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【ヒューマンドラマ】

三十日月

作者: 小雨川蛙
掲載日:2023/04/27

 

 成人の日を控えた前日の夜。

 私はあの子を呼ぼうとしては立ち、やがて思い直しては座るという落ち着きのない動きを繰り返していた。

 20時に食べられるように用意した食事はもうずっと前に冷えてしまっていた。

 時刻は既に21時を回り、私は落ち着かないままスマホに目をやり、数え切れないほど漏らしたため息をつく。

『ごめん、どうしても遅くなる。先に二人でご飯を食べて欲しい』

 2時間も前に来た夫からのLINE。

 誰よりもこの日を迎えるのを楽しみにしていたくせに部下の仕事の後始末だとか言って帰られない。

 あんなにもあの子とお酒を飲むのを楽しみにしていたくせに。

 社会人の惨めさと悲哀を感じずにいられない。

 でも、重要なのはそんなことではないのかもしれない。

 指で操作して出てくるあの子の写真。

 ずっと、小さい頃。

 女の子の人形をぎゅっと大事に抱きしめている幼いあの子。

 笑っている。

 本当に明るく、満面の笑みで。

 あまりにも輝いている顔を見て、私の胸の奥が強く抓られたように痛んだ。

 その痛みが徐々に強く、重く、深くなっていく。

 この笑顔を奪ったのは私なのだろうか?

 私が全部いけないのだろうか?

 思考がそう結論付けた時、私は思わずスマホの電源を落としていた。


『そんなはずはない』


 そう、強く自分に言い聞かせていた。

 いや、言い聞かせる必要すらない。

 だって、そうでしょう?

 あのくだらない考えを抱き続ける限り、あの子は永遠に苦しみ続けるんだ。

 なら、徹底的に教育した方がいい。

 あの子のためにも!

