後悔流し
誤字脱字などありましたら連絡していただけると嬉しいです。
――なんでアイツは死んじまったんだ
後悔の念に苛まれがら今年も私はその場所に向かって歩き出していた。
ある年の冬の到来を感じさせるその日。私は所々にボロが出始めた年季の入ったジャケットを着て外出していた。その場所は自宅から遠く離れたとある田舎の駅を降り、そこから歩き始めて田んぼと畑に挟まれた道をさらに歩き、最初の曲がり角を左に曲がって少し歩いた場所。そこには一つの橋が向こうの山道までに向けて川の上にかかっていた。
「ごめんよ……見捨てて」
長さ十数メートル、高さ約三メートルに及ぶコンクリートの橋の上で私は今年もすり切れたビデオテープのように繰り返し嘆いていた。
(……今年もこの場所に来れた。あと何回来れるかな?)
顔に出来始めたしわの線をそっと指でなぞる。
私がいるこの橋の周囲にはビルもなく、店もない。建物といえば精々古くて白いレンガの壁に包まれた一戸建て住宅が所々に建っているくらいだ。他には田んぼや畑、加えて新緑生い茂る山が果ての内容に広がっている。
私が立っているこの橋は片方は私が来たほうの道、もう片方は山の森に囲まれた道をそれぞれ繋いでいた。森に囲まれた道の先にはかつて幼いころに私が住んでいた村があった。
(でも、もう見る影もないくらい寂れてしまったな)
生まれ故郷の村にはもう人は住んでいない。廃村となってしまったのだ。
最後にあの村を確認した時はボロボロになった家屋が数件残っていた。ひび割れた窓にその周囲を茫々と生える雑草の群れ。窓から飛び出すように草が生えているのを見るのはどうにも耐えられなかった。
持ってきた花束を橋の上から流れる川に向けて落とし、私は花が流されていくのをただじっと見ていた。
「こんなことしたって帰ってくるわけがないのにな……」
溜息を吐いて淀んだ雰囲気を纏った中、私は橋の下を流れる川を見ていた。幅は十数メートルの橋よりも小さい。しかしその川の長さが付近の山から海まで続いているほどの長さがあるというのを私は知っていた。
「アイツは……いったいどこに流れたんだ?いやどこまで流れて死んだんだ?」
ここでいうアイツとは私の幼いころの親友である。
半世紀以上前、私が子供の頃に亡くした友人だ。村一番の親友だった。
――いいか?川の流れは恐ろしいんだぞ!?ご近所のおじさんの兄貴はな、お前くらいの頃に川で遊んでた時に流されて溺れちゃったんだ。死んじゃったんだ!!だから川を舐めちゃいけない!!
まだ私が幼かったころの事。まだ生きていた父が川に遊びに行こうとした私に、剣を突き刺すような勢いで忠告したのを覚えている。まだ十歳にも満たない頃の記憶だ。私はその父の言葉を胸の奥に焼きごてが付いたかのように刻んでいた。
ある日の事。冷えた空気が秋の深さを示し始めた学校からの帰り道。
「なあ、蛍を見に行かないか?」
幼き私にそう提案してきたのは当時、村にいた親友だった。この親友というのは私と同い年で同じ学校に通う……といっても学校は全校生徒合わせて二十数人といった具合で二クラスに分かれてこそいたが、小学校低学年と高学年の二つのグループに分かれている程度で中学になったら山を下りて自転車で二十分のところにある中学までいかなければならなかった。そういった事情もあって村には子供はほとんどおらず、老人とそれを支える中年の男女が人口の割合を占めていた。
「蛍?何で?」
「すげー綺麗だって。近くのじいちゃんが言ってた。川のほとりに今日みたいな日にいっぱい来るんだと」
「えー?でも夜でしょ?それに川の近くって……」
「心配すんなよ。川のほとりといっても川よりじゃなくて道路寄りにある茂みだから。な?今夜行こうぜ?」
「行こうって言われても……」
私は正直乗り気じゃなかった。何分蛍ごときというのもあったが川の近くでしかも視界の遮られた真っ暗闇な夜というのがさらに嫌だった。
「でもうちの親がなあ」
「お前んちでっかい物置あったろ?昔かくれんぼでつかったやつ。あそこで寝てたってことにすればいいんだよ」
「ああ。あの物置?確かにそれならいけるかもしれないけど」
「なあ行こうぜ?一人だとあれだからさ」
――じゃあやめればいいじゃん
『一人だとあれ』と確かに言っていた。その言葉をよく思い返してみれば私が行かないというのなら親友も来ることはなかったのだろう。
「なあ頼むよ。あのひどい親は連れてってくれないしさ」
ひどい親。彼の両親は酷いというより私から見て鼻につくというのが正しかった。
村一番のお金持ちで村の全権を持っているという自負があるのか父の方はやたら威張り散らしていた。以前、私の家に来た時に私の両親が出迎えた。だが茶菓子にお茶と出したにも関わらず終始不機嫌に口に合わないだのどうだのと言ってきた。しかも彼が来た理由が新しい家電を買ったのどうだのという自慢話。そして極め付けはタバコだ。両親はタバコを吸わなかった。それで私の家には灰皿がなくてタバコを吸えないと分かった時、ひどく怒っていた。
――なんだ?自分達が吸わないからって用意してないのか?
