560話 「だいたいこいつが悪い その1『老害』」
そこには直径三キロメートルの『青い海』があった。
本来ならば湖と描写したほうが正しいのだろうが、水は常に動いて大きな流れの中にあるので、ここに住んでいる者たちは海と呼称している。
海の縁には白い砂浜があり、空を見上げれば太陽が輝いていた。
植えられている植物の雰囲気も南国のビーチを彷彿とさせ、何も知らない者が見たらハピ・クジュネと間違えるかもしれない。
だが、ここは地上ではない。
この海も砂浜も太陽もすべて人工物であり、グラス・ギースの地下深くに存在する『マングラスの本拠地』である。
「なんだと? ジジイが帰ってきた?」
海に浮かんだ『水漂殿』の中、うっすらと文様が刻まれた青白い石材で造られた部屋にユシカがいた。
彼の本名はグマシカだが、当人がその名をあまり好まないので、ひとまず表記上はユシカとしておこう。
その彼の前にはセイリュウがいる。
地上の都市部で治安維持を担当していたはずだが、緊急事態が起きたので戻ってきたのだ。
「はい。東門で騒いでいたところを我々が確保いたしました」
「東門? 地上…のか? うそ…だろう?」
「残念ながら本当です」
報告を聞いたユシカは激しい目眩に襲われる。思わず椅子から転げ落ちそうになったので、よほど動揺したのだろう。
事実、これは大問題だ。
東門はマキが門番をしていたグラス・ギースの公用出入り口である。さらには真昼間だったこともあって大勢の一般人がいたはずだ。
「すでに頭が痛いが…詳細を聞かせてくれ…」
「かしこまりました。実は―――」
話によると、戻ってきた『男』は東門に到着するや否や「グマシカはいるか? おじいちゃんが帰ってきたぞ」と堂々と言ってのけたという。
慌ててセイリュウが駆けつけて保護したが、その段階でかなりの注目を浴びていたので証拠隠滅は不可能。
仕方なく頭のおかしい人として処理する。暖かくなると定期的に変な人が出てくるものだと強引に納得させたという。
その報告にもユシカはショックを受け、頭を椅子の背もたれ(石製)に勢いよく激突させる。
そして、当然ながら激怒。
「あのジジイは何を考えているんだ! 馬鹿なのか!? どうして転送装置を使わない! しかも俺の名前を出すなどと!」
「まだ記憶が混濁する時があるようでして、一時的に装置の存在を忘れてしまったようです。かなりご高齢ですので」
「ボケ老人め! くそっ、ソラビロとヒロゾラがいれば事前に探知できたのに!」
「私も完全に油断しておりました。申し訳ありません」
「いや、セイリュウは悪くないんだぞ。都市の治安維持を任せたのは俺の判断だ。その隙に勝手に出歩くジジイが悪い」
ちなみにクルル追跡で大いに役立ったソラビロとヒロゾラの両名は、因子データを元にクローンを生成中である。
記憶の移植は現状の技術では難しいが、エメラーダから継承された技術でもあるので、能力的にはほぼ同じ個体を生み出すことが可能となっている。(エメラーダは記憶の継承もできる)
このあたりを少し詳しく述べると、地球のクローン技術がそうであるように通常の複製体にはさまざまな欠陥が存在する。
生成過程でどうしても生じてしまう遺伝子疾患もあるし、場合によっては死産することもある。総じて寿命が短いのも特徴的だ。
しかし、複製技術の先駆者である赤賢人は、特殊な液体鉱物を使うことでほぼ完璧に因子のデータ保存に成功している。
エメラーダにもその『核』が埋め込まれているため、新たな肉体を作って移植すれば記憶も移植できる仕組みだ。いわば魔神の核に近いだろうか。(精神体に複数の記憶領域を持っているのも強み)
もちろんこれは賢人の超技術の結晶なので真似はできない。が、マングラスは独自に模倣品である『疑似エメラルド』を開発した。
この疑似エメラルドが何かといえば、キャロアニーセの心臓に寄生していた【人工魔石】のことである。
彼女は事故で意図せず寄生されてしまったのだが、あれには寄生した者の因子データをコピーする能力があり、マングラスの方舟に持ち帰ることで因子の保存が可能となっている。
この時、本当の標的はアニルであり、金獅子の因子の保存が目的であった。領主への貢物として外からやってきた商人を使って贈らせたのだが、誤ってキャロアニーセに反応してしまったのが真相である。
