2:時が流れるという必然
『わたし』は忘れる、忘れ去っていく。どれほど大切な記憶であろうと、わたしの心は想いをこぼれさせてしまう。わたしにとって長い時は苦痛で、覚えているということは残酷だから。
だからいずれ、君のその姿も、その声も。向けられた眼差しの温度すらも、こぼれ落ちてしまうよ。
君は『それでいい』と笑うのかもしれない。それでもわたしはいずれ忘れていく。だから今だけは、『忘れられない』という幻想に縋っていたかった。
『わたし』は金耀樹。この世界を見守る神樹でもある。
わたしが根を下ろすこの森は、一年を通して気温が低く夏でもひんやりとしている。北に位置する山脈から吹く風は冬になれば雪を運び、わたしも冷たい雪の中に沈むのだ。
広葉樹は寒さに葉を落とし、針葉樹は枝に雪を積もらせる。また冬が来て、すべてが白い色の下に沈んでいく。それが長い時間繰り返される季節の光景で、わたしはいつも、それを見ているだけだった。
だけだったのだけど……。
「おい、不審者の銀葉」
ぼうっと佇んでいると、突然顔面に雪玉が激突した。バシンと音を立てて砕けた雪玉は、パラパラと音を立てて顔から落ちていく。なぜこんな仕打ちをされなければならないのか。
棒立ちで悩んでいると、例の少年が大股で近づいてくる。サクサクと雪を踏みしめる足取りは慣れたもので、さすが生まれたときからこの地域に暮らしているだけはあるようだ。
一度柔らかい雪の上を歩いてみればわかる。深い雪は、歩くと足が沈む。ずぶりとはまりこんでしまうと大惨事だ。吹雪の夜にそれをやると悲しいことになる。
私は凍死しないけれど、埋まると悲しいので今の時期は動きたくない。完全に引きこもってるわたしのところにやって来た彼は、少し伸びた前髪の下から呆れた視線を向けてきた。
「なんで幹の隙間にはまっているんだよ。それってなんか意味あんのか?」
「気分の問題だよ気分の。こうしていると、風が直接当たらなくていい感じ」
「そういう問題かよ? つーか、不審度合いが増大して本物の不審者にしか見えないぜ」
「いいもーん。どうせ君以外こんなとこやってこないしー。樹だって寒いもんは寒いんだもーん」
「なんでそんな喋りに……なんか変な栄養吸収したのか」
「概ね君のおかげだよねコレは。わたしだって別に好きでこんなこと言ってないよ」
幹の隙間からひらひら手を振っていると、そのまま思いっきり引きずり出された。風よけに被っているフードがめくり上がり、冷たい風がもろに頰に当たる。
「さ、さむい。凍っちゃう」
「樹のくせにいちいちうるせぇよ。なんなら焚き火でもするか? そうしたらちょっとくらいあったまるだろ」
「まって、やめて。わたし火にくべるの禁止。燃えちゃうってば」
おもむろにマッチを取り出した彼は、なぜかそれをわたしに向ける。断っておくが、『わたし』は金耀樹。この世界を見守る神樹であって、そもそも焚き木には使えないのだが。
「待てこら逃げるな。観念して燃えろ」
「ふざけないでください真面目にやめてー。追いかけてこないでやだー」
こんな寒空の下で追いかけっこは非常につらい。そして子供というのは、どういうわけか寒さに強い。のろのろ走っていたわたしは、雪玉の攻撃に襲われ……早々に捕獲されてしまうのだった。
「ウチの使用人優秀だからな。冬でも薪は切らさねぇし」
わたしを捕獲したのち、彼はどこからか薪を運んできた。疑問に思って尋ねれば、森の中に彼の家の貯蔵施設があるとかないとか。そんなものを持っているとは、彼の家はナニモノなのだろう。
わたしの疑問はともかくとして、いつしか樹から少し離れた場所に焚き火が出来上がる。勢いよく燃え上がる炎を見つめていると、なんとなく不安になってきた。
