10 繋がる文字
耳を劈くようなラップ音と悲鳴が響き渡る中――私は手近にいた父の首を掴み上げた。
本来、生者に干渉できるはずのないはずのこの手で、父の身体はずるりと浮き上がり、足をばたつかせながら宙を泳ぐ。
「ぐっ……! やめろ、オリヴィア……! 私を殺す気か……!」
ぎちぎちと、首を締め上げる音。顔を真っ赤に染めた父の口端からは、よだれが垂れ始めていた。
逃げようとした母の髪を掴むと、ぶちぶちと音を立てて毛束が千切れ落ち、床に舞う。
あとは、怯えた目で私を睨む妹の姿だけ。
身体を震わせながら、それでも気丈に睨み返してくるその眼差しは――まるで小説の中に出てくるヒロインのような、美しさと強さを湛えていた。
――素敵よ、イザベラ。貴女は昔からそう。気が強くて、賢しくて、私に無いものを全部持っていたわね。
でもね。私の紡ぐ物語には……貴女の出番はもう残されていないのよ――。
泡を吹いた父を放り出し、今度は妹の頬へとそっと指を伸ばす。
触れた瞬間、私の手の形をなぞるように痣が浮かび上がり、「嫌っ!」という鋭い悲鳴が響く。
――この身体、乗っ取ってしまおうかしら。
胸の奥に、どろりとした黒い泥のような塊が堕ちようとした――そのとき。
「オリヴィア」
耳に届いたのは、愛しい旦那様の声だった。
「……気持ちは分かるが、そこまでにしておこうか。万が一にも君が悪霊になってしまえば、強制的に冥府に連れ去られてしまうかもしれない。そうなれば、君を私の傍に置いておくことができなくなる」
――クライヴ。
声にはならない私の呼びかけに、彼は深く頷いて応じてくれる。
「……さて、我が妻は大層ご立腹のようだ。彼女の怒りが鎮まるなら私はなんでもするつもりだが……たとえば、君たちも亡者の仲間入りを果たせば、下らぬ貴族社会とも綺麗さっぱり縁が切れる。悪くない話ではないかな?」
「そ、それは……」
「ふふ、冗談だ。随分と回りくどいやり口だが、要するに金が欲しいということだろう? 分かった、好きなだけくれてやる。あの屋敷も不要であろう? 家具も手をつけずに残していくと誓えるなら、相場の十倍で買い取ってあげよう」
言葉は穏やかだが、底冷えするような威圧感がその場の空気を支配していた。
「……ここが引き際だと思うがね。我が父君。これは言わば、手切れ金というやつだ」
「こ、このような顔では私は誰の元にも嫁げません……! どうか責任を取ってくださいませ!」
「生憎とオリヴィアと離縁する気など毛頭ない。それに……その性根では、顔以前の問題だろう」
その口調はあくまでも穏やかで柔らかい。
代わりに言葉の一つひとつが突き刺さるように冷たく、妹がなおも何かを言い募ろうとしたところで――彼はにっこりと、いつも通りの微笑みを向けた。
「もし、まだ言いたいことがあるのならば続けても構わない。だが――そうだな。そのときはオリヴィアの気が済むようにさせてもらおうか。……仮に彼女が冥府へ招かれたとしても、私もそこに行けばいいだけの話だからな」
――彼の覚悟が伝わったのか。あるいは、背後で浮かぶ人形の手に握られたナイフが目に入ったのかしら。
ブレントンの者たちは頬を引き攣らせ、腰を抜かしたまま這うようにして家を飛び出していった。
少し騒ぎすぎたせいかしら。外には野次馬が集まり始めていたけれど、彼らはそれを一瞥することもなく、靴を脱ぎ散らして逃げていく。
クライヴは彼らの背を見送りながら、観客たちに「騒がせて済まなかったね」と微笑み、玄関の扉をバタンと閉じた。
ようやく静けさが戻り、私も少しずつ冷静さを取り戻す。
あらためて散乱した室内を見渡せば――一番醜態をさらしたのは、間違いなく私だった。
なんて酷い有様なの、オリヴィア。こんなヒステリーな妻、彼にふさわしいはずがない。
クライヴは軽く肩をすくめると、床に散らばった本をひとつずつ拾い上げ、丁寧に本棚へと戻していく。
書物に傷がついていないかしらと気になりつつ、私はテーブルに残された指輪を取って、文字盤の上をそっと滑らせた。
クライヴが手を止め、指輪の動きにじっと視線を留める。