客へのもてなしがなってないと言いたかったのだろう。鼻息鳴らす親友の父に、両親はただ申し訳ないと言っていた。
親友の母の方は、言うなれば教育熱心な母親だった。教師であった親友の母は朝焼けの見える頃に起きては教師としての仕事をこなしていたと親友は語る。息子である親友にも早起きをさせ、勉強をさせていた。後に聞いたのだが、こちらも父親同様に自慢話を周囲の人間にしていた。話題は勉強のできる息子に関する事が中心だった。そういえば、身に着けていた首飾りなどのアクセサリーも田舎の人にしては派手だったのを覚えている。似た者夫婦というヤツだったのだろうか。
さらに教育になると印象に残るエピソードが幾つかある。昼になれば学校に給食が来るのだがこれに対して厳しかった。親友が嫌いな食べ物を残すと平手打ちを何度もかまして罵声を浴びせて強引に食わせていた。成績が少しでも悪いとやはり平手打ちと罵声。その時の様子は低学年の子供が泣き出すほどだった。家でも勉強、勉強とろくな扱いを受けてなかったのだと親友は語る。何故この二人が結婚して子供を産んだのか。それが私にはどうにもわからなかった。
――うちの親おかしいよ。なんであんな振る舞い出来るんだよ
そうぼやいていたのを覚えている。親友はそんな両親から離れたいと常に思っていた様で、少しでも親から離れて冒険がしたいのだろうと私は思っていた。
「両親にしかられるよ?」
さて、話は蛍を見に行こうと提案する親友の話に戻る。
「大丈夫だよ。今日酒を飲むって言ってた。あれ始まるとうちの親、俺の方なんて興味なくなるからさ。母さんは明日あるから程々だけど父に付き合わされるから多分夜までっていうか……まあ要は明日の朝までは気づかれないと思う」
「そうなの?」
正直言えばこの時は親友の味方をしてあげたかった。というのも親友は母の影響もあってか、成績が良かったのでよく勉強や宿題を一緒にしていた仲でなりよりただ一人の同い年の友人だったから。それでも川に対する恐怖はあった。
「そうだ。来てくれるんならアレやるよ。お前の欲しがってたあのカード。どうせ二枚あるし」
「え?本当!?」
だが私はまだ子供だった。それがいけなかった。
当時流行だった特撮ヒーローのカード。私にはそれが欲しくてたまらなかった。しかし親に何度も頼み込んでも首を縦に振ってもらえず、結局一枚も親からは買ってもらえなかった。
「でもどうして持ってるの!?」
興奮気味に私は親友に尋ねた。この近くで売っている店なんてなかったから。
「親戚のおじさん夫婦が買ってくれたんだ。こっそりとね」
「親戚のおじさん夫婦ってこないだ言ってた都会のほうに住んでるっていう?」
「そうそう。ちなみにこないだお前にあげたベーゴマもおじさんから貰ったんだ。誰かに渡して一緒に遊べって」
「そうだったの?」
「うん。でも、おじさん夫婦のことをうちの親は都会に魂売っただのこの村見捨てたとか言ってるけどそうは見えないよ。だって見てみろよ」
親友がそういって辺りを見渡す。家、田んぼ、田んぼ、畑、家、畑、畑、田んぼ……。覚えている限りの風景が確かならば、その時の辺りの雰囲気はのどかで喧噪さは一切感じられない場所であった。だが裏を返すと退屈だということであり、親友は苦虫をかみしめた顔をしていた。
「おじさん、言ってたよ。ここにいてばっかじゃダメだって。でも都会はすごいんだぜ?おいしいお店だっておもちゃだって沢山ある。本当なんで俺、おじさんの子供じゃなかったんだろうな」
「それはわからないよ」
「なあ、どうだ?今夜?」
「……わかった」
なにが『わかった』だ。
最悪の選択肢を流れに任せて踏んでしまっている自分が確かにそこにいた。
その日の夜。幼い私は家をこっそりと抜け出した。
両親はテレビに夢中だった。あの日の両親は歌謡ショーの後に時代劇とそれらを立て続けにセットで見ていた。なのでそのまま真っすぐに家を出て川まで走った。時間は数分とかからなかった。
