93話 「歪んだ愛情生活、サナとの接し方」
ハビナ・ザマまでは、およそ四百キロ。
ただし、それは直線距離での話であり、実情は山道で曲がりくねっている場所も多々あるので、馬車で行くとなると最低でも十日以上の旅路になるらしい。
もちろん急ぐことは可能だが、その分だけ安全性が犠牲になる。特に予定もないため通常運行で行くことになった。
「ほかにも馬車がいっぱい走っているね」
自分たちだけかと思ったが、十数台の馬車が連なって走っていた。その前後に雇われた傭兵たちが付くといった様相だ。
馬車といっても様式はそれぞれで、アンシュラオンが観光用に乗った通常タイプのほかに、大きな箱型のものや荷台を複数付けたもの等々、用途に応じて使い分けているようだ。
中には大量の物資を積んだ大型の馬車もある。商人ほどではないが、こうした運送もこなして収入を得ているのだろう。
それによって馬車の一団は、約百人の大所帯となっている。
「他の馬車もハビナ・ザマに向かう一向だよ。一つの馬車で渡り狼を雇うより、こうしてみんなで分担したほうが安いだろう?」
「どうせ同じ目的地だもんね。逆にこの規模だと護衛五人は少なく感じるかも」
「まだこのあたりは治安が良いほうなんだよ。グラス・ギース周辺はハンターたちが魔獣を駆除してくれているからね」
「ジョイさんは、普段からこの道を通っているの?」
「そうだよ。基本的にはグラス・ギースとハビナ・ザマを往復しているね。遠出する際はハピ・クジュネに行くこともあるけど、さすがに遠いから滅多に行かないよ。商人じゃないから行く必要性があまりないんだ」
「近場でコツコツやっていたほうがいいよね。襲われて命を奪われたらそこで終わりだ」
「その通りさ。私たちは一般人だからね。夢を見ることなく地道に生きるのが一番だよ。十分それでやっていける」
さきほど話をしていた中年男性はジョイという名前で、長年グラス・ギースとハビナ・ザマ間の馬車業を営んでいた。
地球のトラック運転手のように長距離輸送のほうが稼げるが、この世界は魔獣や盗賊も多く、比較的安全な近距離間の移動を繰り返すほうが楽で儲かることがある。
ジョイはそうしたタイプのベタランで、人柄と恰幅のよさからビッグ・ジョイと呼ばれて同業者から親しまれているらしい。
「移動中に襲われたことはある?」
「そりゃ長年やっていれば何度かはあるよ。気をつけていても絶対はないしね。たまにお客さんの中に盗賊の仲間が入り込むこともあるから、危ない人間は事前に見分けることにしているんだ」
「そういうこともあるんだね。馬車業も大変だ」
「君たちは何があっても安全に送り届けるから大丈夫さ。心配しないでいいよ」
ジョイはこちらを安心させるように笑う。
こうして子供の相手も楽しそうにしてくれるので、本当に人が好いのだろう。
(嫌なやつもいれば好い人もいる。それもまた人間の世界だな)
「サナ、よく人を見るんだぞ。人間にはさまざまな感情があって、そのどれもが必要だから存在しているんだ。いろいろな場所を見て、多様な人を観察しよう。それによって世界が広がるはずだ」
「…こくり。…じー」
こうして外に出るのは、すべてサナのためだ。
彼女に広い世界を見せて成長させることだけが、今のアンシュラオンにとってはすべてなのだ。
サナも珍しそうに外を眺め、人をじっと見つめていた。
そのまま何事もなく夕方になり、夜になる。
夜間は危険なので移動はせず、みんなで集まって野営をするのが慣わしだ。
そこで食事をしていた時、ちょっとしたアンシュラオンの奇行に注目が集まる。
「サナちゃん、あーん」
「…ぱく。もぐもぐ。ごくん」
アンシュラオンが野菜スープをサナに食べさせてあげる。
もぐもぐと口一杯に芋を頬張り、ごっくんと飲み干すサナ。その姿に感激。
「ん~~、可愛い~~! サナは可愛いなー。次はお兄ちゃんにも、お兄ちゃんにも!」
「…ひょい」
今度はサナがスプーンでよそい、アンシュラオンに食べさせる。
「あ~~ん、ぱくっ。美味しい。でも、サナちゃんのほうが美味しいな。ぺろっ」
「………」
アンシュラオンが頬を舐めるも、サナは特に表情を変えない。
「はい、お次もどうぞ。あーん」
「…ぱく。もぐもぐ。ごっくん」
「お兄ちゃんにもちょうだい」
「…ひょい」
「ぱくっ。美味しいなー。サナはもっと美味しいけどね! ぺろん!」
「………」
そんなことを繰り返す。ここまではいいだろう。ギリギリ仲の良い兄妹の光景だ。
だが、ここからが一味違う。
アンシュラオンがパンをかじって咀嚼する。
それを飲み込めば普通の食事だが、それをサナに―――口移し
「…ちゅるちゅる、ごくん」
「サナちゃん、美味しい?」
「…こくり」
「じゃあ、おかわりしようね。はい、もぐもぐ、どうぞ」
「…ちゅるちゅる、ごくん」
まるで雛鳥への餌やりだが、サナはサナで何の抵抗もなく受け入れている。
当然ながらそれを見ていた他の者たちは、一様に挙動不審。どう反応していいのかわからないのだ。
「ま、まあ、子供の頃はよくやることだからな。仲がいいってことだよな」
「そ、そうだな。赤ん坊の頃はよくあることだ。赤ん坊の頃は…だが」
そう言い聞かせ、なんとか自分たちを納得させる。
しかしアンシュラオンの行動はさらにエスカレート。
食事が終わると命気で歯磨きを手伝い、今度は着替えからトイレのお世話まですべてこなしていく。
いついかなるときもサナから離れようとしない。
繋いだ手は離さないし、馬車に乗っている時も彼女を膝に乗せて抱きしめては、時折匂いを嗅いで恍惚としている。
最初は周囲も単に仲が良い兄妹だと思っていたものの、だんだんとこれがおかしいことに気づき始める。
が、保護者でもないので誰も口を挟めないでいた。
(いやー、なんだか満たされるなぁ。これだよ、これ。オレが求めていたのはこれだ!! サナちゃんって、どうしてこんなに可愛いのかな。あぁーん、惚れ惚れする。全部が可愛くて最高だ!)