疑似エメラルドは因子が強い者が使えば死に至ることはない。その意味でいえば、キャロアニーセは身体は強くても因子はアニルより弱いことを示している。(それだけ五英雄の因子が強い)
とはいえ、疑似エメラルドを完成させるために幾多の人体実験を行ったことからも、ユシカたちは寄生された人間が死んでも因子さえ残ればよいと考えている節はある。自身らがすでにそういう存在だからだ。(一般人での実験では死者が多数出ている)
ソラビロとヒロゾラに関しては、他の黄劉隊員を含めて翠清山に入る前に人工魔石を回収している。そうでなければ、あのような貴重な能力者を貸し出さなかっただろう。
クローン自体が禁忌に触れる技術であるが、もはや血筋が潰えたマングラスにそんな倫理観は残っていないし、強力な武人のクローンは作れない等々、さまざまな制限があるので好き勝手はできない。
ユシカが人工魔石である『ツイン・エメラルド〈相反する水の慈愛〉』を使っているのも、一度死んだ肉体をクローン技術を使って蘇生させた時に無理が出たからだ。
あの魔石が生命維持装置の役割を果たしているので、かろうじて生きているにすぎない状態といえる。
「ジジイは今どこだ!? 文句を言いに行ってやる!」
「戻って早々、研究所に篭もられました。また何か持ち帰ったようで、こちらの呼びかけにはまったく応じません」
「ふざけやがって! 無理やりにでも叩き出してやるんだぞ!」
「お供いたします」
激怒したユシカは、セイリュウを連れて水漂殿の地下に向かう。
この浮島は不思議な造りになっており、鏡写しのようにまったく同じ形の宮殿が真下にも存在している。
水漂殿が文字通りに浮かんでいる宮殿だとすれば、こちらは水の中に沈んでいる『水籠殿』と呼ばれる宮殿である。
そこには男が八百年近く研究を続けている実験施設があった。
ユシカが研究室の前に到着すると、ガンガンと強めに扉を叩く。
「おい、ジジイ! 出てこい! 何をやっているんだ!」
「………」
「こら! 返事をするんだぞ! ガンガンガン!」
「うるさい! 今いいところなのだ! 邪魔をするでない!」
「また何か悪さをしているな! 出てこないと扉をぶっ壊すぞ!」
「へへーん、やれるもんならやってみるがいい! ベロベロバー!」
「本当に壊すからな!」
ユシカが扉を破壊しようと拳で殴りつけるが、表面がへこんだものの、すぐに元通りになった。
それからも本気で何度も叩くが、やはり扉は壊せない。
「セイリュウ、お前も手伝え!」
「承知いたしました」
セイリュウも青龍刀を取り出して扉を斬るが、やはりすぐに復元してしまう。
この青龍刀はコウリュウが使っていた蛇矛と同じ災厄遺物であり、そこらの術式武具を遥かに凌ぐものであるものの、結果は同じであった。
「ちっ、かなり高度な術式を使ってやがるな」
「いかがいたしましょう? 龍化すれば壊せるかもしれませんが、それでは施設にダメージが入ってしまいます」
「ジジイの説教のために壊すわけにはいかないんだぞ。だが、文句だけは言ってやる」
幸いなことに声は通るので、ユシカは大きく息を吸って大声で叫ぶ。
「おい、ジジイ! どういうつもりだ! 俺たちが翠清山で苦労している間に好き勝手やっていたらしいな! そもそもクルルザンバードを逃がしたのも、ジジイが勝手に封印を解除したからなんだぞ!」
「すべては研究のためだ! 我慢せい! あのほうが因子を調べやすかったのだ!」
「後処理にどれだけ苦労したと思っている! しかも封印の間にあった『初代様』も勝手に持ち出したな! なんて罰当たりなことをするんだ!」
「いいんじゃ、いいんじゃ! あれは僕のものなんだもん! グマシカなんか嫌いじゃ! あっちいけ!」
それ以降は何を言っても反応すらなく、頑として研究室から出てこない。
「くそっ! 腹立たしいやつめ! しかしジジイのやつ、本当に復活したらしいな。機械音声ではなく、ちゃんとした肉声だったぞ」
「そのようですね。御姿も昔のものになっておりました。我々が出会う遥か以前の若きものです」
「…あの写真は本当にジジイだったのか。機械だらけのミイラ姿からは想像できないんだぞ」
ユシカが知っているジジイは、身体中を機械化して包帯でぐるぐる巻きにした怪しいミイラ姿をしていた。
初めて出会った頃からその姿だったので、長い時間を生き延びるために機械化技術を自らの身体で試していたことがうかがえる。
そもそもマングラスの因子改造技術は、エメラーダから技術を奪った男の研究成果である。