「お、こっちこっち」
夜。住宅の並ぶ通りを抜けて曲がりくねった道路を少し歩いた先に川はあった。道路から川に向けて設置された階段を下りた先に親友はいた。野球チームのマークが入った新品のつば付き帽子を被っていた。
「蛍は?」
「ああ、あそこ――」
親友が指を差した先の光景に私が視線を移した瞬間、私の心は奪われていた。
「すっげ――」
「しーっ!でかい声出すとばれるって」
口を押えられて我に返る。小さく『ごめん』と言って改めてその風景を見る。
川の近くにある茂みには無数の輝きが宙に浮いていた。淡い緑色の輝きを幼い私は何とたとえていいのかわからなかった。ダイアモンドのような宝石の見せる輝きとは違い、電気の輝きとも違うその無数の蛍が見せるその輝きに私はただ飲み込まれていた。
「な?すごいだろ?」
「あ……うん」
来てよかったと思っていた。この時までは。
「なあ。ちょっと近づいてみないか?」
「危なくない?」
「え、なんで?」
「だって近くに川流れてるよ」
そう。近くには川が流れていたのだ。
「大丈夫だよ。茂みの反対側にまでいかなければさ」
そういって友人は茂みに近づいた。確かにそれなら大丈夫だろうと思い、私も彼に続いた。茂みの中の蛍たちは私たちのような大きな存在が来てもただただ輝いており、変わらぬその輝きに私も友人も興奮していた。
「あ、見ろよあそこ!」
友人は今度は川の向こうにある森を指さす。そこにもやはり蛍はいた。しかもその茂みにいる数よりもはるかに多い。
「すげぇ……」
さらなる輝きの群れが私の心をとらえて離さない。
「行ってみようぜ」
「危ないよ。川の近くだよ?」
「大丈夫だって。あそこの水辺から渡ればいいよ。そこらが浅いからさ」
「でも暗いよ?」
「何言ってんだよ。カードあげないぞ?」
「……わかったよ」
渋々であったが私は川を渡ることにした。
親友の言う通り、浅い場所であった。靴が少し濡れたが、そんなことはどうでも良いくらいに渡った先でまた私たちは心を奪われた。
「うぉー……こりゃ凄いな。都会じゃぜってーみれねーよ!」
先ほどの川辺よりもっと多くの蛍が私たちを迎えた。辺りは都会のネオンサインよりも遥かに綺麗な光を灯し、それでいて喧騒もなく落ち着いた雰囲気がその場に満ちていた。
「でも都会のほうがまぶしいって聞くよ?」
「そのまぶしさとは違うさ。これはもっとこう……そうゲンソーテキってやつだ!」
「はあ……」
幻想的というのが当時の私にはよくわからなかったが、とにかくその光景は素晴らしいものだとは思っていた。
森の奥に足を運ぶ友人。私は友人よりもその森の方に視線を奪われていた。蛍のいる周囲は確かに綺麗だ。でもその奥はただただ暗闇が広がっていた。
「危ないよ。もう引き返しなよ」
「大丈夫だって」
親友は冒険というのが好きだった。こんな話がある。彼は前の夏休みに遠くに行こうとして家から隣町まで自転車を漕いでいた。その途中でおまわりさんに注意を受け、家まで戻された。ちなみに当然彼の両親にもこの出来事は行き届いており、こっぴどく叱られたらしい。
「足滑らせたらやばいって」
「じゃあ帰れよ」
再三にわたる私の注意が気に食わなかったのか友人は突然火のついたように怒り始めた。その時になったらもうカードのことなんてどうでもよくて私は――
「じゃあ帰るから」
そう言って彼の近くから離れる。
「カードあげないぞ」
「いいよもう」
「臆病者め」
その言葉に間違いはなかった。私はとんだ臆病者だ。落ちる可能性なんて殆どない。それでも万が一、向かいの川に落っこちて死んでしまう可能性が胸の奥でふんぞり帰っていたのだ。
「ホントに帰るからね?」
「いいよ」
そっけない返事に幼い私はむっとして気が付けばその場を離れていた。