『本当にそうだったの?』

 脳裏に浮かぶ光景。

 あの子が虐められていると知り、母として話を聞いた日を思い出す。

 泣きながらあの子が話す内容を必死に受け止めながら、あの子を抱きしめながら話を聞いている内に気づく違和感。

 聞き違いかと思い、泣いているあの子に問う。

 鼻声と共に返ってきた言葉。

『私がおかしいって皆言うの』

 聞き違いでない現実に戸惑う私。

 自分が直面する現実に苦しみ続けるあの子。

 同じ現実であるのに、私が産んだ子供であるのに、私はあの子をどうしても理解出来なかった。

 それでも。

 それでも、私は理解しようと我慢した。

 5年。

 10年。

 だけど、あの子に対する虐めは無くならず、あの子は孤立し続けた。

 だからこそ。

 だからこそ、私はあの子を普通にしてあげようとした。

『何がいけないの!?』

 夫に叫ぶ光景が浮かぶ。

 あの子が大切にしていた女の子の人形を捨てた日。

 夫は出会って初めて私のことを怒鳴った。

『何でこんなことをするんだ!』

 夫がゴミ箱から拾った小さな人形をゴツゴツとした手で、それでも抱きしめるように優しく持ちながら、今度は努めて声を穏やかにしながら。

 それでも怒りを隠せないように息を震わせながら言った。

『あの子の大切なものだろう?』

『だからなに!? そんなものがあるからあの子がおかしくなるの!』

 大泣きしながら叫ぶ私の顔を見て夫は言葉に詰まる。

 本当は分かっているんだ。

 夫だって。

 あの子が普通であればこんなことは起こらなかったと。

 きっと、私達の怒声が聞こえていたのだろう。

 翌日からあの子は『私』と言わなくなった。

 そして、私に対する謝罪のように、女の子の人形はこれ見よがしにゴミ箱に捨てられていた。

 私も夫も変化に言及しなかった。

 何も言えなかったのだ。

 十五歳を迎える直前。

 あの子は。

 私が愛したあの小さな子供は、私の息子は。

 ようやく、私の願いに応えて普通の男の子となってくれた。


 傷が。

 深く、重く、強い傷が。

 私を苦しい過去から現在へと引き戻していく。

 明日に控えた成人の日。

 別に明日を迎えたとしても何かが変わるわけでもない。

 けれど。

 それでも。

 口を強く結んだまま私はようやく立ち上がる。

 二階への階段を。

 息子の下へ続くただ一つの道を辿りながら私は胸にあるものを必死に抱きしめていた。

 ほんの一瞬でも息子の顔を見てしまえば決意はあっという間に消えてしまうと理解していたから。

 部屋の前に立ち、一度深呼吸をしてノックする。

「どうしたの?」

 隠そうとも隠し切れない穏やかな性格を身に纏った優しい声。

「父さん、まだ帰って来てないでしょ?」

「うん。そうなんだけど」

「絶対に早く帰るって言っていたのにね」

 普段通りのやり取り。

 私は再度深呼吸をして言った。

「開けていい?」

「いいよ、入って」

 部屋の中は暗かった。

 電気がついていなかったから。

 部屋の中は暖かった。

 それはきっとカーテンのされていない窓から弱々しい月光が注いでいたから。

「どうしたの?」

 私が産んだ。

 私と夫の間に生まれた息子は背を向けたまま空を見上げていた。

「何見ているの?」

 私が問うと息子は答えた。

「別に。何も」

 言って息子は振り返る。

 十代半ばまでは自らの本質から逃れるように伸ばしていた髪の毛を短く刈り上げて。

 先月買ったばかりの紺色のスーツを身に纏い、ネクタイをしっかりとしめて。

「スーツ着たんだ」

「明日だしね。成人式」

「緊張しているの?」

「別に。適当に行って帰って来るよ」

 そう言って息子は付け加える。

「同窓会にも出てくる」

「高校の?」

「うん」

「そっか」

 私は息子の隣までやって来る。

 既にその背は母親である私は勿論、父親である夫よりも高い。

 心の底で私は安堵していた。

 あぁ、息子は間違いなく男の子なのだ、と。

「もうすっかり大人だね」

「そうだね。母さんたちには本当に迷惑をかけたよ」

 どう答えれば良かったのか分からず私は無言だった。

『そんな事ない』と言えば嘘になり、そしてその嘘を息子はすぐに見抜く。

 かと言って『その通りだよ』なんて言えるはずもない。

 そう思い固まっている私に息子は笑った。

「明日から俺も大人だ」

「うん。まぁ、実際のところ何も変わらないけどね」

「まあね」

 息子は言葉を切ると。

 大きく深呼吸をした後に言った。

「私」

 この子の言葉に私が部屋の前でしたはずの決意が微かに震える。

「俺ってさ。変に大人ぶっていたよね」

 声が緊張で震えていた。

「男なのにさ。なんか、大人に憧れて『私』なんて言って」

 胸が高鳴る。

「皆、本当にガキだよね。一人称一つで俺のこと虐めていたんだから」

 確かに抱きしめていた決意が私の腕から離れようと必死に藻掻く。

「だけど、俺も悪いよね。意地になって『私』なんて言い続けていたんだから」

 だめ。

 絶対にだめ。

 これを離しては。

 そうでないと、この子はきっと永遠に苦しむことになる。

「だけどさ」

 私の隣で、私の子供は、苦し気に一度息を止めて。

「もう馬鹿にされないよね。だってさ、もう私も大人になるんだから」

 吐き出された言葉。

 私の子供が辛うじて守り切ろうとしたもの。

 けれど、守ることが出来なかったもの。

 そして、この子は今、残った欠片を惨めに抱きしめていた。

 この子はあの日、諦めた。

 自分が女であるというのが許されないのだと知ったのだ。


 あぁ、この子は優しい。

 自分の人生であるのに家族のために生きようとしている。


 あぁ、この子は哀れだ。

 自分の人生であるのに自分を偽り続けなければならないのに。


 そして、私は救いようがない。

 そうして欲しいと。

 自分を犠牲にして、自分を偽り続けて生きて欲しいという気持ちを、決意を。

 この後に及んで持ち続けているのだから。


「馬鹿じゃないの?」

 私は笑って子供の背中を軽く叩いた。

「いきなりさ」

 子供の目を見返して笑う。

「いきなり、子供が大人ぶったってさ。滑稽なだけ。本質なんてすぐにバレちゃうよ」

 そう言って、私は踵を返した。

「ご飯温めてくるね。お父さんもそろそろ帰って来るだろうし」

「うん。分かった」

 数歩の距離が途方も無く長く感じた。

 心臓があまりにも強く脈打っている。

 私は自分の決意のために、自分の子供を犠牲にした。

 けれど、それはあくまで自分の選択。

「よく覚えておいて」

 私はちらりと振り返って言う。

「どれだけ取り繕っても本質なんて分かっちゃうもんなの」

「うん」

 間を置かずに戻ってきた言葉。

 それに数秒の間を置いて私は告げた。

「だからまぁ。開き直って生きるのもいいかもしれないね」

 子供は無言のまま見返した。

「あなたの人生なんだし」

 言うと同時に私は部屋の戸を閉めた。

「お父さん、もう少しで帰って来ると思うからご飯温めちゃうね」

 逃げるように言葉を繰り返し、階段を下りていく私の背にあの子の声が聞こえてきた。

「私もスーツ脱いだらそっち行くね」

 私の声がどう届いたかは分からない。

 けれど、少しだけ明るい気がした。

 あるいはそう思おうとしていたのかもしれない。

 胸に抱いた決意が痛いほどに私を縛る。

 必死に理解しようとして、それでもあの子に訪れる現実を想い、浮かんでくる空想が理解を拒む。

 私はきっと生涯あの子を理解出来る日は来ないだろうと思う。

 けれど。

 けれど、せめて。

 あの子には訪れない月の光があの子を守ってくれることを願わずにはいられなかった。



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