術士としての才覚は師のエメラーダが認めるほどであり、間違いなく天才と呼ばれる人種だろう。その意味ではアンシュラオンの兄弟子でもある。
がしかし、天才がゆえに『頭がおかしい』。
遺跡でやっていたような奇天烈な言動はもとより、クルルザンバードが脱走した件でも彼が関わっているし、平然と禁忌の技術すら試すことから普段はこの宮殿に閉じ込めて隔離していた。(研究施設だけは自由に行き来できる)
それがユシカが翠清山に向かっている間に脱走。どこかに行っていたのだが、つい先日になって戻ってきたというわけだ。
「だが、ジジイが復活したのも初代様の力を奪ったからだ。まさか守護者を突破するとは思わなかった」
「あの牛神には我々でさえ勝てません。それを単独で折伏するとは、さすがご隠居様ではありますが…」
「ますますジジイがヤバい力を得てしまった。制御できない力は危険なのに。といっても忠告を聞くようなやつじゃないし、出てくるまで放置するしかないんだぞ…」
結局、その老害が出てきたのは一ヶ月後。
いきなり水漂殿にやってくると、ユシカの前で両手を広げて叫ぶ。
「グマシカ! 見ろ! すごいぞ!」
「何がすごいのかはわからんが、その前に弁明はないのか?」
「何がだ?」
「封印の間を解放したのはいいが、勝手に初代様を持っていっただろう。あれは俺が適合するはずのものだったんだぞ。そういう約束だったはずだ」
「どのみちお前には無理だ。因子が死んでいるからな」
「ジジイだって傍系なんだぞ」
「傍系だが『実弟』でもある。適合の確率はお前よりも何百倍も上だ。へへーん、悔しかろうて! このゴージャスなジジイの姿を見るがいい!」
このジジイ、もう『傀儡士』と呼ぶが、たしかに若返った姿はマングラスの血を引いていることが一目瞭然だ。そのブルーの髪の色が何よりの証明である。
一方でユシカの髪の毛は黒い。これには移植された因子が大きく影響しているのだが、とにかくマングラスの因子が壊れていることは事実だった。
「だが、お前からもわずかに因子の波動があるな。山で何かあったのか?」
「ディングラスの波動を受けただけだ」
「ほー、今のディングラスの当主は誰だったかな? そこまで強い金獅子の因子を持っているとは興味深いものだ」
「ふん、ジジイには関係ない。どうせ五英雄には興味がないだろう?」
「まあ、そうだな。どちらかというと敵だからな。それより見ろ! 来い! すんごいものが出来たのだぞ!」
「勝手にやってろ。人形遊びに興じるボケ老人なんて、ただただ哀しくなるだけなんだぞ」
「ジジイ、ショック! 来い、哀しい! ジジイ、寂しい! ゲッチュ! ここにゲッチューー!!」
「あー、引っ張るなよ! その顔と肉声でやられるとイラッとするんだぞ。おおかた研究結果を自慢したいだけだろうに。今度は何をやったんだ」
「くくくく、聞いて驚け。災厄に対抗できる切り札が出来たのだ!」
「切り札? 前にもそんなことを言って何かを作っていたんだぞ」
「あれは未完成だったが今回の遺物によって完成に至ったのだ。といっても、まだ完全体ではないがな。外装も付けねばならんし、意思の調整も必要になる。ほら、早く速くぅううう!」
「よくわからんが…ちょっと見るだけだぞ。あまり入りたくないしな」
傀儡士に引っ張られて渋々研究室の中に入る。
研究室は、まさに我々が想像する禍々しい実験施設であり、謎の液体にひたされた肉塊や目玉が並んでいたり、因子改造実験をしたと思われる半人半獣の身体が無造作に転がっていたりもする。
片付けもしていないので、そこらじゅうに機械類が散乱していて足の踏み場もない。入った時に踏んだ粘液が何なのかも不明だ。
(ジジイは節操がなさすぎるんだぞ。マングラスの品位がどんどん落ちていくな)
いくらマングラスが災厄に対抗するために倫理観を捨て去ったといっても傀儡士ほどではない。
この男は初代五英雄たちに対しても反逆を企て、あまつさえ災厄を引き起こして、一時期はグラス・タウンを壊滅寸前にまで追い込んだ狂人だ。
このマングラスの本拠地も、傀儡士が封印されていた『水牢殿』を改造したものである。
しかし傍系とはいえ、五英雄の時代から生きている本物の初代の系譜であり、その知識量も技量も並ではない。新しい研究成果には興味が湧く。
そして、研究所の一番奥には、一体の『女の人形』が鎮座していた。