ご、め、ん。
いまの私には、それが精一杯だった。
けれどクライヴは、そのひと言だけでみるみるうちに表情を明るくさせた。
「――ああ、オリヴィア。君はまったく気にする必要なんてないのだよ。アシュウィンとの縁が切れれば、彼らも諦めると思っていた私の考えが甘かっただけのことだ」
そう慰めてくれるけれど、私の胸は苦しさでいっぱいになる。
私の家族がしたことは到底受け入れられるものではなかった。勝手に冥婚を押しつけたくせに、それを無かったことにして妹と結婚しろだなんて。どれだけ身勝手で、恥知らずなのかしら。
クライヴは雲の上の存在であるのに。
彼が垂らした蜘蛛の糸に群がる亡者こそ、あの人たちだったんだわ。
でも、それは私も同じこと。
彼が望んでくれるからと、烏滸がましくも現世に留まり続けている。
その糸にしがみつく自分がどれほど無様だったか――ようやく思い知った。
もう一度、文字盤の上を指輪が滑る。
クライヴはまるで光を見るように、その動きをじっと追いかけていた。
浮かび上がった言葉は――『かいほうして』。
「……それが、君の望みなのか」
『はい』
「私が君を手放したくないと言っても?」
『はい』
「……ふふ。頑なであるな。だが……そうか。君を現世に留めたいと願うのは、私の――エゴということか」
少し迷って、『いいえ』と答える。
――だって、それは貴方だけのエゴじゃないもの。
私も……心のどこかで、ずっとそれを望んでいたのだから。
貴方にとって私は、ただの研究対象に過ぎなかったとしても。
それでも。
それでも、貴方が語ってくれた愛の言葉は――たとえ方便でも、嬉しかったのよ。
「……オリヴィア。君はずいぶんと苦労してきたんだね。もっと早く出会えていればと。そう思わずにはいられないよ」
いつもは愉快そうに笑っている彼が、珍しく寂しげな顔を見せてそんなことを言うものだから――私は思わずぎょっとしてしまう。
確かに、今の一件を見れば何かしら察したのかもしれないけれど。
私の生い立ちなんて、彼には一度も話したことがないはず。なのに、どうして……?
「気づいていないのかな。それとも、分かってほしくてやっていたのかな。実はだね、私が寝ている間、君の思念が夢として流れ込んできていたのだよ。君の旦那は毎晩金縛りにあっていたわけなのだが――」
ふ、と冗談めかして笑う彼。
けれど、その眼差しは優しく、どこまでもまっすぐで。
私は言葉を失ってしまう。
「……ああ、責めているわけではないのだよ。ただ、もし気づいていなかったなら、勝手に覗き見てしまった私を許してほしいと思ってね」
――つまり私は、自分の半生を、夢という形で彼に見せてしまっていたということ?
それは……望んでいなかったことだ。
だって、あんな惨めな人生。誰にも知られたくなかった。
私の顔だって――見られたくなかった。
「……君の未練にも思い至ったよ。あの様子なら、君の生家も喜んで手放すだろう。正式な書面は早々に取り交わすとしようか。……万が一にでも、彼らには見られたくはないのだろう?」
その言葉に、私は何も言えなくなる。
……ええ、その通りよ。
彼の言うとおり、あれを見られるくらいならと思うと、死んでも死にきれなかったの。
だって――恥ずかしいじゃない。
私が綴った物語は、私だけのものだもの。
誰にも、特にあの家族にだけは、見られたくなかったのよ。
「君の創作物の処分。それが君の望みなのだね? もし私の思い違いであれば、ちゃんと訂正してほしい。……今の君なら、それもできるはずだ」
文字盤の上を、指輪が踊る。
『ありがとう』
それは、私が彼にずっと伝えたかった、偽りのない言葉。
最後まで文字を追い終えたクライヴは、「こちらこそ」と微笑んで、静かに頷いた。
眠ることのない私は、クライヴと過ごした楽しい日々をひとつひとつ思い返していた。
――きっと、もうすぐ私は、この現世から解き放たれる。
けれど、忘れないでほしいの。
貴方と過ごしたこの時間こそが、私にとって生涯でいちばん、幸せなものだったのよ。