家に帰るのにはさほど時間がかからず、家の扉をこっそりと音を立てずに開けて両親のいる居間にそっと帰った。
「何見てるの?」
「歌謡ショーだよ。母さんの好きな歌手出てるぞ」
まるで初めから私はずっと家にいたかのように父に向けて話しかける。母はその近くでお茶を飲んで父と一緒にテレビの歌謡ショーを見ていた。溶け込むように私もそれを見始めた。
そして夜は過ぎて翌日。大変なことになった。
「どなたかうちの子を見ていませんか?!」
学校に着くや否や教師でもある親友の母が慌てふためいて生徒たちに問いかけた。
「家に――」
ぽつりと私が言いかけたその時、悪寒が走った。このままだと夜に遊びに行ったことがばれるかもしれないと。親に叱られると思い、自然に私の口は閉じていた。
「あの、家に帰ってないんですか?」
そう言ったのは私ではなく当時の上級生の男子。心配そうな声であった。
「そうなのよ。家に帰って夕飯食べてからどこにもいなくて……心配でそれで――」
顔がぐしゃぐしゃになっていた親友の母を見て私は固まった。普段は好き嫌いにも成績にも厳しい視線を光らせてばかりのその教師がこんなにもしおれてやつれている。周囲の生徒と教師はそんな彼女を見て哀れみの目を向けていた。
――きっと俺は両親に愛されてないんだよ
いつの日か、そうぼやいた親友の言葉を思い返した。
(なにやってんだあいつは……!!)
両親は完全に子供が嫌いではなかったのだ。
その日は授業どころではなくなった。すぐに村中総出で親友の捜索を試みた。
私はすぐに川の近くに行った。川についた私は辺りと最後に別れた森に入って彼を探した。しかし彼はどこにもおらず、結局最後まで見つかることはなかった。
――神隠しじゃないか?
誰かがそう言った。しかし神隠しというにも村にはそういう土着神はいない。
――家出したんじゃないのか?
それはあり得た。しかし家出したのならよくて隣町にいるはずだ。それ以外に行き着く場所があるというのか?
――川に流されたんじゃない?前からホタル見たがっていたし
村人の大人が静かに呟いたその予想に私の心臓は強く脈を打った。同時に全身から嫌な汗が噴き出していた。もしこの川に落ちていたら大変だ。私が見た川はただ流れる水の音を鳴らしているだけだった。
「おーい、川の近くにこれ落ちてたぞ!」
大人の一人が川の近くで帽子を掲げてやってきた。あいつの被っていた帽子だった。
「あ、これあの子の帽子じゃない?ずいぶん濡れてるわね」
「ああ。川辺の近くにあったんだ――」
話を続ける大人たち。幼き私は理解してしまった。アイツが川に流されたということに。
(どうしようどうしようどうしよう――)
何か恐ろしいものに掴まれた私はそのまま一人家に帰って布団にうずくまって震えていた。まるでお化けでも出そうな常闇の夜を怖がる小さな子供のように。
(僕のせいだ。僕があの時一人で帰るって言いだしたから。帰っちゃったから。だから死んじゃったんだきっと)
川に流されて死んだ人の話を思い返す。そしてその日以降、親友は姿を見せることはなかった。そして村は彼が川に流されて遠くに行ってしまったと、死んでしまったのだと結論付けた。
それからしばらくして一週間後のこと。信じられないことが起こった。親友の家が火事で燃えてなくなったのだ。親友の両親は焼け跡から遺体で見つかった。子供が事故でいなくなった。それが原因で自殺したとされている。
(僕のせいだ)
私の心に突き刺さった十字架はより一層不覚に突き刺さっていた。誰も知らぬところで私は一人で怯えていた。私が親友を殺した。人殺しでしかもさらにまた二人が死んだのだ。
――そうだ。全てお前が悪いんだ。欲に駆られて冒険に出たお前が悪い。自分の都合で見捨てたお前が悪い。泣いた母親に知らんぷりしたお前が悪い。更に人が死んだのもお前が悪い。親友を殺したお前が全て悪い!!
