双六
一
太陽が落ち、ビルの背後の残光が、空の最後の青と層になり、夕暮れの街に虹を描いた。薄暮に架かった虹に通行人は足を止めはしなかったが、鈴木だけは終末の美しさを見ていた。——
眠ったのは二時間ほどだろうか。カーテンを開き窓外の太陽を浴びた。今日も美しい。
この習慣が始まったのは、彼が「終わり」を宣告されてからである。
証券会社に勤める鈴木は、桜舞う春の健康診断でその宣告を受け、それからというもの、閉口気味だった彼は饒舌になり、いきいきとし、憂鬱だった朝の太陽を美しいと思うまでになった。
顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る朝の憂鬱は遠い記憶のようで、会社へ向かうバスの車窓に目を細めた。
「おはようございます」
無口なはずの鈴木のこの頃の挨拶には首を傾げる者もあったが、多くは好意的に受け入れられ、彼の上司に至っては、扱いやすくなったと喜んでいた。
常から整頓されたデスクには、不要なものは置かない彼の性格が見られ、机上の右隅に置かれていた時計は既になかった。
かつて、孤独を愛した鈴木はいま孤独を恐れ、顧客台帳をめくる音や、ひっきりなしのアポイントメントの電話、目の前で行われる忙しさを愛した。
十一時半。前場が引け、同僚を昼食に誘った。
同期入社の斎藤は、珍しい同僚の誘いに、近頃の人への接し方に違和感を感じていて、好奇心から誘いに応じた。
「今日は奢らせてくれ。それとどうだ、ビールは? 一本ぐらい構わんだろ」
堅物の同僚のそれに斎藤は驚いた。
鈴木は馴染みの店の日替わり定食、(本日の献立は鯖の味噌煮である)を美味そうに食い、斎藤は、その満面の横顔と、目の下の暈とのコントラストを訝り、飲み干したグラスを置きざま、訊いた。
「なんだ最近、変わったことでもあるのか、……さては女ができたか」
この斎藤の尋常な問いに、鈴木は予想外の答えをした。
「俺は死ぬんだ。あと三か月ほどの命だろう、それまでにやっておきたいことはすべてやっておかないとな」
この同僚の告白がユーモアに変わるほどの信頼関係を築いてこなかったことに加え、目の下の隈が言葉に念を押した。
「それは本当なのか」
困惑した表情の斎藤とは対照的に、鈴木は朗らかに、
「ああ、本当だ」と答えた。
十七時。業務を終え、鈴木は立つ鳥跡を濁さずというふうに机上をまっさらにし、部長の視線を顧みることなく退社した。
「おい斎藤、鈴木はどうしてああも堂々と帰れるんだ。明朗になったのはいいが、ここまで嘘のない人間になると困るね」
斎藤は愛想笑いし、同僚の分まで頭を下げた。
鈴木はまっすぐ家に帰るつもりはない。
彼にとっていま恐れる存在は夜だけであり、伴侶のいない夜には猛烈な寂しさや、肉体が失われる恐怖から布団にきつく包まる。真っ暗だった外が薄っすら明るくなってくると、彼はようやく眠ることができた。
三十七歳。一人の夜をなるべく避けるため、仕事終わりにはこうして街を彷徨った。
薄暮の中に点り始めた街の灯火は鈴木に、来る夜に抗うような訴え、ひとつひとつが、存在の意志を示す灯のように映った。
自分には風前の灯火があるだけで、その火の訴えは、まもなく棄却されるのであるが、吹けば消えるような火でさえ、その火の廻りには、母や父や姉や妹や、友人らが風から火を守り、取り囲んで焚火をするような温もりがあるのである。燠ははじめて自分以外の暖かさに触れるのである。……
この期に及んで、死を控えた身体が腹を空かせたことに気付いた鈴木は、肉体の現金さには思わず微笑した。
「いただきます」
斎藤と昼にも訪れたこの店にいつも人が集まるのは、奇をてらわず、この名の料理はこれであるというふうな、名に忠実な料理を出す店だからであり、ならば、集う客もこの店に似て、中年男の役を忠実に演じているような男たちばかりだ。
小骨の多いカレイの煮付けを丁寧に食しながら、自分と同じスーツ姿の男らの会話を聴く。
「部長の眉間の傷は、あれは昔のものだろうな。学生時代は空手をやっていて、県大会での実績もあるというふうなことを部長本人から聴いたぜ」
「違うよ、あれは根深い皺だよ。こうやってずっとしかめ面をしてきた賜物だよ。そういう意味では社会につけられた、お前が言うように傷と言っていいかもしれない」男たちは眉間に皺を寄せ、したりげに酒を注いだ。
店を出れば、夜だった。煌びやかなネオンが創るこの明るい夜に、鈴木はさながら、光に群がる羽虫のように、光を求めた。
夜街のネオンの中に、本来、「くすり」と光るはずであろう古びたネオンの「す」が壊れ、「く り」となっている看板に、思わず鈴木はくすりと笑ったが、消えた蛍光管に我に返り、笑うのをやめた。
夜には、肩を組んだ千鳥足のサラリーマン、欲望をこぼした若い男、思わせぶりな女があったが、不思議と夜に年寄りを見かけることはなかった。
「あの、すみません」
鈴木は、呼ぶ声のほうへ背を返した。
「Sビルへ行くには、この道でしょうか」
返事をするまでに少しの間が開いたのは、鈴木がSビルの場所を探したという理由ではない。
「ええ、この道で問題ありません。そのまま真っすぐに進めば、左手に見えてきますよ」
「ありがとうございます」
