ、執事さんの忠告を聞き流しながら――きっとこれまでのように飄々と生きていくに違いないわ。
もしかしたら、シンシア嬢と寄りを戻すことになるかもしれない。
あんなに可愛らしい人に好意を寄せられていたんですもの。
そのうち彼女の想いに絆されて、再び惹かれ合うことだって、あり得ない話じゃないんだわ――。
それは素敵なロマンス小説のラストシーンのようで。
ぽたり、と涙が頬を伝う。
――ああ、きっとこれが恋だったのね。
彼の傍にいるのがとても心地よくて。
彼の声を聞くだけで胸が跳ねて。
彼の語る世界に耳を傾ける時間が、何よりも尊いものだった。
誰にも愛されることなく、誰かを愛することも知らずに終えた生涯のあとに。
こんなにも濃密で、あたたかな想いを抱けるなんて。
――私は、なんて幸せ者なのかしら。ねえ、オリヴィア。
誰に感謝すればいいのかも分からないけれど。
私は確かに、幸せだった。
「……それで、君は未練を断ち切り、ようやくこの冥府に辿り着いた、というわけか」
「そう、みたいですね? ……ごめんなさい、自分でもよく分からないんです」
「ふむ。謝る必要はない。ただ……その男が気の毒にも思えてね」
「それも……どうでしょうか。ひょっとしたら悪霊から解放されて、清々しているかもしれませんよ?」
そっと涙を指先に絡め冗談めかして笑う私に、冥府の主は「それはなかろう」と、即座に言い切った。
その声は低く、そしてどこか底冷えするような響きを孕んでいて。
思わず、肩がびくりと震えてしまう。
……そういえば、この人はいったい何者なのかしら。
初めて会ったはずなのに、まるで旧知の間柄のように「ようこそ、オリヴィア」と迎え入れてくれた。
人間とは思えぬ異形の姿と「冥府の主」と名乗るその言葉に、私は疑いもせずにすんなりと受け入れてしまったけれど――。
語り口はどこか、クライヴによく似ている。
でもクライヴのはずがないと断言することも出来る。
あの人は――人のことを、こんな試すような目で見はしない。
自分の知的好奇心を擽るかそうではないか。良くも悪くもただそれだけの人だった。
「ええと……それで、私はどうなるのでしょうか。輪廻の門はくぐれるのでしょうか……?」
死後の世界についてクライヴが色々と教えてくれたけれども……。これといった信仰を持たなかった私がどうなるのか、まったく見当もつかなかった。
つい窺うように聞いてしまったけれども、あんなに好き勝手して、生者に散々干渉した挙句に手まで出してしまったんですもの。輪廻の門というものをくぐって新たに生まれ変われることなんて……できやしないんじゃないかしら。
困った顔でもしていたのかしら。主は苦笑を漏らしながらも、緩やかに目を細める。
「残念だが、君が輪廻の門をくぐることはないのだよ、オリヴィア」
「……それは、やっぱり私が悪霊だから、ですか?」
「いいや、ちがう。……君が私の花嫁であるからだ」
思わず、息を呑む。その言葉はクライヴにも言われたことであるけれど――違う。この人はクライヴじゃない。
「ひ、人違いではないでしょうか。どうして私が貴方の花嫁に……」
「物事全てに理由を求めるのは生者の悪い癖だと思わないか、オリヴィア? ……ただ、そうだな。かつて輪廻の門をくぐろうとした君の魂が、私にはとても魅力的に映った。だから印をつけておいたんだ。君が再びこの地を訪れたときに、決して見失わないようにね」
「印……? ごめんなさい、貴方が何を言っているのか私には――」
「……君の青痣については、本当にすまなかったと思っているんだよ。まさかそんな形で現れるとは思いもしなかったからね」
おもむろに身を乗り出した主が、私の顔へと異形の手を伸ばす。避けようにも、私の身体は何かに縛りつけられたように身動きが出来ないでいる。と、青痣が広がる目元から頬にかけて愛おしむような手が触れた。
「この印のせいで無用な苦労をかけさせてすまなかったね、オリヴィア。でももう大丈夫。この冥府において君を軽んじるものなどいないだろう。……安心したまえ。私は君が愛した男に、とてもよく似せられているだろう?」
「ち、ちがいます……クライヴは、こんな……」
「姿かたちも似せたほうが良ければそうしても構わないよ、オリヴィア。ああ……僕は君がここに来るのをずっと待っていたんだ。ここは、寂しいところだからね。いくつもの輪廻を繰り返し、数多の物語を紡ぎあげてきた君とであれば、きっと退屈はしないと思ったんだ」
うっとりと微笑む冥府の主は、両の手で私の顔を優しく包み込む。あまりにも情熱的な瞳を向けられて思考が麻痺していくうちに、特徴を掴むことのできない主の顔が近付いてきた。
「永劫とも呼べる時を共に過ごそうではないか、オリヴィア」
瞬きすら許されぬほどの間近、主の唇が寄せられようとした――その瞬間。
「――人の妻を寝取ろうとは、随分と俗に塗れているではないか、冥府の主よ」
ありえないはずの声が耳元をかすめ。
止まりかけていた時間が、音を立てて再び動き出す。
次の瞬間、私は背後から強く引き寄せられた。主の手を振り払うように、力強く。
重心を崩して転げ落ちそうになったところを、「おっと」と軽やかな声が受け止める。こんなところにいるはずもない人。見間違えるはずもない、私の愛した旦那様――。
「クライヴ……?! どうして、ここに?」
「君を追ってきたからに決まっているだろう。まったく……突然姿を消された身にもなってくれ、オリヴィア」
「追ってきたって……ここは亡者の国なのよ? あなた、まさか――」
――私を追って、死を選んだとでも?
そんな恐ろしい考えを否定してくれたのは、冥府の主の呆れ混じりの溜息だった。
「……まさか本当にまた来るとは思わなかったよ。天寿を全うしたんだろう? 愛する者を置いてきたのか?」
「その口調。もしも私の真似をしているのだとしたら、早々に止めることだな。耳障りで仕方がない。そもそも私が愛した女はただひとり――オリヴィアだけだ。置いていかれたのは、私の方なんだよ」
冥府の主の顔が歪む。わずかに悔しそうな色が浮かぶ。
「……嫌な予感はしていたんだ。オリヴィアには、まだ君との縁が残っていたからね」
「分かっていてなお人の妻を奪おうとするとは。だから未熟極まりないと言わざるをえないのだよ。……オリヴィアは、君のした悪戯のせいで散々な目に遭ったんだ。そんな相手を、どうして受け入れられると思う?」
「うるさい……! 最初に目をつけたのは僕の方だ! 後から現れたくせに……ただの人間如きが、僕からオリヴィアを奪うな……!」
子どものような癇癪を起こした冥府の主が、再び私へと手を伸ばす。
「お子様はこれだから困るな」と、クライヴが肩をすくめながら、私を庇うように一歩前へ出る。
その背中は、何度も見たはずの――私が最後に触れられなかった、あのときのままの彼だった。
震える指先を伸ばす。
どうせまた、すり抜けてしまうのだろうと思ったのに――。
私の手が、彼に触れた。
……確かに、触れられた。