心の奥底から私を糾弾する声はこの時から始まった。
それからの日々は酷いものだった。
私は故郷を親の仕事の都合で離れることになり、やがてその村は廃村となる。苦い思い出のある場所から完全に離れた。
だが嫌な思い出は結局のところ、私の胸中に永遠に居座ることになり、それからの日々は重く苦しい日々だった。
親友を見殺しにした十字架は消えなかった。
親友殺しの私に友などできるわけないとそれからの学生生活は孤独に過ごしていた。親しく話しかけられても汚いものを水に流すように生きていき、そうやって卒業までを過ごしていた。
やがて社会人になって工場勤務が始まっても暗い性格なのは変わらず、私は黙々と生産ラインで仕事を続ける日々を送っていた。目の前の作業に集中し、まるで機械の一部になるようにして生きることで心の奥底の嘆きから耳を塞ごうとしていた自分がそこにいた。
――お前は結婚しないのか?
工場勤務を務めて数年、老いた父に問われた。無理強いはしないと言われたが結局いつかはばれるであろうその後悔が胸から消えない限り、私は結婚しないと決めた。人殺しの妻、息子、娘。いつかはそうやって呼ばれるであろうありもしない他人に気を配っていた。そうして両親が死んで一人ぼっちになって幾千もの夜を超えていった。
ある時私はふと思い立ってこの川の近くに足を運んでみようと思った。もしかしたら生きているのではと。しかし川の流れは絶えず変わらずそこにあった。
(もし、生きているのであれば報告や連絡があるはずだ。それがないということは……)
淡い希望か罪が消える瞬間を願って私はこの川にいつしか毎年足を運んでいた。親友が消えた日に。
ジーンズのポケットから一つのおもちゃを取り出す。ベーゴマと呼ばれる鋳物のおもちゃだ。三つ巴の文様が描かれたこれも、親友から譲ってもらったおもちゃの一つでよくこれで一緒に遊んでいたものだ。
「……ああ。もう五十年近く前か」
私の後ろを一台の車が通り過ぎた時、悠久たる時の流れに身を任せて流れた時間を思い返していた。すでに私は定年間近で退職までのカウントダウンが始まっていた。
「ごめんよ。見捨ててごめんよ。でも死ねなかったんだ。俺、こうしているだけで精一杯でこれ以上どう償えばいいかわからなくて……」
涙を流し始めた私に川は何も答えない。ボロが出始めた上着に色あせたジーンズ、顔は痩せこけて白髪も出始めたこのいで立ち。そして何もなかった人生こそ親友を見捨てた私にふさわしい容姿と生き様だろう。
(このまま飛び降りてしまおうか……)
「すみません」
突如横から声が聞こえた。いつの間にか私の隣に人がいた。男性だった。見た目は身なりがいいというのだろう。新品のジャケットにジーンズを履き、髪の毛も私と違って黒く若々しい。
「なんでしょうか?」
「その手のベーゴマ……もしかして――」
「え?……あ」
声のトーンというべきか、直感で分かった。あの日消えたはずの親友だと。
「あーやっぱり君か。おひさ」
開いた口がふさがらなかった。固まっている私に気さくにその親友は語りかける。
「……なんで生きてるの?」
「え?ああ何も聞いてない?君のお父さんから」
そして友人は全てを語った。私はいまだに固まったままだった。
「俺さ、家出したんだよあの日に。お前と別れてから。帽子もなくしちゃったし。なんていうかさ、お前がいなくなってそれで嫌気がさしたって言うの?家帰っても両親にばれて怒鳴られて蹴られるだろうし、それで隣町までの道を夜歩いてたの。で、町についたら偶然クルマに乗っていたおじさんとおばさんに出会ってさ。事情をざっくり説明したらしばらく家に預けてもらえるって言ってくれてね。で、一週間くらいその家にいたんだよ。そしたら両親が死んじゃって。自殺って聞いてるけど多分どっちかがどっちかを殺して家に火つけたんだろうなっておじさん夫婦言ってた。まあ今となっちゃどうでもいいけどね。それで俺はおじさん達の子供になったの。戸籍とか細かいのは全部おじさんがやってくれた。それからは楽しかったぜ。田舎育ちだったから体力あってかけっこ早くてちやほやされて勉強だってお手の物。