9話
――王都郊外にある剣技練習場。使い込まれた藁の打ち込み人形や、傷が目立つ的が見守る中、今宵の満月によく似た金髪の少年が一心不乱に剣を振るっていた。
容姿こそ恵まれている少年であったが、貴族階級に属している彼の環境下ではルックスの良さなど全くの没個性である。中流貴族生まれ、勉学も剣技も全てが並。上を見れば果てしない財産と才能を持った社会的強者達、下を見たとて一般的な王都庶民より贅沢な暮らしを満喫する下流貴族の成功者達。
つまり、この世界において自分は特筆するべき点が無い、全く持って平凡で、死のうが消えようが世間的には全然気にされない、無として扱われても致し方ない“普通”の存在であったのだ。
だからこそ彼は剣を振るい続ける。数ヵ月後に行われる“聖剣継承戦”で優勝し、勝利と栄光、そして聖剣を掴めるように、何度も血豆を潰し、身体の感覚が無くなるまで、ただひたすらに剣を振るう。
自分を馬鹿にし見下した社会的強者の連中を越えられるように。強者に媚びへつらい、下の立場である自分に厳しく当たる中途半端な身分と人間性しか持ち合わせていない父親を見返せられるように。まだ幼い弱者である妹が、自分のような蔑まされる存在にならないように。
「……なるんだ! 絶対になるんだ! 聖剣の勇者に俺がなるんだッ!!」
そして何者にもなれず、ただの凡人である自分が、皆の英雄である聖剣の勇者になれるように。月のスポットライトに照らされ、人形や的に見守られながら、少年は剣を振るい続けるのであった――。
――パチン。
軽くて淡い、そんな音でカニーロの意識が戻る。ゆっくりと目を開けると、己を誇示するためだけに選んだシャンデリアが彼を嘲笑するかの如くに光り輝いていた。
自分が何故倒れ込んでいるのか、全く持って状況が理解出来ないカニーロ。取り敢えず上体を起こそうとしてみるが、不思議なことに彼の身体は一切動こうとせず、まるで糸を全て切断され動かせなくなった操り人形のようであった。
一体自分に何が起こっているのだろうか。記憶を巡らせようとした時、その行為を遮るように頭に響く酷い痛みと吐き気を催してきた。
血管が血を巡らせる度に頭に亀裂でも生じたかのような痛みに襲われるカニーロ。その時、ズキズキという痛みのリズムと同じリズムで、硬い革靴の音が此方に向かってくるのが聞こえて来た。
「――おはようございまぁす。何だか随分寝てましたけど、良い夢でも見られたんですかぁ?」
シャンデリアに一つの影が差し込む。黒い学生服と黒髪のムラヤマが風船ガムを膨らませながら、倒れ込み動けないカニーロを上から見下ろしてそう言った。勿論、いつも通りのニコニコ笑顔で。
「…………ムラヤマぁ! 僕に一体何をしたんだ!?」
唯一まともに動く口でムラヤマに問うカニーロ。彼女はガムをポケットから取り出したティッシュに包みしまい直す。そして次はキラキラなシールが沢山張ってある小さな手鏡を取り出してカニーロの顔を映してあげた。
「どうです? これで思い出しましたかぁ? 私がカニさんに、どんなことをしたのかを」
鏡が映したソレに、カニーロは文字通り絶句した。映っていたのは完璧な比率だった鼻が無様にへし折れ、何とも間抜けに血を流している自分の姿だったからだ。
ここでカニーロは思い出した。あの時、自分の背中をちょんちょんとガキのイタズラのように指で突いてきたムラヤマに光の剣で止めを刺そうと目論んだ。しかし、振り返った瞬間、ムラヤマの恐ろしく鋭い、しなやかで重い蹴りでカウンターを決められてしまい、そのまま吹き飛んだ後、意識が遠のいていったことを。
「く、くそ……! ふざけやがって……!」
カニーロは気力を振り絞り立ち上がろうとするも、出来ない。自分がどれだけ優れた人間であるかを饒舌に、悦に浸りながら語っていた男が、今は碌に身体も動かせず焦り散らかしている。そんな様を見て、ムラヤマのニコニコ笑顔が、本日最高潮を迎えた。