女のまばゆい微笑は、どの灯火よりも輝いて、鈴木の目の前を過ぎた。その背で揺れる髪の後姿が街に消え入るのを見送りながら、鈴木は、いま自分には夜しか恐れるものはないはずなのに、臆病な自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。
久しぶりに見上げた夜空には星があった。美しかった。鈴木は、いつもより早くに帰宅した。
二
夕日のその消えゆく速度。……ビルの背後の、毎秒ごとに沈んでいく存在の儚さに鈴木は同情した。
一ヶ月前、いまでは夢となった女に出会った飾窓の前に来れば、足はいつもここで立ち止まった。そして、また街を彷徨った。
腕時計の針は零時をまだ指していない。自宅が近づいてくると、やはり踵を返した。
大学時代から住み続けている自宅アパート近くを時間を稼ぐように歩けば、そういうとき景色が違って見えるように、はじめて目にする酒場を見つけ、導かれるように入った。
「ここに、こういう素敵な店があるのを知りませんでした。十七年ここに住んでいながら、知らないことがある」と、背広を脱ぐ鈴木に、カウンター越しの店主は唇の端を心持ち上げ、こちらにというように、カウンターの真ん中の席へ手のひらを向けた。
「そうですか、それは互いにとって幸せなことです。互いに存在を認めたということですから」
老男の店主の言葉は、最初の言葉としては、言葉の迂路がなく唐突で、装飾のなさが華美を表現する、これが年を取るということだと鈴木は思った。
店内には、グラスを磨く店主と、カウンターに坐る自分の二人だけで、この無言の空間を彩るのは、微かに流れるドビュッシーの月の光と、溶けた氷の鳴る音である。
壁掛けの時計は一時を廻っている。居座ることに気が引けたが、酒を三度注文する。三杯目のウイスキーがカウンターに置かれた瞬間、鈴の音が鳴り、開かれた扉を後ろ手に客が入ってきた。鈴木は徐に振り向いた。
そこに立っていたのは、この薄暗い店内には眩いほどの、そこに立っていたのは、疑いなく、一ヶ月前の夢の女だった。
出会いとはこうあらねばならなかった。
引き合わされたかのような女との再会に、数字や統計を生業にしてきた鈴木も、もはや運命というものの存在こそ確かに思われた。
あれから彼らは自然に、あるときは鈴木が、あるときは女が先に店に居合わすようになっていたのである。
二十九になる美咲は、男が主張する最初の出会いを覚えてはおらず、しかしながら、その話す、少年のような表情に、この店に来ていることの思い当たるところはあった。
彼の言葉には、男が話すあの隠れた主語、『俺が』という主語がなく、鈴木への好意については特別な感情ではないことを、左の薬指の婚約指環が証明していて、わたしはこの店のカシスソーダが好きで来ているのだから……。
グラスを持つ、その指に気付かない鈴木ではない。しかし、彼の恋心が、溶けた氷によって薄まるようなこともない。彼女の生い立ちや、どういった青春を過ごしたのか、そこにはどんな風景があったのか、彼女を創ったすべてを知りたいと願った。
やがて滅びる身の内に、三杯目のウイスキーを流し込むと熱いものを感じずにはいられず、遠い青春時代にも似た、この熱を帯びた身体が滅びることが不思議でたまらなかった。
美咲とは今度映画を見に行く、はじめての約束をした。
二人は店を出、夜の河川敷を歩いた。鈴木の胸の内とは対照的に、水面は静かだった。美咲の手を握ったが、拒む様子はなかった。
見上げれば、澄んだ夜空に爪のような月が出ている。
三
美咲には自分がもうじきこの世を去ることを伝えてはいない。検査のために、鈴木は病院へ向かった。
待合室の長椅子には、自分よりも年老いた人らが、自分の番が来るのを何も期待しない様子で待っていた。そのなかに鈴木も腰掛けた。
思ったより早く自分の名が呼ばれ、席を立ったとき、向かいの老婆がこっちを見て微笑んでいるのに気がついた。
入るや否や、担当医が勢いよく椅子を回転させ、鈴木を見てこう叫んだ。
「鈴木さん、おめでとうございます。前回の検査の結果、腫瘍が、見てください、この二枚の画像を見比べてください、ほら、ここにあったはずの黒い影が、こちらではまったく消えてなくなっているんです。これは奇跡ですよ。鈴木さん、あなたは生きられるんですよ!」
また一日が動き出した。デスクから眺めた窓外は、朝から降る雨が小雨に変わり、無数の雨粒がアスファルトの上を跳ね、まるで線香花火の散り際のようにある。雲間からは空が見え、日が射してきた。やがて雨は上がるだろう。……
電話が鳴る。同僚たちは忙しない。桜舞う春から、美しく見えたはずの目の前の忙しさは、再び、朝の憂鬱の靄がかかったようになった。
昼休みに斎藤を誘った。そして、自分の生がこのまま続くことを、鈴木は斎藤に打ち明けた。斎藤は、「ほんとうに、ほんとうによかった」と、鈴木の肩を叩いた。
朝に差してきた傘を、会社に忘れたことに退社したあと気づいた鈴木は、取りに戻るのはよそうと考える。なぜなら、退社の挨拶を済ませ、おそらくまだ社内に残る斎藤と、一度別れを告げたあとに、再び会うことの気まずさには耐えられないから。……
今日は美咲と映画を見に行く約束の日である。
「お待たせ」
あれほど美しかった美咲が、そうも見えなくなった。