おじさん達はいい成績とった俺にいっぱいご褒美でおもちゃとか買ってくれた。その勢いで一流の高校入って一流の大学へ。仲間と楽しい生活を送れて幸せだったよ。そうそう、大学の友達の一人が今もテレビで映ってたりするんだぜ?俺も負けないようにいい会社に入って毎日汗を流して働いたさ。働いたお金でおじさん夫婦にご飯おごった時もあったよ。んで、結婚したときはおじさん夫婦にいっぱい祝福してもらえた。美人のかみさんが来てくれたって大喜び。会社も俺の成績よかったからボーナス沢山貰ってさ。さっきの車見た?あれも去年のボーナスで買ったのさ。ホント順風満帆ってヤツだ。それから、子供も二人授かったんだ。兄と妹で二つ離れてて。これがもう可愛いのなんので……」
――ああ、間違いない。目の前にいるこいつはあの時死んだと思ってた親友だ
昔、家に来た親友の父と同じように自慢話を機関銃のように話を繰り出す親友を私は止めることができなかった。死んだと思っていた人間が生きていた。それがなにより信じられなかった。
「お前はどうだ?元気だったか?おじさんには俺が生きてるって連絡してほしかったんだけど……その様子だと知らされてなかったみたいだな。いやあおじさんも人が悪い」
自分の楽しい思い出を語る口に私の身体は何か恐ろしいモノに包まれている気がした。
――私の半世紀以上の、いや私の十字架は偽物だったのか?
そう思った時、十字架は幻影となって消えて心の傷が癒えると思ったその時だった。
――じゃあ私の悔恨の人生は何だったんだ?孤独の学生生活は?誰も傷つけたくない理由で結婚を避けたのは?父と母に申し訳ないと思いながら生きていた人生は?お前への五十年以上の罪悪感はなんだったんだ?!
そうして私の人生がまるで走馬灯のように繰り出されている横で――
「なあ。大丈夫か?お前何があったんだ――」
親友に心配そうに声を掛けられた。
それからしばらくの時が流れた。一分、一時間。一日とまではいかないその合間。気づけば親友はいなかった。
(……え?)
初めはそう思った。さっきと変わらぬ川の流れがただ聞こえるだけで私は何か疲れているだけだと思っていた。
「……ん?」
両手は橋から川の方に突き出ていた。
「何やってんだ俺は?」
ここ最近は特に疲れがたまっている。何分定年も近いので体力も何もかもが落ちている。とにかく家に帰ることにした。
「あー……本当にどうしたんだか。疲れたのかなぁ」
真っすぐに駅を目指す私は曲がり角を曲がった。一台の黒い車が道路脇に止まっている。
「あ……」
違う。幻じゃなかった。現実だ!
車のライトが日光に当り、目のようにギラリと光る。
――見ていたぞ。今の行いを
車がそう語るように見えた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫んだ私はそのまま家に向かって真っすぐに走った。全身から汗を拭きだしながら。駅に着くと電車はまだかと左に右に首を振って電車の到来を待った。そして電車が付くとすぐに入って席につき、まだかまだかと発車を待った。電車が動いて最寄り駅までにつくまでに私の心臓は激しく脈打っていた。そして電車が駅に着くとそのまま走って一目散に自宅のアパートを目指した。風になったようにただ駆け抜けた。駆け抜けた先のアパートに入るとそのまま自宅の部屋にまで走って入った。
――なんでアイツは生きてたんだ
そう思いながら私は部屋の布団に飛び込み、果て無き夜を怖がる子供のように布団の上で毛布で全身を覆ってただ身を潜めた。
あの日のように、私は後悔の念に苛まれた。
あの川には二つ目の後悔が流れ始めていた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
本作はタイトル通り、後悔をテーマにした作品になります。
主人公が無邪気な選択によって生まれた取り返しのつかない後悔によって人生が擦り切れ、枯れて、最後に知った真実に大きく爆発したそれがまた新たな後悔を生んだ……そんなお話でした。
もしよければ恐縮ですがレビューなどしていただけると大変喜びます!!
また次回作でお会いしましょう!