「うふ、うふふ、うふふふふ……! さぁて、カニさんが自分の現状を理解したことですし、そろそろ始めちゃいましょうか。待ちに待った“スペシャル楽しい殺り方”を」
そう言ってムラヤマは両手を後ろに隠し、じゃじゃーんっ! と最早お馴染みのセルフ効果音と共に道具を取り出す。片方は一般的なハサミより持ち手が太く、刃先が緩やかにカーブしている形状の物。そしてもう一つは先端が細長いスプーン状になっており、もう一方は耳かきのような形状をしている物だった。
「今回のスペシャル楽しい武器はコレです! “蟹用ハサミ”と“蟹用スプーン”! 今回の標的が“カニっぽい”お名前だなぁって思った時から、ずっとコレで殺したかったんですよねぇ!」
ハサミを動かしながら、チョキチョキと楽しそうに口ずさむムラヤマ。
「こっちのハサミは、骨とかお腹とかをちょっきんする時に使って、こっちのスプーンでお肉とか臓器とかをほじほじしちゃいます! あっ! カニと言えばやっぱり“カニ味噌”ですよねぇ……! 本物の蟹さんは茶色くて本当にお味噌みたいですけど、こっちのカニさんはどんな色をしてるのか。今からとっても楽しみです!」
子供のように無邪気に笑いながらも、常軌を逸したでは到底済まされない、悪魔でも理解を拒むであろう言葉を口にするムラヤマ。ここでカニーロは悟ったのだ。ムラヤマは強者でも弱者でもない。そんなヒエラルキー的枠組みから外れている、神でも悪魔でもない。“圧倒的狂者”だということに。
そんな狂者の手がゆっくり、ゆっくりと自分の顔に近づいてくる。手には自分を“楽しんで”処する為に用意した道具を持ち、これから沢山遊ぶぞと言わんばかりの満面な笑みを浮かべながら。
近づいてくる度にカニーロの心臓が忙しなく鼓動を立てる。荒く短い呼吸を繰り返し、瞳には自然と涙が浮かんできた。確実に近づいてくる死の魔の手に聖剣の勇者であった陰すら殺され、今はただ恐怖に怯る矮小な生き物に成り果ててしまったのだ。
「ま、待ってくれ! 僕の話をきいてくれ!!」
そんな矮小な生き物は生に縋りつく為必死な叫ぶ。しかし、忍び寄る死の手は止まらない。
「ぼ、僕には夢があるんだ!! 絶対に叶えたい“大切な夢”がッ!!!」
そう、カニーロには夢がある。聖剣の勇者としての地位と今のコネを利用し政界へ進出する。そして政界のトップへ、ゆくゆくは王族の仲間入りを果たし、この国自体を掌握することだった。その為ならどんな行いだってやるし、実際にどんな行いもやってきた。
何故なら夢だったから……! それが“ずっと”カニーロの夢だったからである……!
「なぁ、頼むよ! 金なら幾らでもあるんだ!! 君が望む額を望み通りちゃんと支払う! ロキ! ロキにもちゃんと頭下げて謝るから!! 頼むからもう止めてくれよ!!! ムラヤマさ――」
彼女の名前を叫び終わる前に、カニーロの視界は絶望の闇に飲み込まれた。ムラヤマが手で彼の顔を思い切り押さえ込んだのである。
そんな中、カニーロは自らの首筋に何かが当てられたのを感じた。細身で鋭利で、そして冷たい死の感触。“ソレ”の答えが分かった途端、彼の顔面は震える。カチカチと歯が音を立てる。おおよその人間は体験しないであろう“殺される恐怖”が、彼の心を殺していく――。
「そんなお願いされても止めるわけ無いじゃないですか。だって私――」
――殺すの、大好きですもん。
闇の中から聞こえて来た声に、カニーロは声にならない叫びを上げる。しかし、少しずつゆっくりと死の感触が自分の首に侵入していくのを確かに感じた。
「じゃあまずは、長くて退屈でつまんないお話しか出来ない、声から殺しちゃいますね――。はい、ちょっきん」
プロフィール
ムラヤマさん
実は本物の蟹よりカニカマ派。理由は赤と白の部分を綺麗に分けたり、一本一本丁寧に剥いでみたり、口でうみょーんって剥がしたりして食べるのが好きだから。