11話
――ねぇ、そろそろ目を開けていい?
ある日のロキとハウの診療所にて。調理場と一体化された小さな食卓では温かい小さな幸せの雰囲気が広がっていた。
「えへへ、まだ開けちゃ駄目! だってロキの目をつぶってるお顔面白いんだもん!」
そんな部屋で楽しそうにロキの顔を見つめている幼子の姿がある。モフモフの白い尻尾を揺らし、可愛らしい獣耳をぴょこぴょこと動かしているのは、獣人娘のハウであった。
「えぇ……。意地悪なこと言わないでよぉ。お願い、目を開けさせてよ。ね?」
「仕方ないなぁ。はい! もういーよ!」
明るく元気いっぱいな声にそう言われ、ロキはゆっくりと瞳を開ける。まず目に映ったのは、キラキラと輝く金色のビニールテープと沢山の風船で飾り付けられた食卓であった。そして次に屈託のない笑みで自分に微笑みを向けているハウの姿があり、最後に彼女がこちらに差し出してきている画用紙に目が留まった。
そこには様々な色のクレヨンで一生懸命描かれたイラストがあった。緑色の草原には赤と白のお花が可愛らしく咲いており、青色の空には灰色の雲がニコニコ笑顔で楽しそうに浮かんでる。余白には大小様々なピンク色のハート、そのイラストの中心には仲睦まじく手をつなぎながら世界で一番幸せそうな顔の二人の絵が大きく描かれていた。
そして彼らの後ろには所々スペルミスや文字自体の間違いがありながらも、筆圧の強い黒で書かれた“ロキとハウの診療所”という看板が付けられた建物があったのだった。
「お誕生日おめでとう!! コレ、ハウからのプレゼントだよ!」
あまりにも美しすぎるその名画を前に思わず言葉を失うロキ。そのまま無言で受け取り眺めていると、胸がざわつき始める。目頭が熱くなる。自然と涙がこぼれ落ちていく。何故だろうか。勿論、こんな素敵なプレゼントを貰って感動しているのもある。
しかし、それ以上にハウが見ている世界がこんなにも幸せに満ちていること。その中に診療所や自分が含まれていることがどんなことよりもとてつもなく嬉しかったのだ。
「ありがとう……! 本当にありがとう……!! でも“コレ”って」
しかし、そんな名画において少し気になる点があった。二人の絵の頭上にはそれぞれの名前が書かれている。ハウにはハウと正しく書かれているのに対して、ロキの頭の上にある文字は違っていたのだ。
指摘した箇所を覗き込んで確認したハウ。彼女は不思議がるロキの顔を見上げ、満面の笑みを浮かべた。
「……ううん、間違えてないよ。だってハウにとってロキはずっと――」
――カシャン。
無価値な自分には勿体ない綺麗で美しい走馬灯が、金物を音で殺されてしまった。
ロキの額にムラヤマのナイフが突き刺さった音だ。彼がゆっくり目を開けるとそこにはハウと似ているようで全く異なる満面の笑みを浮かべるムラヤマが居た。
「……うふふ、殺されちゃったって思いましたかぁ? 実はコレ、手品用の玩具ナイフでしたぁ!」
そう言ってムラヤマは自身の頭にナイフを二回、三回と突き指す。その度にナイフの刃が伸び縮みする人を小馬鹿にしたような軽い音がなった。
そんな様を見たロキは膝から崩れ落ち、床に手を付く。これから死ぬという極限的状況から解放された安堵で力が抜けたのではない。絶望したからであった。
「……なんで、何で殺してくれないんだよ……! なんで……!!」
顔を伏せたまま何度もそう呟くロキ。彼を見つめるムラヤマは、まるでアスファルトの上で干乾びて死んでいるミミズを眺める子供のような、そんな冷淡な眼差しだった。
「私、つまんない殺しって大嫌いなんですよねぇ。死にたい人を殺すのって、何の面白みもなくて、全然楽しくないんですもん」
「……………そうか。やっぱり僕は無価値なんだね」
