解放された娘
「あの、あなたの名前は?」
町娘のルーとしては、レオンハルトの名前を知らないことにルシールは思い至った。
レオンハルトは伝えた名前を忘れられたのかと思い一瞬寂しく感じるも、今アデライード嬢はアデライードではないことにしたいのだと推測する。アデライードでもルーでもどちらでもいいから、偶然に出会ったこのチャンスを無駄にしたくないと思う。
「私の名前はレオだよ。よろしくね?」
レオンハルトは右手をルシールの方に向かってさっと差し出す。
(これは握手してってこと…!?緊張するよ…!)
ルシールはレオンハルトの右手にそっと自身の左手を合わせる。レオンハルトの手のひらは硬く、何らかの武芸に励んでいることが想像される。自分自身よりも冷たい体温が心地よい。
「レオ、よろしくね!」
今日は1人の町娘として楽しもう、そう思ってルシールは本来の自分に近い振る舞いをすることにした。
レオンハルトも恐らくアデライードではないと思っているのに違いない。
「今日は何をしに来たの?」
「朝から何も食べてなくて、お腹がすいてて…」
「それは大変。お勧めのお店があるから、行こう」
レオンハルトは繋いだルシールの手をぎゅっと握りしめ、軽やかに歩きだす。結ばれた手は温かい。
※※※※※※※※
レオンハルトがルシールを連れてきたのは、所謂大衆食堂だった。ちょうど昼時だったからか、店内は賑わっている。幸いにして、2人席に向かい合わせで座ることができた。
「ん〜!美味しい〜!」
ルシールは『伝説のステーキ〜野獣の饗宴〜』を口にする。伯爵家の優雅な食事とは違って濃厚な味わいで絶品である。思い切って食べたいものを注文して良かった。ルシールは自然と満面の笑みになる。
ルシールの屈託のない笑顔に見とれてしまって、レオンハルトの食事の手が止まる。
「レオどうしたの?」
「何でもないよ。私が頼んだビーフグリルも美味しいけど、食べてみる?」
「いいの!レオのも食べてみたいと思っていたんだよね!ありがとう!」
レオンハルトがフォークに乗せたビーフグリルをルシールは躊躇なく口に含む。
「う〜んこっちも美味しい〜!最高だね〜!ん?レオ顔が赤くなってる!暑いの?そろそろ夏になるもんね!」
ルシールの行動にレオンハルトは動揺してしまった。
伯爵家のお嬢様がお忍びではあるものの、俗にいう『あ~ん』を受け入れるなんて…もぐもぐと動く口元が可愛らしい。照れくさくなって頰が染まる。
(カッコいいところを見せたかったんだけど…、この子といるとペースが崩れる、困ったな)
レオンハルトの動揺を余所にルシールは食事を楽しむ。
※※※※※※※
ステーキの後に、ケーキも食べたりして大衆食堂で長居をしてしまった。お店から外に出ると、日差しが優しくなっている。あまりにも遅く帰ると、伯爵夫人にお叱りを受けるかもしれない。
ルシールは伯爵夫人のことを思い出し、怖くなった。
「もう家に帰らなくっちゃ!」
「家まで送るよ?ヴィラ伯爵邸ならこっちから行くと近いよ」
「ヴィラ伯爵邸…!?」
(もしかして…!私がアデライードお嬢様って気がついてるんじゃ…!?)
ルシールはその可能性に気が付き、青ざめる。
「私が舘まで行くと、伯爵家の人に気が付かれて望ましくない?近くまでにしよう」
レオンハルトが歩き出し、ルシールはその後を追う。
ほどなくして伯爵邸が視界に入ってきた。
レオンハルトは立ち止まって、ルシールに告げる。
「ルー、今日は会えて嬉しかった。アデライード嬢の時ではない、自然体のルーと過ごせて良かった。」
「あっ…はい…」
「この国に滞在している間に、すべき用務があってなかなか会いに来れなくてごめん。なるべく時間を作って会いに来るから。またね?」
レオンハルトは、ルシールの柔らかな頭頂部をそっと撫で、颯爽と去っていく。
(頭ポンポンされた〜!!!)
ルシールの鼓動は早まる。