70話 「それは慌てるパパのごとく」
(よし、これですべて終わった。あとは自由だ!)
サナを抱えながら上級街の第一城壁を駆け上がる。
そのまま一度壊した結界を抜けて、来た時と同じ場所に着地。
「さすがにボロボロだな。着替えておくか」
茂みに隠してあったバッグを取り出し、代わりの服に着替える。
スレイブ館に置いてあった適当な服だが、今はこれでいいだろう。
着替えていると視線を感じた。
「…じー」
「どうしたの? そうだよ、オレがお兄ちゃんだぞ」
サナの顔に自分の顔を近づける。
かなり近い距離なので、これなら細かいところまではっきりと見えるはずだ。
「ほら、好きなだけ見ていいよ。よく覚えるんだぞ」
「…こくり。じー」
サナはしばらくアンシュラオンの顔を凝視していた。
彼女の顔は相変わらずの無表情で、何を考えているかはわからない。もしかしたら何も考えていないのかもしれない。
(うーん、心が読めないな。普通の人間なら雰囲気で気持ちがわかるもんだが、サナは普通とは違うからな。こりゃ慣れるまでは苦労しそうだ)
人間には(常人には)目に見えない生体磁気や精神オーラが身体から溢れているので、それに接触すれば雰囲気から相手の気持ちを察することができる。
だがサナの場合は少し特殊なようで、こうして近くにいても考えていることを読むことができない。そもそも意思が無いので当然なのだろう。
意思が強すぎる男と意思が無い少女。まるきり正反対の二人なのだ。
だが、それがいい。
(世間で言われる『普通』や『当たり前』ってのは『平均的』という意味であり、そこらにありふれていて価値がないものを指す。反面、サナが普通じゃないのならば、何かほかの面が特別に優れている可能性が高い。実に素晴らしいことじゃないか。まさに可能性の塊だよ)
サナの心を覗いた結果、明らかに他と違うことがわかった。ならば、それを思う存分楽しめばよい。誇ればいい。
もともと生半可な個性では、魔人の系譜であるアンシュラオンと釣り合うわけがない。あの時に見た黒い世界こそ自分には相応しい。
そう考えると、ますますサナのことが大好きになっていく。
(やっぱり可愛いな。もう食べちゃいたいくらい可愛い!)
こうして近くで見ると、やはりサナは可愛い。
このまま大きくなれば美人になるのは間違いないし、そのまま可愛い系の女の子に育っても面白い。
(最高の素材を手に入れるってのは、こういうことかな。うん、ドキドキするな。どうやって育てようかなぁ、楽しみだなぁ)
最高の原石を手に入れた時に感じる、興奮と不安が入り混じった感覚。
上手く扱えれば最高の結果を導くが、失敗すれば伸び悩む。それは素材が悪いのではなく扱う自分の問題。そういった類のプレッシャーを感じるのだ。
それがまた新鮮でワクワクさせる。
もったいなくてそのまま使わないという人もいるくらいに、こうした逸材はいつだって人を惑わせる。それがいいのだ。
「…じー」
その間、サナはじっとアンシュラオンを見ていた。さすがに気になったので、自分を覚えているか訊いてみる。
「オレのことを覚えている? 一度会ったよね?」
「…こくり」
言葉はしゃべらないものの、こうして意思表示はしてくれる。その仕草も愛らしい。
「そうか、そうか。サナは記憶力がいいなー。いい子、いい子」
サナをナデナデすると可愛い頭がぐるぐる動く。
「あー、可愛いなー、可愛いなー」
「………」
あまりに可愛いので、そのまま撫で続ける。
撫でる 撫でる 撫でる
撫でる 撫でる 撫でる
撫でる 撫でる 撫でる
触るたびに黒い髪の毛の柔らかい感触が手に感じられて、うっとりとしながら撫で続ける。
これが自分のものになったという高揚感、恍惚感に酔いしれ、ひたすら撫で続ける。
それを十秒間続けたあと―――
サナの頭がさらにぐるぐる動き、そのまま―――だらんとした
首だけががくっと前に傾き、突然動かなくなったのだ。
それに驚いたのはアンシュラオン。
「え? さ、サナ!? 大丈夫か?」
サナは、がくんと首を垂れたまま動かない。
「え? ええ!? 嘘だろう!? まさか首が折れたとかじゃないだろうな!? た、大変だ! どうしよう!! ど、どうすればいいんだ!? な、何をすれば!? そ、そうだ! 治療だ!! 命気をありったけ注入するんだ!」
大量の命気を放出してサナを包み込む。その量は膨大で、もはや水槽の中の魚のような状況だ。
命気がサナのあらゆる場所を癒していく。
座り込んだ時に出来た細かいかすり傷、歩いた時にすり減った足裏の皮膚、目に見えない小さなダメージなど、ありとあらゆる場所を再生修復させていく。
身体の中にも入り、細胞の洗浄から再構築まで、これでもかと至る所を修復する。
「はぁはぁ、どうだ! どんな毒だって浄化できるし、どんな怪我だって治せるんだぞ! 火怨山の魔獣のどんな能力だって、これ一つで耐えてきたんだ! 姉ちゃんでもてこずる命気水槽は無敵だ!」
アンシュラオンの命気の再生力は、姉のパミエルキでさえ手を焼くほどに驚異的だ。水に特化した自身の真骨頂とも呼ぶべき力である。
が、目覚めない。
力なく命気の水槽でたゆたうサナの姿に―――パニック!