わたしは金耀樹。この世界を見守る神樹だ……が、火がつけば燃えるだろう。たぶん。
「誰も燃やさねぇからキョロキョロすんな。とりあえずさっさと座れっての」
心を読んだのか、わたしが挙動不審すぎたのか。おそらく後者だろう。彼はわたしの手を引っ張ると焚き火のそばに座り込む。つられて座り込んでしまったら、火の粉がわたしの髪をかすめていった。
「わわ」
「さーて、焼き芋でもすっかなー。結構いいの置いてあったし……食べる?」
「……そうおっしゃるのなら、樹の根元に埋めてください」
「いやだもったいない。芋肥やしかよ」
確かに埋めても味はわからないと思うけど。だからと言って、樹であるわたしは何か食べるようにはできていない。豪快に焚き火へと芋を投げ込む彼を見つめながら、わたしはずっと気になっていたことを口にしてみた。
「ねえねえ、君の家ってナニ屋さん?」
「領民から税金を集めて遊んで暮らすのがお仕事ですー」
「わーサイコーだねそれー。……、って、君の家って領主なのか」
「みたいだなぁ。オレは別にカンケーないけど。ガキだし。オヤジも領主って言ったって、地方の弱小貴族もいいとこだしな」
長い間存在しているものの、私はいまだに人間社会の構造がはっきりとはつかめていない。一応、この辺りは昔から『領主』が治めているのだけど、それが弱小貴族というのは知らなかった。
わたしが首をひねっていると、彼は長い枝で芋を突っつき始めた。そんなことをしている様子からは、あまり、というか全く高貴さは感じられない。
別に貴族だから高貴さがあるとも思わないが、彼はなんというかやさぐれすぎているような気も。
「よっしゃ、でーきた! と。なんだよ人の顔まじまじと見て。芋はやらねーぞ」
「い、いらないよ食べられないし。ただ君って、貴族って柄じゃなさそうだなと思って」
「ま、そりゃそーだろな」
彼は芋を枝に刺しながら、くつくつと笑う。その笑い方は彼には不似合いで、思わずわたしはその横顔を見つめてしまった。
「そりゃ、貴族なんて柄じゃねーだろーよ。どうせオレは、オヤジの大勢いる妾の子のうちの一人にすぎねぇし。……それも、たまたま運良く領主の庇護下にあるだけの飼い殺しさ」
笑いながらも、彼自身がその境遇を『良し』としていないことだけは理解できた。けれどわたしは何も言うことができなかった。ただの樹でしかない『わたし』には、誰かの人生に関与する資格など——。
「ま、いいんだけどな。どうせなるようにしかならんだろ。だから別に、お前がそんな顔する必要ねぇよ銀葉」
わたしは今、どんな表情をしているのだろう。彼はわたしに笑いかけると、芋を火から取り出しはしゃぐ。その様子を見れば、まだ彼が幼いのだと改めて気づかされて。何かとても……悲しい気がした。
「お、うまく焼けてる! これこそ冬の醍醐味だよなぁ。食べられないなんてなんて悲しい!」
「ほんとだよ。……なんか悲しいねぇ」
笑う彼の顔を見つめ、わたしは何もできない自分を悟る。わたしは金耀樹で、神樹のはずだ。それでもわたしにはなんの力もなかった。
こんな子供一人の運命すらも変えてやれない、無力な傍観者。それが見守るということなのなら、『わたし』はなんのために存在しているのだろうか。
どれほどの思いを抱こうと、時は早足に過ぎていく。日が沈む頃、再び家路につく彼の背を見送った。
「またな」と、いつものように彼は言う。だが、わたしは何も言わずに手を振るのだ。
何か一言でも口にしてしまえば、それが一つの約束になってしまいそうで。そのことが『わたし』にはひどく恐ろしく、そしてとても苦しかった。