ムラヤマの素っ気なく突っぱねるような言葉に、ロキはそう吐露した。殺しが最大の快楽な彼女でさえも自分の命はつまらないという。全くの無価値、無為無能な人生、何も成し遂げられず、何かを得ることも無く、誰かの何者にもなることが出来ない。そんな烙印を適当な気持ちで押された気分であった――。
「――あの、さっきからずっと気になってたんですけど。ロキさんって本当に無価値なんですかねぇ?」
そんな失意に堕ちたロキがムラヤマの言葉に思わず顔を上げる。上げた先の彼女は人差し指をちょこんと顎に当てて、難しい計算問題に苦戦しているような表情をしていた。
「だって、ロキさんは診療所を建てた立派なお医者さんじゃあないですかぁ? それに、貴方は最初からずっと“特別な存在”だったんでしょう?」
「…………どういう意味?」
「うーん、どういう意味って言われても、そのまんまの意味なんですけどねぇ」
ロキの問いかけに困り果てたムラヤマは自分の考えをまとめるために今一度小首を傾げて考える。そんな彼女の様子をロキは黙って見つめ続けていた。観光客を見つめる乞食のように。聖者の言葉に救いを求める子羊のように。
「だって、そうじゃあないですか。ロキさんの大切な女の子が、貴方の事をずっと“特別なお名前で呼んでいたのでしょう? 最初から最期まで、ずっと、ずぅっと、ね」
ムラヤマの放った言葉はロキの喉元を掻っ切り、文字通り言葉が出せなくなった。唖然とする頭の中、真っ白なスクリーンの中で。徐に浮かび上がってきたのは彼の大切な女の子、ハウの姿であり、彼女は走馬灯の続きの言葉をポツリと呟いた後で、彼が愛してやまない世界で一番可愛いとびきり素敵な笑顔で笑ったのであった。
「ハウッ! ハウ……! う、うぅ……ハウぅ……!」
ロキは自分の服の裾を掴みながらゆっくりと地面に沈んでいく。その姿勢は最愛の人を抱きしめているかのようであった。
ハウと初めて会った日の事。自分の誕生日を祝ってくれた日の事。そして、彼女の最期になってしまった日の事。それ以外にも彼女と共に過ごした小さな幸せの日々がロキの脳裏に過って消えていく。
そんな日常の中で、ハウはずっと口にしていた言葉があった。彼女の命を救ってくれたロキに敬意を込めて、感謝も込めて。
そしてありったけの大好きも沢山込めて、ハウはロキのことをこう称していたのである――。
「――さぁて、“無価値なロキさん”も殺したことですし、そろそろお家に帰らないといけませんねぇ。あんまり遅くなると、パイメロちゃんが心配し過ぎて泣いちゃうかもしれませんから」
ハウとの思い出に浸っていた中、ムラヤマのそんな声がロキを現実へと連れ戻した。彼女の顔はつまらなそうな表情から平素通りのニコニコ笑顔に戻っていた。
「ロキさんも憲兵さんが来る前に早く帰った方がいいですよぉ……。あっ! 先に言っておきますけど、私、パイメロちゃんみたいに優しくないので、抱っこもおんぶもしませんから。ちゃんと一人で立って帰って下さいねぇ」
そう言ってムラヤマはロキから踵を返す。そして、ローファーが地面に擦れた音が一つ鳴ったその後で――。
「――一人で立って歩けるでしょう? だって貴方は勇者なんですから」
そう呟いた後、何時もの調子で鼻歌交じりにスキップしながらムラヤマは扉の奥の闇へと消えていった。彼女が消えたカニーロ邸には死の静寂のみが広がっている。
そんな中、一人の男が立ち上がった。よろめきながら立ち上がったその姿は一見酷く弱々しく見える。
しかし、背筋を正し、堂々と胸を張り、一歩一歩力強い足取りで立ち向かっていくように闇へと突き進んでいく――。
――その背中は、正しく“勇ましい者”の姿であったのだ。