「あわわわわ!! ど、どうしよう! いきなりサナが大変なことになっちゃったぞ!! 命気で治らないなら病気!? 何かの特殊ウィルスか!? 医者! 医者に見せるべきか!? だが、こんな街の医者じゃ信用できん! ぶ、ブラック! ブラックでジャックな先生はいないのか!!! 金ならいくらでも払うぞ!」
その姿は、初めて自分の子供が病気になった父親そのもの。
愛情が強すぎるがゆえに、その思考はどんどんおかしい方向に流れていく。
「な、何かないのか! 何か治すアイテムは!! ゆ、指輪! そういえば指輪を拾った! これに祈れば何か起こるのか!?」
省略したので記述されていないが、領主城ではいろいろなものを拾っている。その中の一つに指輪があったのだ。
アンシュラオンは、拾ったアイテム『母の指輪』を天に掲げて祈った。
だが、何も起こらない。
「使えない指輪めえええええ!! 消えろーーーーー!!!」
全力投球で遠投。指輪は遥か遠くへ飛んでいった。
実はこれはイタ嬢の七騎士の一人の大切なものであり、落として困っていたアイテムである。
だが、安心してほしい。
この遠投で指輪は領主城にまで届いて、無事返還することに成功している。
ただし衛士の野グソに命中してしまったので、彼がそれを見つけた時には違う意味で涙を流すかもしれない。
「ほかには何かないか…何か!! あっ、鍵があるぞ! これで心の扉をオープン―――なんてできるかあぁあああ!」
バキンと『休憩室の鍵』をへし折った。
領主城にはスレイブたちの休憩室があり、これはそこの鍵であった。
これによって起こった事案は、休憩室の鍵が失われたことでしばらく誰もそこには入れず、多くのスレイブが困ったというだけのこと。まったくどうでもいい話だ。
その後も領主城で手に入れたアイテムを片っ端から使うが、当然ながら何も起こらない。
これだけ頭が良い男でも混乱すると意味不明なことをするのだから、人間は不思議な生き物である。
(もしやスレイブ・ギアスが砕けたことが影響しているのか? 精神術式がかかった状態で壊れたからな。その可能性はありえるが…たいした術式じゃなかったように見えたぞ。それともサナにとっては悪影響を与えるものだったのか? くそっ、姉ちゃんに反対されても術を覚えておけばよかった!! どうしよう。どうすれば…)
そうしてしばらく迷走していたが、最後に一つ閃いたことがあった。
「そうだ、小百合さんの家に行こう!」
まるで古都に旅行に行く際に使われそうな言葉を残し、サナを抱っこしながら全速力で走る。
たしか小百合の家はこの近くのはずだ。西門からさして離れた位置ではない。
べつに小百合に会ったからといって医者ではないので意味はないが、とりあえず知り合いに会って落ち着きたいという心理状況だったのだろう。
この街で出会った中で、戦闘を除けばもっとも頼りになりそうなお姉さんは彼女しかいない。
どのみち女性&お姉さんに限定した段階で、マキか小百合しかいないので完全なる趣味であるが。(ファテロナは論外)
(待っていろよ。お兄ちゃんがすぐに助けてやるからな!)
アンシュラオンは小百合の家に急ぐ。
 