ここまでサナの世話をする姿は、ある意味で猟奇的である。しかも一日だけではなく、この一ヶ月の間ずっとこの調子だ。
それを目撃したモヒカンも恐怖で髪の毛がはらりと抜け、さらにハゲ率の高いモヒカンへと進化していく自分に恐れおののいていたものだ。
実はこれ、パミエルキがアンシュラオンにしていたことと、ほぼ同じである。
ただし当人はそのことに気が付いていない。姉と同じことをしているなどとは夢にも思っていない。それがまた怖ろしい。
虐待された子供は虐待する親になるというのは、実際のところは迷信である。されど、それしか知らない者であれば、これが普通の行為だと思ってしまうのも事実だ。
アンシュラオンにとって、この世界は新しい世界。しかも赤子から再生したため、今の彼の大半はこの世界に来てから構成されたものといえる。
子供は周囲の影響を大きく受ける。それが親代わりである姉だったならば、いったいどれだけ強い影響力を持つのだろう。
だから、お風呂も一緒。
他の人間にサナの裸を見せるわけにはいかないので、危ないからと止める声を無視して少し離れた場所に行くと、サナの服を脱がし始める。
「さぁ、お風呂に入ろうね~」
「…こくり」
「はい。万歳してー」
「…ぐい」
「サナはいい子だね。ちゃんと言うこと聞けたね。なでなでなで」
「…こくり」
冷静に考えれば、服の着せ替えもイタ嬢がやっていたことと大差ないが、アンシュラオンは「自分はイタ嬢とは違う」と思っている。このあたりもさすがである。
一応述べておくが、この時のアンシュラオンにやましい気持ちはない。
なぜならば姉がそう教えたからだ。「それが世間の常識なの」と言い、二十年近く弟にやらせていたので、アンシュラオンにとって女性の世話は普通になってしまった。
「お湯を張ろうな」
水はどうするのかといえば、命気がある。
岩を切り出して作った湯船に命気をたっぷりと張り、少し温めて適温にする。二人が入ると、ぬるっとした独特のぬめりが肌に触れた。
命気風呂は身体の汚れを分解し、傷みをすべて修復してくれるので、一家に一台あると便利である。
といっても今現在、命気風呂を使っているのは世界中でアンシュラオンのみなので、これこそ最高級の贅沢なのかもしれない。(正確にいえばパミエルキも使用しているので二人)
お風呂に入っているときもサナはペンダントを外していない。原常環の術式は錆や劣化などにも効果を発揮するので、水に濡れたくらいではまったく影響がない。
二人はゆっくりと風呂に入り、至福の時間を過ごす。
「いい湯だねぇ。外で入るお風呂はいいもんだ」
「…ぐいぐい」
サナがアンシュラオンの手を引っ張り、口を開ける。
彼女はしゃべることはできないが、最近は少しずつ行動で意思を示すようになっていた。
そして、これは『おねだり』の合図だ。
「あー、はいはい。命気ね。はい、どうぞ」
「…はぐ、ちゅーちゅー、ごくごく」
サナが指にしゃぶりついて命気を吸い出す。
その姿は、まるで赤ん坊が哺乳瓶に吸い付く光景そのものだ。
(なんか命気をやたら気に入ったんだよな。しかも濃度が高いものしか飲まないし…まあ、簡単に出せるからいいけどね)
どうやらガンプドルフとの戦いの際、命気で保護したあたりから【味】が気に入ってしまったようだ。
命気は水と同じく無味無臭である。試しにアンシュラオンも舐めてみたが味の違いはあまりわからなかった。サナが好む濃度の高いものも同じく味はしない。
彼女が気に入ったのならば、あげること自体は問題ないと考えているので、求められるだけ与えている状況であった。
「サナちゃん、満足した?」
「…こくり。ぶくぶくー」
サナが顔の下半分を命気湯に埋め、ぶくぶくしている。
サナ様、ご満悦である。
それを見たアンシュラオンも満たされる。
「ああ、幸せだなぁ~」
他者から見ればやや異質な接し方であれ、当人たちが幸せなのだからそれでよいのだろう。
もちろん他人には入れさせない秘密の風呂であるため、使い終わったら湯船はポケット倉庫に片付けて何もなかったかのように戻るのであった。